第06話 変人と天才と、分業の夜
宿に着いたのは夕刻前だった。
ゴードンがカウンター越しにルッツを眺め、ゼンに目を向けた。「誰だ」という顔をしていた。
「術師だ。しばらく出入りする」
「部屋代は」
「俺が持つ。空き部屋を一室、作業場として使わせてくれ。追加で銀貨5枚払う」
ゴードンは一秒考えてうなずいた。商談の速度は常に最速だ。
ルッツは話を聞いていなかった。宿の入り口から裏庭の方向をじっと眺めている。
「聖座はどこだ」
「こっちだ」
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実演機を設置した空き部屋で、ルッツは最初、使わなかった。
使う前に、まず観察した。
正面から。横から。後ろに回り、膝をついて底面を覗き込んだ。磁器の表面を指でなぞり、爪で軽く弾いた。
「この磁器の表面、摩擦係数がほぼゼロだ」
「そうだ」
「どうやった」
「成形の時点で分子配列を制御した。焼結後に削り込んでいない」
ルッツの目が細くなった。
「成形時に、分子レベルで?」
「俺の固有スキルだ。普通の土魔法ではできない」
ルッツは何も言わずに、羊皮紙を取り出してメモを走り書きした。それから立ち上がり、便座に手を当てた。
「温かい。常時加熱しているのか」
「魔石の加熱術式で常時38度を保っている」
「魔石の消耗は」
「標準使用で月に二割ほど。三ヶ月に一度の交換を推奨している」
また走り書き。
「使っていいか」
「そのために来たんだろう」
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ルッツが個室に入り、扉が閉まった。
ゼンは廊下で待った。
グラムの時も、ティボーの時も、バルドスの時も、エッゲルの時も、ライゼルの時も、ここで待った。
毎回、扉の向こうの反応は違う。
五分が経った。
扉が開いた。
ルッツが出てきた。表情が、入る前と何かが違った。泣いてはいない。青ざめているわけでもない。ただ、目の焦点が、目の前ではなく、少し遠いところを向いていた。
彼は廊下に座り込んだ。壁に背中をつけて、膝を立てた姿勢で。
羊皮紙を取り出し、書き始めた。
(また書く)
ゼンは黙って壁に寄りかかった。
五分後、ルッツはまだ書いていた。十分後も。二十分後も。
「終わったか」とゼンが聞いた。
「黙れ」とルッツが言った。目を上げずに。
三十分後。
ルッツがペンを止めた。
「水温の制御に、同時に何点の制御ノードを使っている」
「正確には計算していないが、十数点だと思う」
「十七点だ。俺が数えた」
ゼンは少し驚いた。体験しながら術式を数えたのか。
「それを同時に動かして、誤差を0.1度以内に収めている。どうやった」
「慣れだ。精密構成を使い続けて身についた感覚がある」
「感覚で十七点を……」
ルッツは羊皮紙を膝の上に置き、ゼンを見上げた。
「水圧の射出角度も見た。あれは黄金角を使っているな。43度だ。骨格への負荷を計算して設定したのか」
「そうだ。人体工学の知識から導いた」
「人体工学という言葉をどこで覚えた」
「前世だ」
ルッツは一瞬止まったが、それ以上は聞かなかった。技術者として、答えは答えであればいいのだろう。
「これは恐ろしい術式の体系だ」とルッツは言った。静かな声で。「俺が二十年かけて積み上げた理論の半分が、あの設備の中に詰まっている。そしてもう半分は、俺が知らないものだ」
ゼンはしばらく答えなかった。
「解析できるか」
「できる。時間があれば」
「転写は」
「……難しい。でも、できると思う。一ヶ月もらえれば確信に変えられる」
(一ヶ月か)
思ったより早い。ゼンの当初の見立ては三ヶ月だった。
「報酬の話をしよう」とゼンは言った。
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夜になった。
ゴードンが食事を運んできた。ゼンの部屋に二人分。パンと豆のスープとチーズ。
ゼンは食べた。ルッツは術式見本板を光に透かしながら、食べなかった。
「食え」
「あとで」
「今食え。頭は糖が要る」
ルッツは渋々スープに手を伸ばした。一口飲んで、また術式見本板に戻った。食べながら分析している。
「で、報酬は何がいい」
「工房。道具と素材の補充は定期的に。あとは……」
「あとは」
「お前が集めているデータが欲しい。1号店と2号店の利用者数、水の消費量、温度の変化ログ。全部」
(データか)
ゼンは内心で少し笑った。
この男が欲しいのは金ではなく情報だ。王都の地下水脈を十年研究してきた人間が欲しいのは、実際の運用データだ。理論と現実を繋ぐ橋が欲しい。
「データは渡す。加えて月に銀貨7枚を払う」
「5枚でいい」
「7枚だ。お前の時間は7枚の価値がある」
ルッツは口をへの字に曲げた。反論しかけたが、止まった。
「……わかった」
「もう一つ条件がある」
「なんだ」
「術式の転写以外に、別の仕事も一つ引き受けてほしい」
「内容は」
「王都の地下水脈の調査報告書を作ってくれ。上水道と下水道の整備計画の基礎資料にする。財務大臣に提出する予定だ」
ルッツの手が止まった。
「財務大臣に、提出する」
「そうだ。ライゼル卿が許可を出している。王城の水源調査も含む」
ルッツはしばらく黙っていた。
それから、静かな声で言った。
「俺が十年やっていたことが……役に立てるのか」
「役に立つ。今すぐ役に立つ」
また沈黙。
ルッツは術式見本板を机に置き、両手を膝の上に乗せた。
「……銀貨7枚でいい。受ける」
「よし」
握手した。ルッツの手が少し震えていた。興奮か、疲労か、あるいはその両方か。
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夜が深くなった。
ルッツは術式見本板を前に、帳面に書き続けていた。
ゼンはその横で、城内設置用の本体の成形を始めた。十台分。毎晩少しずつ進める。
黙々と作業した。
二人とも話さない。しかし沈黙が重くなかった。同じ方向を向いている人間同士の沈黙は、不思議と心地よい。
深夜、ルッツが口を開いた。
「この術式、五層の再帰構造になっている」
「そうだ」
「普通、水魔法の制御術式は二層だ。複雑なものでも三層。五層は見たことがない」
「効率を上げるために重ねた。最初は二層で設計したが、精度が出なかった」
「独力で五層に辿り着いたのか」
「試行錯誤だ。何度も作り直した」
ルッツはしばらく黙っていた。
「俺は理論でその必要性を証明するのに五年かかった。お前は実験で辿り着いた」
「どちらが先でもいい。今できることが大事だ」
「……そうだな」
ルッツはまた書き続けた。
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夜明け前、ルッツが立ち上がった。
「試みていいか。転写を」
「今からか」
「今が一番頭が動いている」
(夜通し書いて今が一番頭が動いている人間か)
ゼンは道具を片付けて場所を作った。
ルッツが磁器の試験片を置き、手をかざした。
静かに、ルーンを刻み始めた。
ゼンは黙って見ていた。
ルッツの刻み方は、ゼンとは全く違う。ゼンは感覚で刻む。ルッツは分解した手順を、設計図を追うように丁寧に積み上げていく。どちらが良い悪いではない。ただ、やり方が違う。
十五分後、ルッツが手を引いた。
「できた」
「確認する」
ゼンは試験片に【精密構成】を当てた。術式の構造を読む。五層の再帰をひとつずつ確認する。
……96.8パーセントの一致だ。
「96.8だ。水温が0.4度ずれる。第四層の接続が薄い」
ルッツはすぐに帳面を開き、書き込んだ。
「わかった。第四層を重ねる手順が一つ飛んでいた。もう一度」
二回目。十二分。
ゼンが確認した。
「99.1だ」
「まだ足りない」
「これで動く。実用品として成立する」
「俺の納得が足りない」
ゼンは少し笑った。
「もう一度やれ。俺も少し休む」
三回目。十分。
ゼンが確認した。
「……99.7だ」
ルッツが手を止めた。顔を上げた。
「どうだ」
「合格だ。これは本物だ」
ルッツはしばらく、自分が刻んだ術式見本片を見つめていた。
それから、深く息を吐いた。
「俺は、こういうことがしたかった」
ゼンは答えなかった。
答えなくていい言葉だと思ったから。
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朝が来た。
ゼンは帳簿を開き、新しい列を作った。
「生産体制(改訂)」
ゼン単独:1.5台/日 ルッツ:1台/日(術式転写のみ。精度熟練後は1.5台/日見込み)
合計:2.5〜3台/日
城内10台:4日で完了可能。
バルドス邸の追加2台(要望が来ていた):1日。
3号店設置:その翌日から着手可能。
数字が動き始めた。
そこへ、ゴードンが顔を出した。
「ゼン、昨日の夜に手紙が来てた。東区の宿屋の主人からだ。聖座を設置したいと言ってる」
「明日、会う。今日は城の分を優先する」
「了解。……こっちの人は朝飯はいるか」
ゴードンがルッツを見た。ルッツは机に突っ伏して寝ていた。帳面の上に顔を乗せて、完全に沈黙している。
「置いといてくれ。目が覚めたら食う」
「わかった」とゴードンは苦笑いして引っ込んだ。
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ゼンは城内設置用の本体の続きを始めた。
磁器を成形しながら、昨夜の99.7という数字を思い返した。
初日で99.7。一週間後には99.9に届くだろう。一ヶ月後には誤差がゼン自身と区別がつかなくなるかもしれない。
(量産が、できる)
その言葉の重みを、ゼンはゆっくりと確かめた。
量産ができれば、3号店・4号店が同時に進められる。城の10台も並行して作れる。バルドス邸の追加分も後回しにしなくていい。
今まで「作れない」という制約が、いくつもの機会を先送りさせてきた。
その制約が、今日の夜明けに崩れた。
窓の外、王都の朝が動き始めている。
市場への荷車の音。鍛冶屋の槌の音。どこかで鶏が鳴いた。
(清潔にしなければならない場所が、まだ無数にある)
ゼンは成形を続けた。
机の向こうで、ルッツがわずかに寝返りを打ち、また静かになった。
帳面のインクが乾いていく音がした。
革命は、二人になった。
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