第2話 ——この世界に、私しか覚えていない名前がある。
その朝の駅は、あまりにも“普通”だった。
ホームに流れる合成音声、学生たちの笑い声、スーツ姿の大人たち。
けれど私は知っていた。この世界の“普通”は、どこかが狂っていると。
昨日の夜、彼の写真を見つけたあの瞬間から、私の中で時間の感覚が歪んでいる。
まるで何かが、過去と未来を引き裂いて、私だけを“覚えていさせる”ように。
そして今日。
私はもう一度、それを確かめに行く。
この世界に、彼が“いなかった証拠”と、“いた証拠”を両方探すために。
*
「——黒瀬。えっと、君……前の席だったっけ?」
図書室のカウンターで、私は軽く会釈した。
そこにいたのは、元・図書委員の男子。眼鏡に前髪がかかる地味なタイプ。
だけど彼は、私の中学時代の“ある記憶”に関係していた。
「ごめん。変なこと聞くんだけど……中学の時、クラスに“真白圭吾”って、いた記憶ない?」
彼は一瞬、眉をひそめた。
目線が宙に泳ぐ。何かを思い出そうとするように。
「……真白、圭吾?」
その名を口に出してくれただけで、私は少しだけ安堵した。
「いた気がする。いや、違うな……いたと思ったけど、アルバムにもいないし。あれ? いつの記憶だったんだろ……」
「覚えてるんだね?」
「うん……でも、ぼんやりしてる。顔も……ほとんど思い出せないや」
やはり、いる。世界の改変の“隙間”に、記憶が残ってる人間が。
私はかばんから一冊のノートを取り出す。
昨日の夜からつけはじめた“記憶の記録帳”だ。
私が思い出せる限りの“前の世界”を、時系列で書き起こしてある。
「もし、また思い出したら——ここに書き足してくれる?」
彼は一瞬戸惑った後、ノートを受け取った。
「黒瀬さん……これ、なんのために?」
「私は、この世界がおかしいって、ちゃんと知ってるから。」
私の声は、思ったよりも冷たかった。
*
その日の放課後、私はひとりで商店街の外れにある古本屋に向かった。
記憶の断片が告げていた。「彼と初めて話したのは、あの店だった」と。
店の名前は《橙灯文庫》。
古びた外観、ギィと鳴るドア、埃の匂い。全てが懐かしい。
でも、なぜか——
この店の存在を、誰も知らない。
同じ街に住むはずのクラスメイトに聞いても、「そんな本屋、あったっけ?」と言われるばかりだった。
私は戸棚をゆっくり開ける。
文庫本が並ぶ中、一冊だけ背表紙の色が違う本を見つけた。
淡いグレーに、銀の箔押しで文字が書かれている。
《消された記憶と、記録者の手帖》
——それは、間違いなく彼が読んでいた本だった。
思い出す。
彼がその本を手にとって、私にこう言った。
「記憶は、“ある”から信じるんじゃない。“誰かに覚えていてほしい”から、残るんだよ」
その声が、胸の奥に残っていた。
私は本を手に取ると、その奥にあった黒い紙片に気づいた。
そこには、こう書かれていた。
君が、この世界にひとりでも、
忘れないでいてくれるなら、
僕は、どこにいても、消えないよ。
——けいご
膝が崩れ落ちそうになった。
誰かの記憶のなかに、私の知らない“彼の言葉”が、残っていた。
「……圭吾……」
やっぱり、彼はいた。
この世界がそれを消そうとしても、
誰かの心の奥には、まだ“痕跡”が残ってる。
私は震える手で、手帖を抱きしめた。
「私は、君を消させない」
そう口にした瞬間、店内の時計の針がピタリと止まり、
ふわりと、白い光がまた一度、部屋に差し込んだ。
——世界がまた、ひとつ“上書き”されようとしている。
けれど私はもう、屈しない。
どれだけ世界が書き換わっても。
君の名前を覚えている限り、私は、君を見つけ続ける。