第1話 ——春は、記憶をひとつ消して始まる。
春の風は、やさしすぎてずるいと思った。
私の中から“君の名前”をそっと剥がしていくようで、泣いてしまいそうになる。
中学の卒業式だった。
生徒たちの歓声、カメラのシャッター音、校庭の隅で咲く花——すべてが“ふつうの思い出”に見えた。
でも、私は知っている。
この世界は一度、終わったのだ。
きっかけは、一週間前の夜。
電柱がきしむほどの風が吹いて、空から、まるで星が降るみたいに白い光が落ちてきた。
目を開けていられなかった。
そのとき、確かに隣にいた。君が。
——名前が、思い出せない。
目の奥に焼き付いたシルエットだけが、まだ消えないのに。
式が終わってから、私は名簿を何度も読み返した。
卒業アルバムにも、クラス集合写真にも、彼の姿はなかった。
「黒瀬、なに探してんの?」
クラスメイトの美園が、私の横からアルバムを覗き込んだ。
「ううん、ちょっと……気のせい」
そう答えた声は、少しだけ震えていたと思う。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
でも、何かが“抜けている”感覚だけは、確かにある。
まるで、穴の開いた心を、春風が吹き抜けていくみたいに。
*
その夜、私は押し入れの奥から古いスマホを取り出した。
中学に上がる前まで使っていたキッズ用の端末。
SIMも入っていない、通信できないただの箱だ。
でもそこには、過去のチャット履歴やカメラロールが残っていた。
——そこに、いた。
画面をなぞる指が止まった。
私の隣で笑っている、黒髪の少年。
スニーカーの紐がほどけてて、目を細めて、何かを話していた。
でも、写真には彼の名前のタグがついていない。
連絡先も、履歴も、メモ帳にも、名前だけが抜け落ちていた。
スマホが壊れているんじゃない。
世界が、彼の“存在”だけを消したのだ。
「どうして……」
声が漏れる。
私は指で写真を拡大した。
画素が荒くなっていっても、彼の顔だけは、見えなくならなかった。
涙が、画面にぽたりと落ちた。
「私……忘れてないよ」
その瞬間だった。
部屋の空気が、一瞬だけ“止まった”。
時計の針が、カチリと逆に回る音がした。
そして私は——
気づく。
私は、世界の改変を受けていない。
世界が“書き換えられる前の記憶”を、私は持ち続けている。
*
次の日。
学校に行く途中、駅の掲示板が一瞬だけノイズを走らせた。
ポスターの文字が揺れ、信号が青のままフリーズし、誰もそれに気づかない。
私は確信する。
この世界は、“上書き”されている。
何者かが、記憶ごと、現実を書き換えているのだ。
そして、私はそれに抗える——唯一の存在。
「見つけてみせる。……絶対に」
スカートの裾を握りしめ、私は駅の階段を駆け下りた。
そのとき——
人混みの中に、一瞬だけ“彼”の姿が見えた。
ふわりと光がゆらいだように。
懐かしい気配。
振り向く。
そこには、誰もいなかった。
それでも私は、確かに感じた。
彼が、ここにいると。
世界がどれだけ書き換わろうと。
記憶がどれだけ消されようと。
私が、君を忘れるわけない。