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第03話 1枚の紙が世界を変える

バルドス子爵邸の設置工事は、四日で完了した。


 使用人棟に標準グレード2台、私室に遮音強化の上位グレード1台。

 最後の魔石を装填し、術式の起動確認を終えたとき、ゼンは密かに安堵した。

 3台同時進行は予想以上に集中力を要した。【精密構成】は本来「精密さ」に特化したスキルだ。「速さ」は別の話である。


「問題なく動いている。残金を」


 ティボーが用意していた革袋を、無言で差し出した。

 金貨9枚。重い。


(合計で金貨14枚か)


 ゼンは帳簿を開き、数字を書き込んだ。

 1号店の累計収益を加えると、手元の資産は金貨16枚と銀貨17枚になる。

 追放された日に持っていたのは金貨1枚だった。一ヶ月足らずで16倍だ。


 順調に見える。しかしゼンには焦りがあった。


(生産が、追いつかない)


 バルドス邸の3台を作るのに費やした4日間、1号店の設備は放置していた。

 術式の消耗度を確認したら、水圧制御のルーンが予想より早く劣化していた。

 原因は清掃だ。


---


 『跳ね馬の足跡亭』に戻ったゼンが見たのは、床に水が広がった惨状だった。


「……ゴードン」


「おう、おかえり」


 宿主は飄々とした顔でカウンターに肘をついている。


「清掃はどうした」


「マリカにやらせてる。毎日ちゃんとやってるぞ」


 ゼンは個室に足を踏み入れ、内側から観察した。

 床は濡れている。便器の縁の溝に黒ずみが始まっている。排水口に何かが詰まりかけている。換気スリットに埃の塊。


(まずい。このまま放置したら術式の劣化が加速する)


 清掃は「水で流せばいい」というものではない。

 磁器表面の摩擦係数をゼロに近づけてある分、汚れは付着しにくい。しかし縫い目や継ぎ目、排水口のような「流れが滞る場所」には蓄積する。そこを重点的に処理しなければ意味がない。


 これは、前世でも散々やった話だった。製品の性能がどれほど優れていても、メンテナンスが間違っていれば寿命が縮む。マニュアルは設備と同じくらい重要だ。


 ゼンは個室から出た。


「マリカを呼んでくれ」


---


 マリカは十六か十七の、細い少女だった。

 宿の雑用全般を担っている。目が大きく、どこかびくびくした様子で現れた。


「あの……なんか、まずかったですか」


「まずかった」


 マリカが肩をすくめる。ゼンは続けた。


「責めているわけじゃない。誰も教えていないから、やり方を知らないだけだ。今から教える」


 まず、どこをどんな順番で清掃するか。使う道具と禁止する道具。水の量と乾燥のタイミング。術式が刻まれた磁器に使ってはいけない溶剤。


 ゼンは二十分ほどかけて説明した。マリカは一生懸命うなずいていた。


「……わかりました。やってみます」


 彼女は部屋に向かいかけ、途中で振り返った。


「あの……すみません。さっき教えてもらったこと、全部は覚えられてなくて」


(そうか)


 ゼンはため息をついた。自分のせいだ。情報量が多すぎた。


「紙に書いて渡す。明日また来い」


---


 その夜、ゼンは羊皮紙に向かった。


 清掃手順書。前世ではQCマニュアルとか作業標準書と呼んでいたものだ。

 ステップごとに項目を分け、重要度を三段階で示し、注意事項を枠で囲む。

 書き終えて渡そうとした時、ゼンはふと止まった。


(……マリカは、字が読めるか?)


 翌朝、確認した。


「すみません……少し読めますけど……難しい字は」


 考えてみれば当然だ。王都の識字率はせいぜい三〜四割。冒険者や商人は必要に迫られて学ぶが、宿の雑用係の少女が高い読み書き能力を持っている必要はない。


(絵で描くか)


 ゼンは新しい羊皮紙を広げた。

 文字ではなく、絵。各工程のイラストと、矢印と、○×の記号だけで構成されたマニュアル。前世で海外工場向けに作ったことがある。言語が通じない相手でも使えるように。


 一時間かけて描いた。絵は上手くない。しかし情報は正確だ。

 ①便器の上から下へ。②縁の溝は専用ブラシ。③排水口は指一本分の深さまで確認。④乾いた布で拭いて終わり。⑤絶対にやってはいけない三つのこと(磁器を叩く、酸性の洗剤、熱湯)には×印と炎のマーク。


「これを見ながらやれ。わからなければ聞け」


 マリカはその紙を、両手で受け取った。

 食い入るように見ている。絵を指でなぞっている。


「……すごい」


 小さな声だった。


「これ、全部わたしのために描いてくれたんですか」


「お前のためじゃない。設備を守るためだ」


 ゼンは素っ気なく言ったが、マリカはもうほとんど聞いていなかった。

 絵マニュアルを胸に抱いて、目が潤んでいた。


「……わたし、これまで文字が読めないから、いつも怒られるだけで、ちゃんと教えてもらったこと一度もなくて」


(ああ)


 ゼンは内心で少し黙った。

 これも前世では当たり前の話だ。新人教育。オンボーディング。「やる気がないんじゃなくて、やり方を知らないだけ」というのは、どんな世界でも変わらない。


「覚えたら誰かに教えられるか」


「え?」


「ここだけじゃなく、他の店にも同じ設備を置く予定がある。清掃の仕方を伝えられる人間が要る」


 マリカはしばらく考えてから、真剣な顔でうなずいた。


「やります」


---


 翌週、隣町の市場前で食堂を構えるベルトが、ゼンの宿を訪ねてきた。


「聞いたぞ。例の聖なる便所とやら、儂の店にも置いてくれんか」


 ベルトは五十がらみの大男だ。厨房の煤で日焼けした腕に、白い前掛けがよく似合う。声が大きく、笑うとカウンター越しでも揺れを感じる。


 彼の食堂『燻し鍋亭』は市場の南口正面という絶好の立地にある。市場帰りの庶民が昼食を取る店で、一日の客数は宿の数倍はあるだろう。


(立地は申し分ない。問題は契約条件だ)


「座れ」


 ゼンはテーブルを挟んで向かい合った。


「話を聞く前に、一つ確認だ。お前は実際に使ったことがあるか」


「ないな。行列が長すぎて」


「なら、まず体験しろ。その上で話をする」


 ベルトは首をひねったが、ゼンに促されて裏の個室へ向かった。


 十分後。


 ベルトは出てきた。鼻の頭が赤い。目が光っている。

 腕を組んで、口を真一文字に結んでいる。何かを必死に堪えている顔だ。


「……悔しいが、認める」


 掠れた声で言った。


「なんだこれは。なんで儂はこんなものを知らずに五十年も生きてきたんだ。毎朝あの地獄の穴に向かっていたのは何だったんだ……」


 目尻に光るものが浮かんでいたが、彼はそれを認めなかった。頑固に目を細めたまま、ゼンを指差した。


「置かせろ。絶対に置かせろ。いくらだ」


「落ち着け。座れ。順番に説明する」


---


 ゼンは羊皮紙を広げた。


 設置料、利用料の設定、収益配分、メンテナンス契約、禁止事項。

 一つずつ説明していく。


「……設置料が金貨3枚」


「そうだ」


「で、利用料の7割がお前のところに行く」


「そうだ」


「儂の店で儂の客が使うのに、なんで7割がお前に行くんだ」


(来た)


 ゼンは予想していた反応だったので、即座に答えた。


「設備を作るのは俺だ。術式の維持と魔石交換も俺だ。清掃マニュアルと指導も俺が提供する。お前が用意するのは場所と清掃の手間だけだ。7割はその対価だ」


「それでも高い。半々にしろ」


「断る」


「なぜだ!」


「設備が壊れたとき、誰が直す? 術式が劣化したとき、誰が刻み直す? お前にできるか?」


 ベルトは口を閉じた。


「できないだろう。だから7割だ。お前の取り分は3割だが、設備のリスクはゼロだ。場所を提供するだけで毎月安定した収益が入る。それが俺の提案だ」


 沈黙。


「……儂の今の裏庭のトイレ、どうにかならんか。あれのせいで食事中に悪臭が流れてくることがあって、客の評判が悪いんだ」


「設置すれば解決する」


「……設置料を分割にしてくれたら、考える」


(交渉の余地があるか)


 ゼンは少し考えた。資金力のある店主から一括で受け取るのが理想だが、立地の良さは見逃せない。市場前という場所は、口コミの伝播速度が段違いだ。


「三回払いにする。初回金貨1枚、設置完了後に金貨1枚、一ヶ月後に金貨1枚。利用条件は変えない」


「……それで手を打とう」


 ベルトの分厚い手が、テーブルの上に差し出された。


 ゼンは握り返した。


「2号店だ。歓迎する」


---


 その夜、ゼンは帳簿の新しいページを開いた。


 1号店:累計収益 銀貨23枚

 バルドス邸:金貨14枚(受領完了)

 2号店(燻し鍋亭):設置料分割 金貨1枚受領済み


 合計資産:金貨22枚と銀貨3枚相当。


 追放からちょうど一ヶ月だった。


(遅い。全然遅い)


 ゼンは顔をしかめながら、羊皮紙に書き込んでいく。

 問題は相変わらず生産速度だ。バルドス邸で4日。2号店設置にまた3〜4日かかる。その間、新しい案件が来ても対応できない。


 今日も、ゴードンから「知り合いの宿主が聖座を設置したいと言っている」という話が二件来ていた。先週は食器屋の主人に話を持ちかけられた。


(需要はある。作れないだけだ)


 どうすれば生産速度を上げられるか。

 ゼンは羊皮紙を裏返し、図を描き始めた。


 製造工程を分解する。

 ①粘土の採取・精製:土魔法が必要だが、補助は可能

 ②成形:【精密構成】が必要。自分しかできない

 ③焼結:火魔法の使い手に委託できる?

 ④表面加工:【精密構成】が必要。自分しかできない

 ⑤術式刻印:【精密構成】が必要。自分しかできない

 ⑥魔石装填:これはできる人間を探せる


 つまり②④⑤が完全なボトルネックだ。ここを自分が担当し続ける限り、拡大速度に天井がある。


(いや、待て)


 ゼンはペンを止めた。


(術式をモジュール化できないか?)


 今は一台ごとに全工程の術式を手書きしている。しかし「型」を作れば、熟練した術師なら転写できるかもしれない。磁器の成形と表面加工は自分がやる。術式は型から転写する。


 まだアイデアの段階だ。実現できるかどうかわからない。

 しかし方向性は見えた。


(術師ギルドに当たってみるか。あと、陶芸の職人も一人欲しい)


 やることリストが増えていく。

 ゼンは少し笑った。


 悩みが増えるということは、事業が育っているということだ。前世でも、うまくいっているプロジェクトほど課題が多かった。


 絵マニュアルを胸に抱いて帰ったマリカの顔が、ふと頭に浮かんだ。

 あの表情は、良いものだった。


(仕組みを作るということは、人を育てるということでもある)


 ゼンは羊皮紙をたたみ、ランプを吹き消した。


 窓の外、王都の夜が静かだった。

 どこかで下水の匂いがする。まだまだこの街は不潔だ。


 だが、一ヶ月前よりは、少しだけましになっている。


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