第4話ー終わらない放課後、あるいはもう一度君に出会うまで
放課後の空は、まるでガラスのように透き通っていた。
校舎の屋上に立っていると、風の音すら聞こえなくなる。あの事故以来、誰も上がってこなくなったこの場所は、まるで時が止まったような静けさに包まれている。
私はそこにひとり佇んで、柵越しに広がる町を見下ろしていた。
時計の針は16時52分。放課後から、まだ一時間も経っていないはずなのに、世界はすでに夜の足音を連れてきていた。
「……ここにいたんだね」
その声がした瞬間、私は振り返る。懐かしい声。懐かしい足音。なのに――知らない顔。
校門で声をかけてきた、あの転校生の少年。優しい瞳と、どこか切なげな微笑。
でも彼の名前は、私の記憶にない。
「どうして……私を知ってるの?」
問いかける私に、彼は柵にもたれて隣に立ち、空を見上げた。
「君は忘れてるだけ。何度もそうだったから、今回もきっと」
「……何度も?」
彼の言葉に胸がざわつく。心の奥底で凍っていた何かが、溶けかけているような感覚。
「前の世界でも、君は僕を知らなかった。でも、最後には思い出してくれた。全部じゃなくても――心だけは、忘れてなかった」
「そんなの……おかしいよ。世界が変わるなんて、記憶が……何度も?」
「おかしくても、事実だよ。僕は……何度も世界をやり直してる。君が死なない未来に辿り着くまで」
彼の声は、嘘をつけない人のそれだった。
冗談にしては、切実すぎた。
笑い飛ばせば楽になれた。でも、私はそうしなかった。
「じゃあ……あなたの名前は?」
「――結城ハル」
その名前は、やっぱり知らない。
なのに、なぜだろう。心が震える。この名前を、私は一度……確かに呼んだ気がする。
「なぜ私が死ぬって、わかってるの?」
「このあと君は、教室に戻って携帯を忘れたことに気づいて、取りに行く。だけど……その途中で階段を踏み外す」
彼の言葉が終わる前に、私は息を呑んだ。
すべて、まるで台本のように。
さっき、私が心の中で思い出しかけたことと、完全に一致していた。
「それを止めにきたんだ。今度こそ、君を――助けたい」
彼の目は、まっすぐ私を見ていた。
怖かった。けれど、それ以上に、信じたくなった。
「……わかった。じゃあ、私……ここから動かない」
その言葉を聞いた瞬間、彼の肩が微かに震えた。
涙を流すでもなく、安堵するでもなく。ただ、ようやく届いたというような、静かな微笑。
「ありがとう……ヒナ」
――その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
“ヒナ”という名前。私は今まで、“自分の名前”を名乗らなかったはずなのに。
なのに、どうして――彼は知ってるの?
いや、違う。
どうして、“私もその名前に違和感を覚えなかった”の?
過去と現在、すべてが微かに繋がっていく。張り巡らされた細い糸のように、記憶が編まれていく。
――ヒナ。私は、ヒナ。
そして彼は、結城ハル。
あの日、あの夏の日。世界が一度終わったあの夕暮れ。
私は確かに彼に、名前を呼ばれた。
何かが、戻ってきそうだった。
でも、それを引き戻すには――まだ“決定的な一欠片”が足りなかった。
ハルは言った。
「君は、もうすぐ全部を思い出す。そうなったとき……君が世界を選ぶんだ」
「……選ぶ?」
「このまま何も知らずに、生き続ける世界か。すべてを思い出して、もう一度やり直す世界か」
私は答えなかった。
だけどそのとき、風が吹いた。
校庭の向こう、陽が沈み始めていた。
教室には戻らなかった。
階段も下りなかった。
携帯は、たぶん今も机の中だろう。
でも、そんなことはどうでもよかった。
私がここにいて、彼がいて。
何か大切なものを、確かに取り戻しつつあることだけが、真実だった。
夕暮れの屋上で、私は彼に言った。
「また……会えたね」
彼は目を見開き、そして静かに頷いた。
――これは、終わらない放課後。
けれど、ようやく“本当の再会”が始まる、第一歩だった。