記号と少女とビスマルク
「世界ごと、あなたを消す。それが私の最初の贖罪」
「ねぇ、朝霧君ってなんでいっつも勉強ばっかりしてるの?」
「さぁどうしてだろうね。でも勉強するのは、楽しいよ?」
それはある霧の濃い朝のこと。少年は見知らぬ同級生に声をかけられた。そして、なんだかよくわからない、それでいて、自分に言い聞かせているような、そんな語調をはらんだ答えを返した。私はね、とその同級生は続ける。
「朝霧君の気持ち、わかるよ」
真剣な眼差しでそう言う彼女に、少年は呆れるような驚くような顔をする。少年はしかし、その表情をすぐに微笑に戻し、落ち着いた声で彼女に言う。
「ごめん。でも絶対、君にはわからないよ」
その揺るがない口調に彼女はほんの少し寒気を覚えた。言葉こそ優しいが、こんなにもきっぱりした態度で『拒絶』を示されるのに彼女は慣れていなかった。それほど彼女は豪胆ではなかった。だが、彼女は少年に対して退かなかった。
「私、如月弥生。旧暦の二月と三月。ややこしいでしょ? どっちなんだ!っていうね。あ、でも私は十一月生まれなんだよ。ますますわけわかんないでしょ? いやホント、笑っちゃうよね」
「良い、名前だね」
「あ……。ありがとう」
捲くし立てる彼女にポツリと少年は言う。彼女は意表をつかれ、言葉につっかえる。じゃあね、と早口で言いながら彼女は慌てて少年の席を離れる。少年は参考書に目を向けて、別のことを考えていた。
少年の思いを彼女は知らない。だから世界は変わらない――変われない。
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名前は記号だ。記号とは即ち、君をわかりやすく判別する為の道具に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない、ただの道具。しかし、掛け違えたボタンは永劫に見逃され続ける。道具以下の人間よ。
ヨツヌン・ゲッシュ著『神はねじを逆向きに巻いた』より一部抜粋
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少し溜息を吐き、僕は小さな少女の寝顔を見る。少女は女神もかくやと、神秘的な様相を呈している。この鼻提灯などまさに、神秘的である。誰がなんと言おうと神秘的である。と言えと彼女が言ったのだ。
「むにゃむにゃ、ビシュマルク。お前もか! むにゃにゃ~」
「どんな夢見てるんだよ。ってかビシュマルクって誰?」
僕も寝よう。もうひと頑張りしてから。ふぁわーあ。
「むにゃ~、パンが無いなら、ビシュマルクを食べればいいじゃない。にゃむにゃむ~」
「もう、考えるだけ無駄か」
う~んビシュマルク~などと鼻提灯を揺すりながら心地よさ気にこぼす少女の声を無視しながら、僕はもうひと頑張りして、寝た。
「にゃにゅ~ビシュマルク~。く、く、く――クルーシオ!」
「もう止めてあげてー」
「世界ごと、君を救おう。それが僕の最後の我が侭」