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第05話 王の前でも、値切りは断る

王城は、遠くから見れば美しい。


 早朝の光を受けて白い石壁が輝いている。三本の尖塔。各所に翻る王家の旗。近づくにつれて彫刻の細かさが見えてくる。何代にもわたって積み上げられた権威の結晶だ。


 ゼンは東門に差しかかり、一歩足を踏み入れて、止まった。


(……やっぱりか)


 匂いだ。


 石造りの回廊に、かすかに、しかし確実に漂っている。香辛料と松脂を燃やしたお香の奥に、もうひとつの匂いが溶けている。

 王都の路地裏と、根っこは同じ匂いだ。


 どれほど豪華な石を積んでも、下水道がなければ壁の基礎に浸み込む。どれほど高価な香水を薫じても、根本の問題を解決しない限り、匂いは消えない。


(この城に住んでいる人間は、ずっとこの中で生活している。慣れ切って気づかないんだろう)


 ゼンは静かに息を吸い、吐いた。

 案内の衛兵が「こちらです」と先を歩いている。急がなければ。


---


 通された部屋は「執務の間」と呼ばれる小さな会議室だった。


 壁に地図。テーブルに書類の山。窓から中庭が見える。

 豪華な応接室ではない。ここは実際に仕事をする人間の部屋だ。


 男が一人、書類から目を上げた。


 六十がらみ。痩せた体に上等な黒いローブ。白髪をきっちりと後ろに撫でつけている。顔のどこにも無駄な肉がなく、骨の形が透けて見えるような精悍さがある。机の上に羽根ペンと帳面が三冊。


(帳面を三冊同時に開いている人間か。好きだ)


「ゼンと申す者だ」


 男が先に名乗った。


「ライゼル=カーウェンだ。王国財務を預かっている」


 やはり財務大臣だった。

 ゼンは向かいの椅子に座った。今回は促される前に。


 ライゼルは一瞬だけ眉を動かした。しかし何も言わず、書類を脇にどけた。


「単刀直入に言う。あの設備を、王城に設置してほしい」


「承ります。ご希望の台数と場所は」


「その前に、一つ確認がある」


 ライゼルは指を一本立てた。


「王室専属として、宮廷以外への設置をやめていただけないか」


(独占の要求、三人目だ)


 ゼンは内心で静かに数えた。バルドス子爵が「秘密にしてくれ」という形で独占を求め、エッゲルが「代理権を寄越せ」という形で求めた。今度は国家が直接「専属にしろ」と言ってきた。


「お断りします」


「理由を聞こう」


 ゼンは姿勢を正した。

 ライゼルは数字を扱う人間だ。感情ではなく論理で動く。ならば論理で話す。


「理由は三つです。一つ、私の生産能力は現状一人で対応しています。専属にしても生産台数は変わらない。王城のためだけに制約を設ければ、城外の顧客への機会損失が生まれるだけです」


 ライゼルは何も言わずにうなずいた。続けろという意思表示だ。


「二つ、私のビジネスモデルは設置後の維持管理と魔石交換による継続収益で成立しています。専属契約が交わされ、もし後に関係が悪化した場合、王室側にも私側にもリスクが大きい」


「三つ目は」


「私が専属を断る最大の理由です。——王都全体が清潔になることが、私の目標だからです。城だけを清潔にしても意味がない」


 部屋が静かになった。


 ライゼルは帳面を一冊取り上げ、ペンを走らせた。何かを書いている。書きながら、目だけをゼンに向けた。


「三番目の理由は、ビジネスの話ではないな」


「そうです」


「なぜ、王都全体を清潔にしたい」


 ゼンは一呼吸置いた。


「疫病を減らすためです」


---


 ライゼルの手が止まった。


「疫病と、衛生の関係を知っているか。この世界では、疫病は天罰だとか、呪いだとか、魔素の汚染だとか言われている。しかし原因の多くは違う。不浄な水と、人の排泄物から広がる目に見えない病原体だ」


「……根拠は」


「前世の知識です。証明はできません。ただ、一つだけ言えることがあります」


 ゼンは続けた。


「王都で五年か七年おきに流行する赤熱病と腸鳴り病。毎回、南の下層区画から始まって北の貴族街に及ぶ。なぜ南から始まるか」


 ライゼルは答えなかった。しかし目が細くなった。


「水が低い方へ流れるからです。南の区画で垂れ流された汚水が地下を伝い、井戸を汚染し、川に入り、北へ広がる。これを遮断すれば、疫病の発生頻度は大幅に減らせると私は考えている」


 沈黙が続いた。


 ライゼルはゆっくりと帳面のページをめくった。別のページを開いて、何か書き込み、また別のページに移った。


(計算している)


 ゼンにはわかった。

 財務大臣として、ライゼルは疫病のコストを正確に把握しているはずだ。防疫費用、治療費の補助、流行後の経済立て直し、死者による労働力の喪失、その全てを。


 数字が出る。


 数字が出れば、わかる。


 ライゼルは長い間、帳面を見ていた。

 それから、帳面を閉じた。


 立ち上がり、窓の外の中庭を向いた。


「……この国は、五年前の腸鳴り病で金貨八万枚の損失を出した」


 静かな声だった。


「それは表向きの数字だ。私が集計した実損は、二倍を超える。死んだ者の家族が払えなくなった税、空になった農地、街を捨てた商人。全部足せば、王国の年間歳入の三割近い」


 ゼンは黙っていた。


「それが、下水道と衛生設備を整えれば減らせると言う」


「すべてがなくなるとは言いません。しかし、発生頻度と死者数は確実に減らせます」


 ライゼルは窓の外を向いたまま、しばらく動かなかった。

 背中が、わずかに揺れた。


 肩が動いている。


 ゼンは視線を少し外した。

 見なかったことにした。


 財務大臣が計算の果てに揺れるのは、数字の人間として正直な反応だ。それを正面から見るのは、無礼というものだ。


 一分ほど経って、ライゼルは振り返った。顔は完璧に整っていた。


「……条件を聞かせてもらおう」


---


 交渉は三十分かかった。


 城内への設置台数:まず十台。内訳は衛兵詰所・厨房付近・侍女棟・賓客室棟に各二台、財務省の執務区画に二台。

 設置料:台数が多いため一台あたり金貨2枚半に値引き。合計金貨25枚。

 月次維持費:銀貨8枚。

 条件:城外への設置は継続可。王室専属は不可。ただし王族関係者への優先対応は約束する。

 追加条件(ゼン側から):城の設置にあたり、水源と排水経路の調査許可を与えること。


 最後の条件にライゼルは一瞬止まったが、うなずいた。


「上下水道の整備を視野に入れているということか」


「いずれ提案したいと思っています。そのための下調べです」


「……先が長い男だな」


「それが商売です」


 羊皮紙に双方が署名した。


 ゼンは立ち上がり、書類を鞄に入れた。

 ライゼルが静かに言った。


「ゼン」


「はい」


「五年前、腸鳴り病が流行したとき、私の妻が亡くなった」


 ゼンは手を止めた。


「大臣の妻が疫病で、とは珍しいと思うだろう。侍女を助けようとして罹患した。馬鹿な女だ、と今でも思う。しかし……」


 ライゼルは帳面を手に取った。開かなかった。


「もしお前の言う通りなら、あの病は防げたということになる。私はその答えを、この帳面の中でずっと探している」


 ゼンは何も言えなかった。

 何を言うべきかわからなかった。


「……急かすつもりはない。ただ、邪魔はしない。それだけ言いたかった」


「……ありがとうございます」


 ゼンは深く頭を下げ、執務室を出た。


---


 城を出たのは昼前だった。


 空が高い。王都の石畳が昼の光を返している。

 ゼンは革袋の中の書類を確認しながら、歩いた。


(金貨25枚と月額銀貨8枚の城内契約。それと、水源調査の許可)


 数字だけ見れば大きな一手だ。

 しかしゼンの頭は、ライゼルの最後の言葉で止まっていた。


 妻が、疫病で。


(俺の仕事は、そういう話なんだ)


 言い聞かせるように思った。

 清潔にすることは、衛生を整えることは、利益を出すための手段ではあるが——それ以上のことでもある。

 前世でも、住宅設備メーカーで働いていたとき、同じことを上司に言われた。「お前たちが設計したものが、何十万の家庭の朝を変える」と。


 その言葉を、ゼンは若いころ「綺麗事だ」と思っていた。

 今は違う。


(綺麗事でも、やることは同じだ)


 歩きながら、羊皮紙を取り出した。

 術師ギルドの顧問から受け取った名前が書いてある。


 「ルッツ」


 住所も書いてある。王都東区、石積み横丁の突き当たり。

 今日のうちに会いに行く予定だった。


 ゼンは方角を確認し、東へ歩き始めた。


---


 石積み横丁は、その名の通り、石を積んだ塀だけが続く細い路地だった。


 突き当たりの建物は、他の建物と比べて異様だった。

 窓のすべてに何かの紙が貼られている。外から見えないように。煙突からは昼間なのに白い煙が出ている。扉の前に空の桶が三つ積んである。


 ゼンがノックすると、中から「開いてる!」という声がした。


 入ると、床が見えなかった。


 正確には、床はある。しかしその上に羊皮紙が、本が、計算式が書かれた板が、水の流れを模した細い溝の模型が、大量に積み重なっていた。

 部屋の奥に、男がいた。


 三十代くらい。薄い茶色の無精髭。ローブは学者風だが首元が解けている。手が、何かの液体で染まっている。黄色だ。


 男はゼンを見るなり立ち上がり、それからゼンの持っている鞄を見た。


「あんたが、聖座の製作者か」


 開口一番それだった。


「そうだ。ルッツか」


「そう。話は聞いた、術師ギルドから」


 ルッツは部屋の中を二歩歩いて、また止まった。羊皮紙を踏まないようにしているらしく、歩き方が妙だ。


「術式を見せてほしい。ずっと待ってた」


「ずっと、とは」


「あんたのことを知ったのが三日前だから、三日間だけど」ルッツは真顔で言った。「俺にとっては十分ずっとだ」


(変わった男だ)


 術師ギルドの顧問の言葉を思い出す。「変わった男だが」。確かに、その通りだった。


「見せる前に、一つ確認させてくれ」


 ゼンは鞄から術式見本板を取り出した。


「これを読み解いて、別の磁器に転写できるか。できそうかどうか、まず判断してほしい」


 ルッツは板を受け取り、窓際に歩いた。光に透かすように、角度を変えながら見る。


 十秒。

 二十秒。

 一分。


 ルッツが振り返った。目が輝いていた。


「できる」


「確信があるか」


「ない。でも、やりたい」


 ゼンは少しだけ笑った。

 この男は、技術の話になったとき正直だ。それは信用できる。


「報酬の話をしよう」


「報酬より先に実物が見たい。あれは本当に動くのか」


「動く。実演機がある。見るか」


「見る」


 ルッツは返事と同時に外套を掴んで立ち上がった。羊皮紙を三枚踏みながら、それでも素早く扉に向かった。


(面白い人間がいるものだ)


 ゼンは実演機の入った鞄を担ぎ直した。


 今日の収穫は予想より大きかった。

 城内設置の契約。財務大臣の「邪魔はしない」という言葉。そして、おそらく最も重要なもの——術式を読み解ける人間との出会い。


 外に出ると、ルッツがすでに五歩先にいた。

 待てもせずに歩き始めていた。


「どこに設置するんだ」とルッツが振り返らずに言った。


「宿だ。王都の南端の宿」


「南か。南の地下の水脈は、確かにまずい。俺が十年調べてわかったんだが——」


 ルッツは立ち止まらずに、歩きながら話し続けた。

 王都の地下水脈の話。土壌の汚染分布の話。疫病の発生地点と井戸の位置の相関。


(この男、俺と同じことを別の方向から研究している)


 ゼンは少し黙って、歩きながら話を聞いた。


 やがて、静かに聞いてから言った。


「続きは宿で話そう。今夜、時間はあるか」


「ある。ずっとある」


「報酬の話もする」


「報酬の話は最後でいい。実物が先だ」


 石積み横丁を抜け、二人並んで王都の路地を南へ歩いた。


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