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1章 15

死体や血の匂いが漂う路地の中、ふたりは言葉少なに歩いていた。

ふと綿花が足を止め、静かな声で問いかけた。


「ねえ、鴉。大事なものって、ある?」


鴉は無表情のまま、視線を少し落としてこたえる。


「……ない」


綿花は小さくうなずいた。

しばらく黙っていたが、ゆっくりと懐に手を差し入れる。取り出したのは、古ぼけて錆の浮いたナイフ。

彼女はそれを掌にのせて、刃先にそっと指を滑らせた。


「私はある。他の人から見たらただのナイフだけど私にとっては命の次に大事なの」


声は少しかすれ、目はどこか遠くを見ている。


「くだらないって思うかもしれないね。でも、これがなくなったら、心の安定が保てなくなりそう」


空気は重く沈み、ふたりの存在だけが、死の気配の中に取り残されていた。

綿花はそっとナイフを懐にしまおうとする。

ーー鴉はとっさに声をかけた。


「……待て、そのナイフ、よく見せろ」


綿花は一瞬、警戒した視線を向けてからナイフを差し出す。

鴉は震える指でそれを受け取った。錆ついてるがこの形状のナイフに覚えがある。

あの日、「ミナ」が浮かべた涙と同じ輝きを、ナイフの表面に見た気がした。

呼吸が浅くなり、古傷の痛みが疼く。

焚き火の明かりに浮かぶミナの声が甦る。


「ーーごめんなさい」

「ーーー信じられないの、誰も」


短い言葉、揺れた瞳。


「信じられないなら、最初からついてくんなよ」


自分が吐き棄てた台詞が、錆びた刃より心に刺さる。

ミナは最後まで、泣きながら自分に刃を向けていた。その手は決して迷っていなかった。

痛みと怒り、孤独と冷たさ。

鴉はあの夜から、誰も信じないと誓った。


「これを、どこで」 


その問いに、綿花はほんの一瞬、何かを探るように鴉の顔を見上げた。


「この前……妹の亡骸のそばに落ちてて拾ったの。私お姉ちゃん失格よね?やっと会えたと思ったのに妹は変わり果てた姿で冷たくなってた」


その言葉が、静かに、だが確実に鴉の心を撃ち抜いた。彼の中で、いくつもの記憶が一度に蘇る。焚き火の光、血の臭い、泣きながら自分を静かに睨んでいた少女――ミナ。耳鳴りのように、過去の声が頭の中を駆け巡る。


(……妹?)


まさか。

体の奥から、冷たいものが湧き上がってくる。鴉は一瞬、呼吸を忘れ、ナイフを持つ指先がかすかに震えた。もう終わった事だと自分の中では整理をつけていた出来事。その重さが、急に現実となって目の前に突きつけられる。

……あの夜、ミナが見せた決意の目。

手にかけることしかできなかった自分。

鴉は感情を顔に出すまいとするが、その奥底で、激しい動揺が渦を巻いていた。

目の前の女が、ただの生存者ではなく、あの夜の少女の“姉”だと知ってしまった今、何を言えばいいのか言葉が見つからない。

綿花は沈黙を不審そうに見つめていた。


「どうしてそんな風に聞くんですか? このナイフ、何か知ってるの?」


濃い雲からもれる僅かな月光が鴉の横顔を淡く照らす。

その瞳の奥で、罪と後悔が複雑にせめぎあっていた。

しかし、迷うことにはもう意味がないと、ふっと思った。これ以上隠していても、何も変わらない。

夜の静かな音を背に、鴉は顔を上げる。

彼の目には、決意の色が宿っていた。


「綿花」


鴉は短く名前を呼び、まっすぐに彼女を見据える。その声に、綿花がわずかに身じろぎした。


「……実はな」


言葉を選ぶことはしなかった。取り繕うことも、言い訳をすることも。ただ事実だけを、そのまま差し出すように、鴉は低く、静かに言葉を続けた。


「お前の妹を殺したのは俺だ。俺がやった」


鴉の声は静かで、どこまでも澄んでいた。

綿花の反応を見ることはしない。ただ、それだけを真っ直ぐに伝えることだけに集中していた。

すべてを打ち明けたその後、鴉は荒れた地面に視線を落とす。彼に残されているのは、綿花の手に委ねた運命だけだった。

鴉の告白を前に、綿花は驚いた様子も見せなかった。

心の奥では様々な感情が渦巻いているはずなのに、その表情はただ静かで、何一つ動かないままだった。

ほんの短い沈黙のあと、綿花は遠くを見つめたまま、淡々とした声で言った。


「……どうして、妹を殺したんですか」


その声音には怒りや悲しみも、責める色もない。ただ、事実を確認するだけのような、落ち着いた響きだけがあった。まるで、鴉がこう告白することを心のどこかで予感していたかのように。

鴉はその静かな問いかけに、一瞬息を呑む。

綿花の目はどこかここではない遠い場所から見つめているようでもあった。

追い詰められることも、許されることもない。

ただ、目の前の女性が「理由」を知ろうとしている、その事実だけが、重くのしかかる。


しかし綿花の問いにも、鴉はほとんど表情を変えなかった。罪悪感の色はない。ただ、事実だけを述べるように口を開いた。


「ナイフで刺された。信用できないと言われてな」


その言葉にも怒りも悲しみもこもらない。ただ経過を説明するだけの無機質な声。


「だから俺は、しかるべき行動をとっただけだ」


鴉の目には責任も後悔も浮かんでいない。

ただ静かに淡々と語り続けるその横顔には、人を殺したという重みさえ感じさせなかった。



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