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第02話 銀貨の匂いと、貴族の鼻

二週間が経った。


 ゼンは宿の2階の窓から、正確に同じ光景を眺めていた。

 行列だ。今日も、昨日も、その前も。むしろ日を追うごとに伸びている。


 帳簿に数字を書き込む。

 1日平均利用者数:38人。1日収益:銅貨114枚。2週間累計:銀貨15枚と銅貨96枚相当。


(思ったより速い)


 ゼンは顎に手を当てた。

 口コミの伝播速度を、やや低く見積もっていた。想定では1ヶ月かけて1日50人規模になると踏んでいたが、このペースなら3週間で超える。

 需要はある。問題は「供給」だ。


 今の構造には根本的な制約がある。個室が1室しかない。1日24時間で処理できる人数に物理的な上限がある。待ち時間が長くなれば客は離れる。


 次の手は二つある。


 一つは、1号店の拡張。個室を3室に増やし、同時処理能力を上げる。

 もう一つは、展開速度を上げること。2号店、3号店。多店舗化。


(どちらも金が要る。となれば――)


 ゼンは帳簿を閉じ、窓の外に視線を戻した。

 行列の中に、明らかに他の客と雰囲気の違う人物がいた。


---


 グレーの仕立ての良い外套。磨かれた革靴。背筋が伸びている。

 市場への買い出し帰りらしく、両手に籠を提げているが、その立ち居振る舞いは商人でも冒険者でもない。


(貴族の使用人か)


 男は行列をしばらく眺め、足を止めた。それから前の客に何かを聞いている。客が答え、男の表情が変わった。


 ゼンは無意識に立ち上がっていた。


---


 使用人の名はティボーといった。

 バルドス子爵家に仕える執事で、王都南市場への買い出しは週に一度の仕事だった。


 その日、帰り道に見慣れない行列を見かけたのは全くの偶然だった。

 「銅貨3枚で聖なる座を体験できる」という触れ込みに、最初は詐欺か宗教の勧誘かと思った。しかし列に並ぶ顔ぶれが、どれも真剣で、どれも「早く順番が来ないか」と前のめりになっている。


(……少し、待ってみるか)


 執事という職業は、主の不利益になる情報を見逃してはならない。

 それはティボーの長年の信条だった。


 三十分後、彼は「聖座」の前に立った。

 清潔な白い個室。芳香の香り。まだ疑いは晴れない。

 しかし扉を閉じた瞬間、何かが変わった。


 静かだった。

 外の喧騒が、完全に切り取られた。王都の路上にいるとは思えない静けさ。

 そして、便座の温もり。


(なんだ、これは)


 ティボーは人生で初めて、「緊張せずにいられる場所」を発見した。

 仕える主に常に気を張り、客人の顔色を伺い、屋敷のあらゆる問題を事前に察知しなければならない。そういう二十年間だった。

 しかし今この瞬間だけは、誰も見ていない。誰も聞いていない。


 作動レバーを引くと、温かな水が的確に届いた。


 彼はそのまま、一分ほど微動だにしなかった。

 扉の外で「次の方どうぞ」という声が聞こえるまで、ただじっと座っていた。


 外に出たとき、ゼンがさりげなく様子を見ていた。

 ティボーは一度、深く息を吐いた。それから自分の外套の袖で、目元を素早く拭った。

 完璧に感情を押し殺した、熟練の所作だった。しかし隠し切れなかった。


「……これを作った者は誰か」


 ゼンは一歩前に出た。「俺だ」


 ティボーはしばらくゼンを観察した。

 若い。装備は冒険者風だが、目に戦士の気配がない。手は職人の手をしている。

 何より、目が落ち着いている。商売人の目だ。


「主人にお伝えしたいことがある。二日後の午後、バルドス子爵邸へ来られるか」


「行こう」


 ゼンは迷わず答えた。

 チャンスは、逃がさない。


---


 バルドス子爵邸は、王都北区の貴族街に建つ、三階建ての石造りの屋敷だった。

 外観は立派だ。石壁に蔦。門の前には槍を持った衛兵。馬車が通れる幅の私道。


 ゼンは正門から通されず、使用人口から案内された。

(まあ、そうだろうな)

 特に気にしない。中に入ることの方が重要だ。


 応接室に通され、五分待った。


 バルドス子爵が現れた。

 五十代、白髪交じりの細身の男。清潔な絹のシャツ。高価な香水の匂い――そして、その下に、かすかに漂うもの。


(下水の匂いだ)


 ゼンは内心で一瞬だけ目を閉じた。

 王都の貴族街も、所詮は下水道が未整備の世界だ。どれほど高価な香水を纏っても、建物の基礎に浸み込んだものは誤魔化せない。

 嗅ぎ慣れた匂いだった。


「ゼン、とやら。ティボーから話は聞いた」


 子爵は座ることを勧めなかった。立ったまま話すつもりらしい。

 これは「対等ではない」という意思表示だ。ゼンも立ったまま返した。


「光栄です、子爵閣下」


「あれを我が屋敷にも設置してほしい。使用人棟に2台、私の私室に1台だ。費用は銅貨500枚で手を打とう」


(銅貨500枚、か)


 設置1台あたり銅貨167枚、銀貨にして1.67枚相当。

 ゼンの本来の設置料は金貨3枚――銅貨3万枚相当だ。

 つまり、約180分の1の値を提示してきた。


「お断りします」


 ゼンは穏やかに、しかし一ミリも表情を動かさずに言った。


 子爵の眉が、わずかに上がった。


「高すぎると言いたいのか?」


「そうではなく、お互いの認識に大きな差があるようです。私の設置料は1台あたり金貨3枚です。3台であれば金貨9枚。加えてメンテナンスと魔石交換は月に銀貨3枚の契約料をいただきます」


 沈黙が落ちた。

 子爵の表情は変わらない。が、目の奥が動いた。


「……ふざけているのか? 便所一つに金貨3枚? 馬が買えるぞ」


「馬を3頭買っても、あれは作れません」


 子爵は腕を組んだ。


「半額だ。金貨1枚半」


「変わりません」


「では金貨2枚。これ以上は出せん」


「閣下、私はこのあと東区のリール商会へ伺う予定があります」


 ゼンはさらりと言った。

 リール商会は王都最大の商人ギルドだ。このあたりでは誰でも知っている。


 子爵の顎が、ほんのわずかに上がった。競争相手の名前が出た瞬間の、条件反射だった。


「……実物を、見せることはできるか」


「もちろん。持参しています」


---


 使用人棟の一室を借りて、ゼンはあらかじめ製作しておいた実演用の「聖座」を設置した。

 30分ほどの作業だ。


 子爵は腕を組んだまま、廊下から見ている。

 ティボーが傍らに立ち、「先にお試しになっては」と耳打ちした。子爵は一瞬だけ眉をひそめたが、部屋に入った。


 ゼンは扉の外で待った。

 ゴードンの宿でそうしたように。


 静寂。


 一分が過ぎた。


 二分が過ぎた。


 三分が過ぎた。

 ゼンとティボーは、黙って廊下に立っていた。ティボーは壁を見つめている。何かを耐えているような顔だった。


 四分後、扉が開いた。


 バルドス子爵が出てきた。

 その顔は完璧に整っていた。貴族の仮面。何事もなかったように整えられた表情。


 しかし目が赤い。


(三人目だ)


 ゼンは静かに思った。グラムも、ティボーも、そして今度は子爵も。

 身分も年齢も関係ない。あの「温もりと清潔さ」は、等しく人の何かを揺さぶるらしかった。


 子爵はしばらく黙っていた。それから口を開いた。


「……ゼン、一つ聞く。あの中では、外の音は聞こえないな」


「聞こえません。遮音は標準仕様です」


「そして、外からも聞こえないということか」


「その通りです」


 子爵の目が、鋭く細くなった。

 先ほどとは違う光があった。感動でも驚きでもなく、計算の光だ。


(あ)


 ゼンは内心で小さく笑った。

 気づいたか。


「ゼン。仮定の話をしよう」


「どうぞ」


「もし、あの部屋で誰かと話をした場合、その内容は絶対に漏れないということか」


「魔法的な盗聴も含めて、完全に遮断できます。防音と遮魔を組み合わせた術式です。私の知る限り、王都でこれ以上に秘密が守られる空間はありません」


 沈黙。


 子爵は窓の外に視線を向けた。

 王都北区の貴族街。屋敷と屋敷が隣り合い、使用人が行き交い、どこに耳があるかわからない街。

 貴族とは情報を売り買いして生きる生き物だ、とゼンは前世の知識から知っていた。秘密が守られる場所は、彼らにとって命の次に大事なものだ。


「……金貨9枚、払おう」


 子爵は窓を向いたまま言った。


「ありがとうございます。ただ、一点修正を」


「なんだ」


「私室の1台は、遮音性能を強化した上位グレードにすることをお勧めします。そちらの設置料は金貨8枚になります。使用人棟の2台は標準グレードで金貨3枚ずつ。合計金貨14枚です」


「……さっきより高くなっているぞ」


「用途に合った設備を提供するのが私の仕事です」


 沈黙がまた落ちた。

 今度は短かった。


「わかった。それで頼む」


 子爵はゼンを振り返り、初めて目を合わせた。

 先ほどの「立ったまま話す」という態度はもうなかった。


「一つ、条件を追加させてほしい」


「内容によります」


「我が屋敷に設置したことを、他の者に明かさないでほしい。ただし……」


 子爵は少し間を置いた。


「我が家の客人が、あれを使いたいと言った場合、断る理由はない。むしろ歓迎する」


(なるほど。「貴族の社交場」に組み込むつもりか)


 ゼンは内心で一つうなずいた。

 これは想定の一つより早い展開だった。子爵邸で「聖座」を体験した来客が、自分の屋敷にも設置したいと思う。口コミが上流階級の中で自然に広がる。


「守秘については問題ありません。ただし設置の技術情報の開示と、複製の試みはご遠慮ください。それが唯一の条件です」


「当然だ」


 握手が交わされた。


---


 使用人口から屋敷を出て、ゼンは夕暮れの貴族街を歩いた。


 革袋の中に、頭金として金貨5枚が入っている。残りは工事完了後の後払いだ。

 金貨5枚。現金として手にしたのは生まれて初めてかもしれない。


(重い)


 ずっしりとした重みが、妙に現実感を伴って手首にかかる。

 これはもう「銅貨3枚のトイレ代」の世界ではない。


 ゼンは帳簿を開いた。

 1号店の累計収益:銀貨17枚。

 バルドス邸:金貨14枚(頭金5枚受領済み)。


(次だ)


 歩きながら、頭の中で展開図が広がっていく。

 貴族邸への設置実績ができた。これは「箔」になる。「バルドス子爵も使っている」という事実は、他の貴族への営業において何よりの説得材料になる。

 もっとも、バルドスは「秘密にしてくれ」と言った。使えるのは「とある子爵邸」という表現だけだ。それで十分だ。


 それより問題は生産能力だ。


 現状、「聖座」を作れるのはゼン一人だ。バルドス邸の3台で、おそらく4日かかる。1号店の拡張に手が届かない。2号店は夢のまた夢だ。


(職人を育てる必要がある)


 しかしそれは難しい。【精密構成】は固有スキルだ。複製できない。

 では何を「分業」できるか。成形の補助は可能か。焼成は一般の陶芸師に任せられるか。術式刻印だけを自分が担当する形にできるか。


 答えはまだ出ない。

 しかし問いを持つことが、次の一手への道になる。


 ゼンは歩きながら、羊皮紙に走り書きした。


 「生産ライン分業案」「術式のモジュール化」「清掃マニュアル整備(2号店準備)」


 夕日が王都の石畳を橙色に染めていた。


 遠くで鐘が鳴った。宵の鐘だ。


 明日もやることは山積みだ、とゼンは思った。それが心地よかった。

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