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第01話 温水38度、黄金角43度、「あ……あ、あああ……」

 冒険者ギルドの床は、いつも砂と血と酒の匂いがする。


 ゼンはその匂いをずっと嫌いだったが、今日ほど鮮明に感じたことはなかった。

 自分の荷物が、その床に叩きつけられた瞬間のことだ。


「ゼン、はっきり言う。お前の土魔法には失望した」


 勇者カインは腕を組み、ギルドの酒場に響く声で告げた。

 彼は常にそうだ。どんな残酷なことも、「はっきり言う」という枕詞で正当化する。


「表面をツルツルにするだけの魔法が、魔王軍との決戦で何の役に立つ? 敵の鎧でも磨いてやるのか?」


 周囲の冒険者たちから、くすくすと笑いが漏れた。

 ゼンは床に落ちた革袋をゆっくりと拾い上げながら、感情を意識的に体の奥底へ押し込めた。


(役に立たない、か)


 言い返す言葉なら、いくらでもある。

 俺の【精密構成】がなければ、パーティの武器のメンテナンスがどうなっていたか。水源の汚染を事前に察知して疫病を防いだのが誰だったか。露営地に吸血虫が繁殖しかけたとき、俺の土魔法で土壌ごと精製して全員を救ったのは、いつのことだったか。


 だが、言わなかった。

 言ったところで、彼らには届かない。攻撃魔法の派手な爆発だけが評価される世界に、「目に見えない予防」の価値を理解させることはできない。


「……わかった」


 ゼンは革袋を肩に担ぎ、カインを一度だけ真っ直ぐに見た。


「勝手にしろ。俺は俺のやり方で、この不潔な世界を洗い流してやる」


 それだけ言い残して、ギルドの扉を押した。

 背後で「大口を叩いて」と誰かが笑った声が、扉の向こうに消えていった。


---


 向かった先は、王都レイガルドの南端、薄汚れた路地の奥に建つ格安宿『跳ね馬の足跡亭』だった。

 一泊銅貨3枚。朝食なし。外見は「崩れそうで崩れない」という奇跡の均衡を保っている木造二階建て。


(まずは金を作らなければ何も始まらない)


 手持ちは金貨1枚と銀貨数枚。勇者パーティの報酬は「追放と同時に清算済み」という鮮やかな扱いだった。

 ゼンは宿に荷物を置き、裏庭へ向かった。


 そこで、覚悟はしていたが、現実は想像を超えていた。


(……地獄だ)


 共有トイレ、と呼ぶのも憚られる構造物がそこにあった。

 朽ちかけた木の板を四方に打ちつけただけの小屋。中に踏み込むと、鼻の粘膜が悲鳴を上げた。アンモニアの濃度がおそらく労働安全衛生法の基準値の百倍は超えている。板の隙間から差し込む陽光の中で、ハエが王国を築いていた。地面には何かの染みが幾重にも重なり、年輪のような歴史を刻んでいる。


 穴、という表現すら生ぬるい。ただの凹みの上に、ぐらつく板が2枚渡してあるだけだ。


(これを毎日使っている人間が……何百万人もいる)


 ゼンは深呼吸を一つした。もちろん口だけで、鼻は完全に閉じている。

 そして、静かに決意した。


(ここから始める)


---


「店主」


 カウンターの奥で帳簿をつけていた禿頭の男――ゴードンが顔を上げた。

 五十がらみの、恰幅のいい実利主義者だ。目の奥が常に計算している。


「裏のトイレを、しばらく貸し切りにしてくれないか。代わりに、お前の宿を王都一の聖域に変えてやる」


 沈黙。ゴードンはゼンの顔を、値踏みするように上から下まで眺めた。


「追い出されたばかりの冒険者崩れが、何を言ってる」


「金貨1枚」


 ゼンは迷わず革袋を取り出し、カウンターに置いた。

 ゴードンの目の色が、わずかに変わった。


「……どんな魔法を使うつもりだ?」


「見ていれば分かる」


 短い沈黙の後、ゴードンは帳簿を閉じた。「好きにしろ」と、それだけ言った。


---


 その夜から、ゼンは籠もった。


 まず、周辺の土を【精密構成】で分析する。粘土質の含有率、鉄分、有機物の比率。最適な成分比になるよう、土魔法で精製・混合する。


練成フォーミング


 呟くと同時に、魔力が指先から流れ出した。

 これは戦闘魔法のように爆発しない。炎も出ない。音もほぼない。ただ、粘土が――静かに、意思を持つように――形を変えていく。


 曲線を描くボウル部。飛沫を防ぐ内壁の傾斜角度は正確に12度。着座部の縁は人体工学に基づいた楕円形で、長時間使用でも血行を妨げない厚みに設計してある。表面の粗さはナノメートル単位で制御し、摩擦係数を限りなくゼロへと近づける。


(汚れが付着する隙間を、物理的に消す)


 前世で7年間、住宅設備メーカーの開発部で「究極の清潔」を追い求めた知識が、今初めて魔力と融合した。

 形が完成したら、火魔法で焼き固める。温度の均一性が焼結の命だ。1,250度、誤差±5度以内。これも【精密構成】があれば、造作もない。


 焼き上がった純白の磁器に、次は術式を刻む。


 水魔法の制御術式――温度を38度に保つ加熱ルーン、射出時の圧力と角度を定める流量ルーン、排水路の水流を最適化する循環ルーン。そして魔石との接続ポート。

 ルーン一本一本に、小型の炭筆で下書きをしてから、魔力で上書きして固定する。

 普通の術師が術式刻印に一日かける作業を、ゼンは半刻で仕上げる。それが【精密構成】の本質だ。


 最後に、中級魔石を装填した。

 ゴトリ、と音がして、魔石が術式に噛み合う感触があった。

 やがて、白磁の器が微かに温もりを帯び始めた。


(動いた)


 ゼンは初めて、口角を上げた。


---


 翌朝。

 裏庭に場違いなほど真っ白く輝くそれが、静かに鎮座していた。


 昨日まで「地獄の小屋」だった空間は、既に面影がない。

 魔法で土壁を塗り直し、石灰で白く仕上げた床。換気のための細いスリットを上部に設けた。ハエを寄せ付けないハーブの束を天井に吊るした。


 ゴードンが腕を組んで立ち尽くしていた。


「……こりゃ、なんだ」


「お前の宿の武器だ」


 答えた瞬間、最初の客が来た。


 巨体だった。身長6フィートを超え、肩幅が扉ぎりぎりのドワーフ混じりの戦士。宴会明けで顔色が悪く、腹を抱えて歩いている。昨夜、宴会で何かに当たったらしい。


「あ、あの……そこ、使って、いいか……?」


「どうぞ」とゼンは一歩下がった。


 男は恐る恐る個室に入り、白い器を見て一度固まった。それから、つかみどころのない表情で、腰を下ろした。


「……冷、たくない?」


 小さな声だった。明らかな困惑だ。

 異世界の石や木の便座は、冬はもちろん、夏ですら冷たい。皮膚に触れる瞬間の不快感は、この世界のトイレにおける永遠の宿命だった。


 だが今、彼の表情が変わっていく。


「……温、かい」


 呆然と呟いた。その声には、もはや困惑ではなく、驚愕があった。


 ゼンは壁面の作動レバーをゆっくりと引いた。


 シュッ、という清潔な音。

 38度の温水が、黄金角43度で、寸分の狂いなく射出された。


「――っ……!?」


 男の呻きは、最初は驚愕だった。

 次第に、それが別の何かに変わっていった。


「あ……あ、あああ……」


 低い声が、掠れていく。

 ゼンは無言でドアを閉め、ゴードンと二人で外で待った。


 しばらくの沈黙の後、扉が開いた。


 戦士が出てきた。目が赤い。頬が濡れている。六フィートを超える屈強な男が、子供のように泣いていた。


「旦那……」


 彼はゆっくりとゼンの前まで歩いてきて、ゴツゴツした手でゼンの両手を握りしめた。


「なんだ、あれは。何なんだ、あれは」


「温水洗浄便座だ」


「そんな名前じゃなくていい。あれは……あれは、聖なるものだ」


 声が震えていた。大の男が、ぼろぼろと涙を流している。


「温かい水が……俺の、汚れを……全部、洗い流してくれる気がして……なんか、その……情けない話だけど……久しぶりに、人間に戻れた気がした」


 ゼンは何も言わなかった。

 前世でも、プロダクトの完成に立ち会うたびに思っていたことがある。

 どれほど高度な技術も、どれほど複雑な術式も、結局は「使う人間がどう感じるか」のためにある。


(そうだ。これが、正しい)


「銅貨3枚だ」とゼンは言った。


 戦士は一瞬だけ目をパチクリさせ、すぐに「安すぎる!」と叫んだ。

「銀貨でも出す! 毎日来させてくれ! 頼む、毎日!」


---


 ゼンはゴードンに向き直った。

 宿主の目には、もはやはっきりと「商売の匂い」が宿っていた。


「聞いたか、ゴードン。今日からここを有料公衆トイレ『聖座テラ・スローン』1号店とする」


「テラ・スローン……?」


「ラテン語で『大地の玉座』。俺が命名した。利用料は1回銅貨3枚。売上の3割を場所代としてお前に渡す。その代わり、清掃は俺が作るマニュアル通りに毎日やってもらう。魔石の補充と設備のメンテナンスは俺が担当する」


 ゴードンは腕を組んだ。

 彼の頭の中で、計算が走っているのがわかる。1日20人が利用したとして、銅貨60枚。3割なら18枚。30日で銀貨5.4枚相当。宿泊料の副収入としては悪くない。


「……清掃は、どの程度の手間だ?」


「1日2回、俺の指示通りにやれば30分で済む。やる価値はある。俺が保証する」


 沈黙。


 ゴードンは泣いている戦士をもう一度見た。

 この男は、また来る。そして噂を広める。


「……わかった、やろう」


 彼は分厚い手をゼンに差し出した。

「あんた、とんでもねえものを作ったな」


「まだ序の口だ」


 握手しながら、ゼンは静かに答えた。


---


 七日後。

 『跳ね馬の足跡亭』の裏口には、これまで見たことのない行列ができていた。


 冒険者、商人、御者、洗濯女、肉屋の親父、薬草売りの老婆。

 様々な人々が、銅貨3枚を握りしめ、順番を待っている。


 ゼンは宿の2階から行列を眺めながら、手元の帳簿に数字を書き込んでいた。

 1日の利用者数、収益、魔石の消費量。まだ小さい。まだ全然小さい。

 しかし、数字は嘘をつかない。確実に積み上がっている。


(次は、防音個室だ)


 広げた羊皮紙には、すでに設計図が走り書きされていた。

 防音ルーンを刻んだ個室。盗聴を完全に遮断する術式。「世界で最も秘密が守られる場所」。

 貴族が密談に使う。商人が交渉に使う。王国の情報がここを通る。


 トイレを制する者は、世界を制する。


 それは大げさではない。むしろ、まだ過小評価だ、とゼンは思っていた。


(衛生が変われば、疫病が減る。疫病が減れば、人口が増える。人口が増えれば、経済が回る。経済が回れば、俺の設備に投資できる人間が増える)


 計算は、どこまでも続いた。


 ゼンは帳簿を閉じ、設計図を手に取った。


 革命は、まだ始まったばかりだ。

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