1章 20
鴉は無言のまま、足早に窓辺へと歩み寄った。カーテンの隙間から外を覗く。その視線の先、街灯の灯りの下、建物の影のあちこちに黒い何かが蠢いている。
数え切れないほどの黒い影。そのどれもが人の形をしているようで、けれど明らかに“ヒト”ではない異形の気配がある。重なり合い、揺れ、音もなく地面を這うその様は、じっと見ているだけでも肌の奥底までぞわりと悪寒が這い上がるようだった。
鴉は静かに言葉を落とす。
「まるで蠢く泥の中に沈められた気分だな」
その声はいつも通り冷静だったが、どこか張り詰めた響きがあった。
綿花も窓の外の異様な光景に、思わず息を呑む。
影の集団は、こちらの存在に気付いているのかいないのか分からない。だが、確実にその数は増え続けていた。
外の様子を確認した国家は、思わず口元に笑みを浮かべた。彼の目は、驚きよりもどこか好奇心に輝いている。
「この数の影は初めて見るわねぇ」
言葉こそ冷静だったが、その表情にはほんのりと楽しげな色が差していた。危機感よりも、“面白いものを見つけた”子供のような、そんな軽やかさすら漂わせる。
国家は黒いボサボサの髪を揺らしながら、鋭い目だけを外に向けたまま、窓の枠にがっしりとした手をかけた。
その顔には、不敵な笑みがうっすらと浮かんでいる。
「ねえ、アナタ。腕に自信ある?」
視線は決して鴉には向けず、外の蠢く影の集団を眺めながら、声だけが低く響く。
「アタシと一緒に戦場で踊らなーい?」
その口調には余裕と挑発、そしてこれから始まる戦いへの高揚感が滲んでいた。ロングコートの裾が、わずかに揺れる。
「アンタ、まさかあそこに飛びこむ気か?正気じゃないだろ」
鴉は信じられないという表情で国家を見る。鋭いまなざしには、呆れと心配がにじんでいた。
「まだアイツら、こっちに気づいてなさそうだし。ひとまず様子見した方がいい」
「そうですよ、あんな数の敵を相手するなんて無謀ですよ!」
鴉と綿花は声をひそめて、何とか国家の無謀さを抑えようと必死だった。いつ襲ってくるかも分からない窓の外の影へと警戒の目を向け続けていた。
鴉と綿花が外の様子を窺うと、黒々とした影が地面から這い上がり、いくつもの塊が絡み合うようにして二階の窓の高さまで伸びてきていた。
「おいおい、なんか来るぞ。備えろ」
次の瞬間。
ガシャァァァァン!!!
窓ガラスが鈍い音を立てて砕け散る。
合体した影は黒い触手のように窓を突き破り、ためらいもなく国家の体をがっしりと掴む。そのまま国家を容赦なく地上へと引きずり下ろしはじめた。
だが、国家は叫び声を上げるどころか。
「アハハハハッ!アタシを選ぶなんて中々分かってるじゃなぁーい?」
引き攣るような笑顔を浮かべ、興奮と喜びに満ちた声で高らかに笑った。その瞳は戦いに飢えた獣のように輝き、常軌を逸した喜びが全身から滲み出ていた。
影に捕らわれながらも恐れの色は皆無。
その様子はまさに、狂気そのものだった。
「おいっ!」
鴉は思わず叫び、窓越しに手を伸ばす。しかし、国家の身体は容赦なく引きずり込まれていき、その手は空を切った。
次の瞬間、国家が地面に叩きつけられ、土埃が舞った。彼の周囲には、合体した巨大な影の化け物がうねり、その周囲を無数の影が取り囲んでいる。今にも国家に殺到しそうな、間違いなく絶体絶命の状況だ。
鴉は階段へ駆け出そうとするが。
「待って!」
背後からそっと手が伸び、鴉の腕をぎゅっと掴んだ。
振り返るとそこには綿花が、不安そうな表情で鴉を引き止めていた。その手には、普段の静けさとは違う必死さが滲んでいる。
「今行ったら、あなたまで巻き込まれる……!」
綿花の声は震えていたが、国家の異様な笑い声と影のうねりが、容赦なく場の緊迫感を煽るのだった。
鴉は綿花の手を振りほどきながら。
「お前戦闘経験は?戦えるか?」
綿花はほんの一瞬ためらったものの、すぐに意志のこもったまなざしで頷いた。そして、小さなカバンの奥から金属音を響かせて折りたたみ式の槍を取り出す。
「一応、槍術は学んでた。実戦経験もゼロってわけじゃない」
そう言って槍を素早く組み立てる。その手つきは思った以上に慣れている。
「あの化け物の相手できるか不安だけど」
「無駄な戦いは極力避けるつもりだ。避けられない戦闘だけ乗り切ってほしい」
綿花は槍を構え、覚悟を決めたように鴉を見上げた。
「ふふふふふっ!もっと激しく来てぇ!!!」
国家の狂気じみた笑い声が辺りに響く。地上で敵の注目を一身に集めている様子を鴉は冷めた目で窓越しに見つめていた。しばし沈黙する。
「ねぇ、国家さん大丈夫だと思う?」
「さあな。あんなデタラメな奴に付き合ってたら、命がいくつあっても足りないのは確かだ」
苦々しいような感心とも皮肉ともつかない口調で呟き、少しだけ口元が歪む。鴉は国家の意図になんとなく気がついた。彼は自分たちのためにわざと目立ち、敵を引きつけているのだ、と。
「綿花、今のうちに裏口から抜けよう。戦ってバカ見るのは御免だ。」
迷いも未練もないその言い方が、鴉らしさだった。
綿花は一瞬国家を心配そうにみやったが、すぐに鴉を信じて小さく頷く。手にした槍を構えながら、足音を殺して廊下に向かう。
「国家さんは、きっと大丈夫よね」
鴉と綿花は、そのまま敵達の目を欺いて裏口へと静かに走り出した。背後では国家の高らかな笑い声と、影たちのうごめく気配が遠ざかっていく。鴉は一度も振り返らず、ただ静かに前を見据えていた。
そして裏口まであと数歩というところで、不意に轟音が廊下に響いた。
ドガァン!
壁の一部が爆風で内側へ粉々に吹き飛び、舞い上がる粉塵の中から、一台のバイクが勢いよく突っ込んできた。ハンドルを握るのは、サングラスをかけた屈強な男。日に焼けた色黒の肌に短く刈り込まれた髪、圧倒的な筋肉の鎧をまとったような体格は、一目で只者でないと知れる。
バイクはきっちり綿花と鴉の進路をふさぐ形で停まった。その強烈な存在感に、思わず2人の足が止まる。
「なんだお前」
男はバイクからゆっくり降り、サングラス越しに冷徹な視線を鴉と綿花に向けた。その声は低く、命令のように響く。
「動くな。今から俺の指示に従え」
その一言で空気が固まる。だが、鴉は眉ひとつ動かさず、皮肉な笑みを浮かべて返した。
「悪いが、聞く気はない。どけ、邪魔だ」
鴉の言葉には、いつも通りの不遜な高圧さが滲む。しかし、男はまったく動じない。代わりに、鴉たちに向けて無言で太い腕を振る。
ーーその瞬間。
壁の穴から、闇のような影がいっせいに飛び込んできた。風を切る音と共に、無数の影が鴉と綿花に殺到する。
綿花は急いで槍を構え、鴉もすぐさま臨戦態勢に。男はその光景を余裕の態度で見下ろし、不敵に口元を吊り上げていた。
「逆らえば、どうなるか思い知るがいい」
飛びかかってくる影に対し、鴉は素早くナイフを抜く。刃が闇を裂き、影は不気味な悲鳴をあげて霧のように消えた。しかし、次から次へと新たな影が現れる。鴉は短い呼吸で動きながら、一瞬だけ横目で綿花を見やる。
「そっちに何体か行った」
「まかせて!大丈夫よ」
彼女は槍を構え、的確な動きで敵の攻撃を受け流している。鋭い突きやなめらかな回転で、影を次々と床に沈めていく。その姿には経験と覚悟が感じられた。
「やるな……!」
鴉が叫ぶと、綿花も短くうなずく。背中合わせで息を合わせながら、数を頼みに猛烈に押し寄せる影たちを二人は切り結ぶ。
サングラスの男は腕組みをしてその様子を見下ろし、余裕の笑みを崩さない。
廊下に黒いしぶきが舞い、それをかき消すように影たちが廊下を埋め尽くす。鴉と綿花が終わらない影の襲撃に必死に応戦している。その様子を、サングラスの男は少し離れた場所から冷静に見つめていた。
男の手には小型端末が握られていた。特殊なレーダー機能で画面には建物の見取り図と、生存している人間が3人、点となって表示されている。1人は表通りで暴れている国家、そして残り2人が今、目の前で戦っている鴉と綿花だ。
男は満足そうに静かに頷いた。
「逃がすわけにはいかない。全員回収だ」
男の声は低く、冷たい決意と支配欲に満ちていた。
影たちが襲いかかるが、その攻撃には少しだけ殺傷力が抑えられている。まるで、生きたまま捕らえるように加減されているのだ。追い詰められる鴉と綿花。
「私、しんどいかも……」
男の口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。その目は獲物を逃さない狩人のように、冷徹で揺るぎなかった。