第5話ーこの気持ちは、わたしのものだから
昼休みの屋上は、相変わらず風が強かった。
あの日以来、志紀とわたしは少しずつ言葉を交わすようになった。といっても、たわいないやり取りだけ。彼の記憶は戻っていないし、わたしはそれを責めるつもりもなかった。
「またここか、君は風が好きなんだな」
志紀は手に持った紙パックのカフェオレを差し出してくる。
「ありがとう。でも、これ……」
「昨日、君がこれ好きって言ってた気がして」
言ってない。それは、“昔のわたし”がよく飲んでいたもの。覚えていないはずの記憶を、彼のどこかがかすかに覚えている。
胸が痛んだ。
「……うれしい。いただくね」
そう言って受け取ったカフェオレを開け、飲むふりをした。喉は渇いていないのに、何かで心を満たさないと崩れそうだったから。
「ねえ、志紀くん」
「ん?」
「もしさ。全部思い出せたら、どうする?」
志紀は少しだけ視線を空に向けた。その横顔には、やはりどこか翳りがある。もしかして、思い出したくないのだろうか。
「わからない。でも、君といると……たまに既視感みたいなものを感じるんだ」
「……」
「懐かしくて、温かくて、でもすぐに消えてしまう。あれが“思い出”ってやつなのかもしれないけど」
「そうだね。記憶って、そういうものかも」
わたしも空を見上げた。青い空に雲が流れていく。時間は容赦なく過ぎる。わたしたちの関係が元に戻る保証なんて、どこにもない。
それでも――
「でも、わたしね」
わたしは彼をまっすぐ見た。風が吹いて、髪が頬に張り付く。
「志紀くんが思い出せなくても、全部なくしても、わたしは君のこと、ちゃんと好きでいられると思う」
それは告白じゃない。ただの、事実の宣言。
「……ありがとう」
彼は目を伏せた。でも、その頬がわずかに赤らんでいるように見えたのは、わたしの願望のせいだろうか。
そのとき、チャイムが鳴った。
「戻ろっか」
「ああ」
いつもならそれで終わっていた。だけど、今日は違った。
階段へ向かう途中、彼がぽつりと呟いた。
「俺さ、夢を見るんだよ」
「夢?」
「よくわからないんだけど……白い部屋に君がいて、俺の名前を呼ぶんだ。“思い出して”って」
わたしの足が止まる。
彼は気づかずに続けた。
「その夢を見るたびに、胸が苦しくなる。たぶん……何か、すごく大切なものを失った気がして」
心臓が強く脈打つ。
もしかして、その夢――。
わたしが「世界を改変した瞬間」の記憶の残滓じゃないか?
「……志紀くん」
「うん?」
言いたかった。“それ、わたしだよ”と。
だけど、その言葉は喉の奥で凍りついた。
今、彼がこの世界で“初めてわたしを好きになる”瞬間を、奪いたくなかった。
だからわたしは笑った。
「夢って、不思議だよね」
「……ああ、ほんとにな」
また風が吹いた。
この気持ちは、わたしのもの。
だから、彼が誰を好きになっても、たとえ――また忘れられても。
わたしは、何度でも彼を好きになる。
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