第3話 ——君の声は、君のものじゃなかった。
それは、放課後の図書室だった。
窓から差し込む夕陽が、本棚の隙間に静かに影を落としていた。
教室に残っている生徒はもうほとんどいない。
だけど私だけは、ここにいる理由があった。
——もう一度、君に会えるかもしれないから。
昨日の《橙灯文庫》で見つけた手帖には、彼の手書きの言葉が残されていた。
「誰かが覚えている限り、僕は消えない」
それが真実なら、きっと……彼はこの世界のどこかに、まだ“残っている”。
私はノートを開いた。
“真白圭吾”という名前を中心に、記憶の断片を系統的に書き出したページだ。
■接点①:図書委員男子による「名前だけ記憶」
■接点②:《橙灯文庫》で出会った
■接点③:写真に映る姿(ただし名前データは抹消)
■接点④:手帖に残されたメッセージ(筆跡確認)
全部“あった”のに、世界は彼を「いなかったこと」にしている。
だったら私は、彼の痕跡をひとつずつ“この手で”拾い集める。
パタン、と静かな音がして、図書室の扉が開いた。
——そして、私の心臓が一瞬止まった。
そこにいたのは、彼だった。
黒髪。涼しげな目。無地のシャツ。
あの日、あの写真の中にいた彼そのもの。
息が詰まった。
手帳を落としかける。
視界がぼやける。
「……黒瀬、だよね?」
——声まで、同じだった。
でも、何かが違う。
「久しぶり、だね。なんて言ったら……変かな」
彼はそう言って、少し笑った。
だけどその笑顔に、温度がなかった。
「君……圭吾なの?」
「うん、そうだけど。何かあった?」
私は無意識に、一歩下がっていた。
胸の奥に、冷たいざわめきが走る。
何かが、違う。
確かに見たことのある“外見”。
確かに聞いたことのある“声”。
でも、心が記憶している“彼”とは違う。
まるで、完璧に再現されたコピーを見ているような。
「圭吾なら……覚えてるよね? 本屋のこと。“橙灯文庫”」
そう問いかけると、彼はわずかに首を傾げた。
「本屋? いや、ごめん。僕、そういうとこ行かないタイプなんだ」
——やっぱり。
私のなかの“確信”が、静かに形を成す。
この人は、圭吾じゃない。
いや、正確に言えば「圭吾という存在を模倣した、誰か」だ。
じゃあ、なぜ現れた?
なぜ、今このタイミングで?
私の記憶に呼応して、世界がまた彼を“上書き”しようとしているのか?
「黒瀬さん?」
その声に、私は思わずノートを握りしめた。
「……ごめん。ちょっと、私、帰るね」
「えっ、でも——」
「あなたは、私の知ってる“圭吾”じゃない」
言い終わる前に、私は図書室を飛び出していた。
ドアの向こうで、彼の声が微かに追ってきた。
だけどもう振り返らなかった。
その声が、どこか“用意された音声”に聞こえてしまったから。
*
外は、すっかり夕焼けだった。
赤く染まる空を見上げながら、私は呼吸を整える。
足が震えていた。
心の中の、信じたかった何かが壊れた。
でも、同時に確信する。
世界は、私の“記憶”に合わせて、“偽の圭吾”を生み出した。
それはつまり、私の記憶が“本物”だという証明でもある。
「ふざけてる……」
誰にともなくそうつぶやいた。
私の記憶を、
私の想いを、
誰かの都合で改ざんしないで。
そのとき——
背後から、風の音が変わった。
ふわ、と。
髪がふくらむほどの風圧。
振り返ると、交差点の真ん中に、ひとつの“黒い影”が立っていた。
まばたきをした瞬間、影は消えた。
でもその残像に、私は確かに見覚えがあった。
——それは、“あの写真の彼”と、同じ後ろ姿だった。
「……圭吾?」
小さな声が、風に溶けた。
偽物と本物。
上書きされる記憶と、抗う私。
この世界は、まだ終わっていない。
そして、私の記憶も、まだ壊れていない。