1章 12
核の雲が月明かりをぼんやりと滲ませ、不気味な輝きを路地裏に投げかけていた。冷える風に身を潜め、鴉はじっと気配を消していた。
手に握られているのは、ワイヤーを巻きつけた短刀。刃とワイヤーには毒が塗られており、わずかでも触れれば確実に命を蝕む。
鉄パイプを失った鴉は、さらに効率的な殺しの道具を作り出していた。
標的は――薬師を倒したあの日から、瓦礫の街に散り残った野盗の残党たち。
統率を失いながらも、生き延びるために暴力を繰り返す彼ら。
薬師亡き後、新たな秩序を築こうと蠢く輩さえいたが、それが鴉にとって許容できるはずがなかった。
闇に融け込む鴉の指が、ワイヤーをそっと緩める。
シュッ――
小さな音と共に、ナイフが月光をわずかに返しながら宙を滑る。
戦いの幕開けだ。
毒を纏ったワイヤーは、路地の狭さを利して獲物を絡め取る。
残党たちが悲鳴を上げて振り返るも、すでに鴉は次の死角へ身を滑らせている。
煌めくナイフ。
毒と切れ味、そして空間の地の利。全てを味方にした鴉の狩りの前では、残党たちは為す術もなかった。
瓦礫の地面を静かに踏み、無駄のない軌道で、一人、また一人と仕留めていく。
ワイヤーが巻き付けば、抵抗する声も次第に細くなり、やがて瓦礫の上へ崩れ落ちる。
「……くだらねぇ狩りだ」
静かな声が路地裏に消える。
数日にわたる執拗な狩りの末、とうとう潜んでいた残党たちは全て粛清された。
薬師の死と共に支配者を失くした瓦礫の街は、新たな血の渦に飲まれ、古い秩序は霧散した。
鴉は静かにワイヤーナイフを巻き取り、その刃に乾いた血がこびりついているのも構わず、淡々と瓦礫の上を歩き出す。
「……これだけやったんだ。しばらくは大丈夫だろう」
低く呟くその声に、確信の色はない。
どれだけ狩り尽くそうと、この瓦礫の街に「安息」という名の終わりなど訪れない。
力あるものが去れば、次の闇が必ず這い出してくる。それはどうしようもない流れ。
そして、その流れの中に自分自身もまた組み込まれていることを、鴉は深く理解していた。
残党をすべて狩り終えたあと、鴉は瓦礫の街を静かに歩いていた。
どこまでも続く無秩序な廃墟。その中で、わずかでも安全を確保できる場所を見つけることが必要だった。
崩れ落ちた建物が並ぶ風景の中、一棟だけひときわ目を引くビルがあった。
灰色の外壁が薄暗い陽光を受け、その影は沈んだ都市の遺影のように路地へ落ちている。
それでも、かつての繁栄の名残をわずかに残して堂々とそびえ立つ姿は、この荒廃の中にあってどこか孤高の趣きすら感じさせた。
「使えそうだな」
鴉は念入りに周囲を確認しながら、ビルの入口へと足を運ぶ。
扉は半ば崩れ、かろうじて原形を留めていたが、内側に入ってみれば構造は意外なほどしっかりしている。
壁には痛々しい傷跡が無数に走っていたが、最低限の防御を担保する強度はまだ残っていた。
階段を静かに上り、上層階の窓際から外の景色を見下ろす。
そこは、瓦礫に沈む街全体を見渡せる絶好の位置だった。
この高さなら、下界の動きをいち早く察知できる。そう考え、鴉は警戒を緩めぬまま、ひとまずビルの隅にゆっくりと腰を下ろす。
かすかに吹き込む冷たい風が、ようやく息をつかせてくれた。わずかな静寂。
鴉はしばらくの間、遠くの街並みをじっと見下ろしていた。
どこからか吹き込む冷たい風が、ほんのわずか彼の髪を揺らす。
数日間、休みなく狩り続けてきた疲労が、静けさとともに全身に染みわたる。
警戒心を手放さないまま、それでも瞼はゆっくりと重くなっていく。
崩れかけのビルで、鴉はそのまま静かに目を閉じた。
瓦礫の街を見下ろすその場所で、誰にも邪魔されることなく、鴉は深い眠りへと落ちていった。
夢も、安堵も、なく。ただ、生存の証として訪れた一時の休息だった。
ビルの片隅に、眠る鴉の静かな息づかいだけが、夜の街に微かに響いていた
ーーそれから何時か経った頃。崩れかけのビルの静寂を、微かな違和感が満たし始める。
最初は空気がほんの少し、冷たくなっただけだった。
しかし鴉は眠りの中で、その変化を本能で感じ取っていた。まるで昼と夜の境がにじむ刹那のような、得体の知れない重苦しさ。
ふと、鴉は瞳を開けた。
背筋を這うような凍える気配。
視界の端で黒いなにかがじわじわと一つの塊となって現れるのが見えた。
それは、曖昧な輪郭の影の“化物”。
ビルの隅の闇から生まれたかのように、ゆっくりと身を引きずりながら這い出してくる。
鴉は一瞬で全身の感覚を研ぎ澄ます。
肩越しに手探りでナイフを握り、静かに息を殺す。
暗がりのなか、鴉の目の前で影はうねり、増えていく。
最初は一つ、二つ――やがて無数の影が絡み合い、互いに溶け合いながら、
部屋の天井にまで届くほど巨大な“塊”となっていった。
その黒い塊の全身には、幾重にも重たそうな鎖が巻き付けられている。
鉄の軋み、引きずるたびにガラン、ガランと音が低く響く。
鎖は時折ぶつかり合い、火花が散っていた。巨体の中心には目のようなものが闇の中でぼうっと輝き、じわじわと鴉に視線を向けてくる。
冷たい絶望が鴉の背筋を這い上がる。
動けばその巨大な影に呑まれる、そう直感して鴉は息を止めた。
影は、その巨体が瓦礫を這い、崩れた天井に鎖を引っかけながら、
ずるずると鴉に向かって距離を詰めてくる。
「――ニンゲン……」
耳に直接響くような、重たく低い声。
言葉というよりは、絶望そのものが形になったような響きだった。
鴉の胸の鼓動が高鳴る。
巨大な影が鎖の音を鳴らしながら迫りくる。思考よりも先に、鴉の身体は動いていた。
腰元から素早くワイヤーナイフを引き抜く。
鴉は影の軌道を見極め、一瞬だけ呼吸を止めて床を蹴った。
鎖がギリ、と空気を裂く。
鴉は低く身を滑らせると、間合いを詰めつつワイヤーを巧みに操った。
「――ッ!」
細く鋭い刃が滑空する。
鴉の手から放たれたワイヤーナイフは、影の身体の鎖をかすめながら、その黒い“質量”に突き立てられる。
影が、不気味な呻き声をあげる。
刹那、毒が影のなかへと拡散していく。
だが、それでも影は揺らめきながら巨大な腕を振り上げ、鴉に向かって容赦なく鎖を打ちつけた。
「効いてるのか効いてないのか分からないな」
鴉は動きを止めない。ヒリヒリした殺気のなか、喉を焼くような焦燥感を覚えながら、
影がひるんだ隙にさらにワイヤーを巻きつけ、何度も鋭くナイフの刃を引いた。
だが、影の内側はどこまでも底知れぬ闇。
毒の効果は確かにあるのだろうが、その巨体すべてには広がりきらない。
鴉は息を切らし、冷静に次の一手を探る。
影の全身から、じわじわ“黒い霧”のようなものが漏れ出し始めた。
それは毒による変化か、あるいは激昂。影は怒りに鎖を激しく打ち鳴らしながら、再び鴉に向かって襲いかかる。
影の化物は、鴉の攻撃に耐えながらもその巨体を震わせて――。
「グゥォォォォォ!!」
低く、重々しい咆哮を上げた。
その声は空気を震わせ、ただの音ではなく、
まるで大地そのものを揺るがすような凄まじい衝撃波となって吹き荒れる。
床が軋み、天井のコンクリートがミシミシと悲鳴を上げる。
次の瞬間、壁という壁、支柱という支柱に、蜘蛛の巣のようなヒビが四方八方に走った。
壁が崩れ、粉塵がひときわ濃く舞い上がる。
影の身体は鎖を引きずりながらさらに膨張し、ビルの一室をほとんど埋め尽くした。
鴉も身動きの自由を徐々に奪われ、全身を包囲されていく。
下の階で崩れ落ちる音が聞こえてきた。おそらく崩落まで、すでに時間の猶予はわずかしかない――。
建物全体にヒビが走り、崩壊の危機が迫る中、
鴉の瞳が闇の中できらりと光った。
(いまだ――!)
咆哮でよろめく影の巨体。その表面を締め付ける、無数の鈍い鉄鎖。
鴉は野生の勘のままに駆け、ワイヤーナイフを素早く構える。角度を見計らい、影の鎖の隙間に向かって勢いよくワイヤーを投げ放った。
鋭い金属音とともに、ワイヤーが鎖に何重にも巻きつく。
その手応えを左手でしっかりと掴み、鴉は最大限に全身の力を込めた。
「――ッ!」
内なる気合を込めて一気に引き絞る。
鎖は影の身体に深く食い込んでいた為、引き剥がされるごとに、影は激しく悶え、さらに大きな咆哮を上げる。
「グアアアアア!!」
埋まっていた鎖がズルズルと内部から引きずり出てくる。鴉が全体重を乗せて綱引きのように力を込めるたびに影の“形”が揺らぎ、その密度が目に見えて薄くなっていく。
鴉は感覚的に理解した。
(鎖を全部、剥がし切れば――!)
崩れかけた床の上でワイヤーを何度も操作し、
絡みついた鎖を容赦なく引き剥がし続ける。
そのたびに影は一層苦しみ、叫ぶ。
やがて最後の一本の鎖がワイヤーに絡まり、鴉の全力で勢いよく引き抜かれた。
ブチュッ、と音を立てて、鎖が飛び出た瞬間。
影の巨体は激しく波打ち、鎖の束が一斉に床へと落下する。同時に、闇の塊はみるみる淡く、脆く、霧散していった。
だが、安堵する間もなくビル全体が悲鳴のような轟音を立て始める。
「――くそっ!」
コンクリートの塊が天井から次々と降ってくる。
床には大きな亀裂が走り、その隙間が黒く口を開ける。鴉は息を乱しながら、壊れかけた梁を飛び越え、
崩れ落ちる壁の隙間をすり抜けていく。
粉塵で視界はほとんどなく、
振動と轟音が鼓膜を打つ。
ごうん、と背後で巨大な瓦礫が崩れ落ちる音――距離がどんどん縮まってくる。
(ここを抜ければ……!)
鴉は瞬時に出口への最短ルートを思い描く。
朽ちかけた階段を駆け下り、途中で倒壊したドアを蹴破り、転がる鉄パイプを踏み越えて、かすかな夜風の気配を追う。
やがて崩れ落ちる天井の隙間から、かろうじて残った非常口が見えた。
「あれだ!」
最後の力を振り絞り、鴉は瓦礫の上を跳び越えて外の闇と夜風の中へ、転げ出るように脱出した。
背後でビルが大きな悲鳴を上げ、
ついに崩れ落ちていく。
鴉は地面に片膝をつき、しばらく肩で息をしながら振り返った。
数分前までいた場所は、もう跡形もなく瓦礫と闇だけになっていた。静かに空気が流れ出し、夜の月の光が核の雲から薄っすら滲んで静かにその現場を照らしていた。
静寂が戻ったその場所で鴉はゆっくりと深呼吸し、生存を確かめるように拳を握りしめるのだった。