愁傷
僕はその日、真夜中に目が覚めた。
普段、一度寝てしまったら目覚まし時計の音色が部屋を覆い尽くすまで起きる事が無い僕だったが、その日はふと目が覚めたのだ。
瞳を開けて見ると辺りは黒で塗りつぶされていた。何も見えないので直ぐに夜中だと言う事に僕は気付いた。
夜中に起きていてもすることは何一つ無い。だから、もう一度眠りに付こうと思い目蓋を閉じた。けれども眠気は一向に襲ってくることは無く、頭は完璧に冴えてしまったようだ。羊の数を数えてみても結果は同じ。眠る事が出来なくなったので、仕方無くゆっくりと上半身を起こす。
先ほどまで何一つ見えなかった暗闇に目が慣れてきて、少しずつ何がどこにあるのか見えるようになってきた。脇に置いてあった時計を確認する。午前三時。僕は徹夜しようとしても、いつも一時位には睡魔に負けて布団に突っ伏している人間であるので、この時間帯に目を覚ましている事は今まで無かった。
その事に対して少し驚きながら、僕は首を横に向け部屋を見渡す。そこはゴミ箱を引っ繰り返したかのように色々な物が散乱していた。――脱ぎ捨てられたまま放置されている洋服の山。雑に放り出された鞄。使い古された教科書や文房具。中身を食い尽くされた菓子袋。吸殻が山ほど溜まった灰皿――。それらは僕がまったく整理整頓を行わない人間だと言うことを物語っているようだ。
混沌とした我が部屋を見て自然とため息が出てくる。まったくもって僕には生活能力と言うものがミジンコ一匹分も無いみたいだ。足の置き場が無くなる位まで散らかるなんて一体何をしていたんだ。そう自分を叱咤してみる。――まあ、こんな風になるだろう事は一人暮らしを始める時から分かりきっていた事だ。しかしながら、これだけ荒れていれば生活するのが困難になると言うのが分かっている癖に、何も片付けをしない自分自身に対して苦笑してしまう。もう少しだけで良いから、真面目な人間になっていればこんな事は思わなかっただろうに。まったく、なんて駄目人間なんだ。
そんな風に自己嫌悪をしていると、なんだか無性にタバコが吸いたくなってしまった。僕はベッドから降りるとタバコとオイルライター、そして灰皿を手にし、色々な物を踏みつけながらもベランダへと向かう。タバコを吸い始めてから二年たったけれど、もはや完璧な中毒者になってしまったようだ。こんな日のこんな夜にはなおさら吸いたくなってくる、と言うのも多分、おそらく、きっと、中毒がもたらした感覚なんだろう。そう勝手に思う事にする。
カーテンを開け、窓を開けると冷たい風が僕を抱擁するかのように吹き込んできた。今は三月上旬。季節で言えばもう春なのだけれども冬の名残がまだまだそこには残っていた。寝巻き代わりのジャージだけではまだ肌寒い。そして僕の部屋はマンションの十一階。高くなれば高くなるほど必然的に風は強くなってくると言うのを僕は身をもって体感していた。
寒さと強さが混ざり溶け合った風を全身に浴びて少し身震いをする。何か上に羽織ろうか、とも考えたが止める事にした。タバコを吸ったら直ぐに寝るだろう。そう思ったからだ。
僕は窓枠に寄り掛かりながら腰を下ろす。そして、外の風景を瞳に入れた。
ベランダから見える街は真夜中にもかかわらず星のように輝いている。いや、まるで満天の夜空をそのまま地上に映したかの様だ。
その星のような街灯は、数えるのが嫌になる位沢山あり、一つ一つ、しっかりとした輝きを持っている。それは人が創り出した暖かくも軟らかくも無い、無機質な光、無意義の幻想。その光景は誰でも創り出すことが出来る安っぽく薄っぺらいモノ。
だけれども何故だか僕の瞳には、とても、とても素晴らしいモノに見えた。
――見て見て! 凄く綺麗だよ!
カチリ、とオイルライターの火を灯す。そしてタバコに火を点ける。小さな火種が暗闇の中で微かに瞬き、辺りを静かに照らしだす。ああ。初めてこのオイルライターに火を灯した時よりも勢いが衰えているな。前はもっと明るかったのを覚えている。何ヶ月も経っているから当たり前の事なんだろうけど、今の今まで気付いていなかった。と言うよりも気にしていなかっただけかも知れない。おそらく今日、こうやって火を点けなかったら点かなくなるまで何とも思うことは無かっただろう。
くだらない事を思いながら、ゆっくりとタバコを吸い、ゆっくりと燻らす。吐き出された紫煙は風に煽られ散り散りに消えていく。その後には何の欠片も残ってはいない。それはまるで、存在を根こそぎ奪われてしまったかのようだった。
吸っては吐く。そんな行為を繰り返し、ぼんやりと吐き出された煙の行く末を眺めた。
なんて、脆い。
――タバコは体に悪いんだよっ。
短くなったタバコを灰皿に押し付け火種をもみ消す。やはり吸殻の量が多すぎて消し辛い。――後でちゃんと捨てておかなければいけないな――そう心の中でぼやき――おそらくする事は無いだろうけど――と頭の隅で考えてしまう。こう云った所が片付けをしなくなる原因かもしれない。面倒臭がりな性格がよくあらわれていて、少し悲しくなる。
起きてから何度目かのため息を付くと、僕は新しいタバコを取り出し、火を点け、また吸う。吸う度に火種は明るくなり、吸うのを止めると霞んでいく。煙を吐くたびにそれは風に消されていく。
僕はそれをただひたすら、ぼんやりと眺める。
火種。
吸引。
吐息。
紫煙。
夜風。
煙滅。
その、繰り返し――――。
――ボーっとするのは人生無駄にしているのと同じ事だから止めた方が良いよ。
視線を煙から再びベランダの方へと移す。先ほど眺めたときと何も変わらずに街がさんさんと輝いている。
そして僕は視線を上へと――空を見上げた。
暗黒世界。そんな言葉そのものみたいな世界に小さな星がポツリポツリと寂しく散らばっていて、微かな光が目に飛び込んでくる。その光は頼りない位の明るさしかない。やはり空気の綺麗な所、山の中とかビル街から遠く離れた田舎町でなければ、犇き合うような星空を目にする事は出来ないのか。
街の星と空の星。比べると、街の方が断然明るい。数も多い。強く輝いている。だけど空の星はそこまで明るくないのに何故だか心に突き刺さる。それは人工と自然の差。目的があって作られたのか、理由もなしに創られたのか。それだけの違い。なんだ。やっぱり夜空の方が素晴らしいじゃないか。
そんな風に思った自分の考えに対して苦笑する。なんて下らない事を考えているんだろうか。星がどうであれ街灯がどうであれ、美しいモノには変わりが無い。どちらもしっかりとそこに存在している。それで良いじゃないか。
空に目を移すと、僕の前から消えてしまうかの様な光。
下を向くと、精一杯存在を証明するかの様に見える光。
その二つの景色は、僕を感傷的にさせていくような気がして、綺麗だなぁ、と僕は小さく呟いた。
そうして、ふいに僕は気付く。
タバコよりも街灯よりも星よりも光り輝くモノを。
――じゃあ今日は満月記念日だね。
もう、駄目だった。
もう、抑えることは出来なかった。
頭の奥、いや心の奥底から記憶が、幸せだった頃の幻想が、止まる事を知らない濁流のように、大量に溢れ出してくる――彼女の可愛らしい小さな顔。水を梳いているかのように櫛が通る黒髪。抱き締めると壊れてしまうんじゃないかと思うくらい細い身体。僕の手よりもずっとずっと繊細な手の平。透き通るかのような高い声で楽しそうに笑う姿。頬を膨らませて、でも全然怖くない怒った表情。掃除を全然しない僕を見て呆れた顔をする彼女。見ている僕が苦しくなってしまう様に、哀しそうに眉を下げた顔。恥ずかしそうに頬を赤らめている姿。小さく綺麗に微笑みを見せる彼女――そんな彼女と今まで過ごしてきた色とりどりな思い出――。
その全てが僕の眼の裏に浮かび上がってくる――。
「見て見て! 凄く綺麗だよ!」
君のほうが綺麗だとは恥ずかしくて言えるはずも無かった。
「タバコは身体に悪いんだよっ」
それじゃあ、なんでオイルライターなんかをプレゼントしてくれたんだ。
「ボーっとするのは、人生無駄にしているのと同じ事だから止めた方が良いよ」
自分でも分かっていたけれどいつの間にかそうなってしまうんだ。
「じゃあ今日は満月記念日だね」
ただ手をつないだだけじゃないか。でも嬉しかった。
思い出さないように栓をしていたのに、もう止まらない。耳をふさいでも目を閉じても、何も考えないようにしても、彼女との過ごした日々の記憶は頭の中で映画のように再生されていく。僕の声がする。彼女の声がする。楽しそうに笑いあっている。やめろ、と僕は叫んだ。けれど、それは声にすらならない。ただ小さな嗚咽が漏れただけだった。
ああ。そうさ。最初から分かっていたんだ。僕が何で真夜中に目覚めたのかを。たた。気付きたくないだけだったんだ。その理由に。その事実に。それを認めてしまったら、彼女が居ないのを認めてしまいそうだったから。
思い出と共に僕の瞳から涙がこぼれ出す。僕は頭を抱えてうめく。胃や腸が千切れるほど痛い。ああ。なんて僕は弱いのだろうか。僕は何一つさえ手に入れる事は出来なかった。手に入れたと思った瞬間、指と指の僅かな隙間から零れていく様な水みたいに、それは通り抜けていった。そうして僕の手の平に残ったものは、僕が愛していた彼女の儚い幻想、彼女をもう一度抱き締めたいという願望とそれが永遠に叶う事は出来ないと言う事実、そして、僕の心をひたすら締め付ける悲哀の感情だった。
そう。もう彼女はこの世界のどこにも存在していなかった。
彼女が死んだのは僕が原因と言うわけでは無い。――だけど。どうしても。どうしても僕はこう思ってしまうんだ。――僕は一体何をしてきたのだ、と。僕がこれまで歩んできた人生は一体なんの役に立ったのだ。僕が経験してきた事は僕が生きていく為のモノなのだろう。だけれど、その僕が生きていく為の経験は僕を生かす為だけのモノであって、それは何一つ彼女の為になりはしなかった。何一つ彼女を死という運命から助け出すことは出来なかった。何も出来なかった自分は本当に。
なんて、無力なんだろうか。
なんて、哀しいんだろうか。
なんて、虚しいんだろうか。
僕はただ、声にならない嘆きを奏で、断腸の思いを抱き、自己嫌悪をして、彼女の思い出に対して涙を流す。そんな何にもならない様な事しか出来なかった。
月の光。星の光。街灯の光。それらが僕を優しく包み込むけれど、それはなおさら僕を悲しみの渦へと導いていくだけだ。
今、僕が求めているモノは優しさなんかでも叱咤なんかでも、ましては哀れみなんかでもない。ただ、彼女に居てほしいだけなんだ。でも、それは叶わない。叶う事は無い。
僕は泣いた。泣き続けた。
そして、今日が何の日なのかを思い浮かべる。
今日は彼女が亡くなって一ヶ月。
今日は彼女の誕生日――。
「Happy birthday」
答えてくれる人はもう居ない。
「Happy birthday」
僕の声は風の中に消えていく。
「Happy birthday」
もう、彼女に届くことは無い。
――Happy birthday