1章 10
冷え込みの厳しい瓦礫の街。その静けさを切り裂いて、鴉の足音が乾いたリズムで響き渡る。すぐ背後では、野盗たちの声と重い足音が次第に近づいてきていた。
彼らは単なる無法者ではない。組織だった動きと知性、まるで狩りを楽しむような余裕すら漂わせながら、冷酷に鴉を追い詰めてくる。
「くだらねぇことに足を突っ込んじまったな……」
小さく吐き捨てると、鴉は呼吸を整え、素早く狭い瓦礫の隙間へ身を滑り込ませた。
その一瞬、記憶が数日前へと引き戻される。
*
薄闇に沈む補給地点。食料も水も底をつき、生き延びるため鴉は野盗たちの管理地帯へと足を踏み入れていた。
銃を持った数人の野盗が警戒して辺りを包囲するなか、中心には冷徹な眼光の男がいた。彼こそがこの集団のボス、カリスマ的な威圧感を携えた男だ。
鴉は無言でバッグから金銀のインゴットを取り出し、机の上に静かに置いた。
「これで取引できるか?」
低く落ち着いた声が空気を振るわせる。
男はインゴットに一瞥をくれ、一瞬だけ口元を吊り上げる。しかしすぐに感情を消し去ったかのように冷たい表情に戻る。
「お前の要求は?」
鴉は即答した。
「食料。缶詰でも干し肉でもなんでも。あと、汚染されてない水だ」
互いの視線が一瞬交差した、その刹那。
突然、背後から響く銃声。ボスらしき男の鋭い声が
「こいつを捕らえろ」と命令するのを鴉は耳にした。いきなりの状況に考える暇もなく、鴉は取引の場から逃げるほかなくなったのだった。
*
そして現在。
鴉は瓦礫の隙間から静かに身を乗り出す。追ってくる野盗たちの足取りは速く、動きにも無駄がない。
そして、その背後から響くボスの怒号。
指示はすべて的確で容赦がない。訓練された追跡者の冷たい気配が、空気をさらに張りつめさせていた。
「取引する相手を間違えたな」
低く呟き、鴉は鋭く周囲を見渡す。
逃走か、戦闘か。いずれにせよ、選択の猶予は残されていなかった。
鴉は手にした鉄パイプをしっかりと握り直す。冷たい金属の感触が手のひらに伝わるたび、集中力がさらに研ぎ澄まされていく。
慎重に状況を見極めながら、鴉は細い路地裏へと足を踏み入れた。背後からは10人近い野盗たちの足音と怒号が波のように迫る。その連携は決して素人のものではない。巧妙に包囲し、逃げ場を与えまいと誘い込んでくる。
「……結構な数だな。だが、寄せ集めに過ぎねぇ」
冷淡な声で呟き、鴉は静かに鉄パイプを肩から下ろす。
路地裏の狭さを計算した動き。わざと深部へと進み、自分だけが最大限に動ける位置へと野盗たちを誘い込む。
「これで終わりだ、逃げ場はねぇぞ!」
先頭の野盗が勝ち誇ったように叫んだが、鴉はじっと振り返って冷たい目をぶつける。
「それは…こっちの台詞だ」
低く呟くや否や、鴉は鉄パイプを振り抜いた。
狭い空間では野盗たちの動きが封じられ、先頭の男は避ける隙もなく、頭部を直撃されてその場に崩れ落ちた。
グシャッッ!!
続けざまに二人組が突進してきたが、鴉は軽く身を交わしつつ、鉄パイプを横薙ぎに払う。
メキャッ!!
二人の野盗が壁際の瓦礫に沈む。
背後では長髪の男がナイフを構えて飛びかかってくる。鴉は素早くその腕を掴み、鉄パイプを顎に叩きつけた。
ズギャッッ!!
ナイフが地面に跳ねて音を立てる。
直後、三人が連携して一気に距離を詰めるが、狭さゆえに身動きが取れず、それぞれ間合いを誤った。
ゴキッッ!!
鴉は一人ずつ的確に突きをいれ、無駄なく仕留めていく。
恐怖に駆られて二人が逃げ出そうとした瞬間、鴉の腕が振るわれる。
ボゴォッッ!!
走り出す背中を無慈悲に殴打し、その場に転がす。
最後に残った野盗は無線でボスの命令を受け、死に物狂いで抵抗するが――
「ボスに伝えとけ。“これから礼をしに行く”とな」
「ひ、ひぃぃぃぃ!」
ガスッッ!!
すべてが終わった。
路地裏に静寂が戻る中、鴉は鉄パイプを肩に担ぎ直し、倒れ伏した野盗たちをただ冷ややかに見下ろして呟いた。
「……無駄な体力使わせやがって」
低い声が、死の静けさに吸い込まれていった。
狭い路地裏での激闘を終えたにも関わらず、鴉の顔には一切の疲労は見えなかった。
「結局、騒がしいだけの連中だったな。所詮、寄せ集めだ」
低く吐き捨て、鉄パイプの先端についた瓦礫の粉塵を指で払う。
その瞬間、背後で乾いた拍手と足音が混じり合って響いた。
「見事なもんだ。たった一人で俺の手下を皆殺しとはな」
鴉が無表情で振り返ると、薄暗い路地の奥に先ほどのボスらしき男の姿が現れる。
取引場では一線を引いていた男が、今は数人の部下を従えて最前線に立っている。その佇まい、ただならぬ威圧感を放っていた。
「ここまでの奮闘は称賛に値するが、この程度じゃ終わらないと、もちろん分かってるよな?」
ボスは淡く嘲るような笑みを浮かべつつ、ゆっくりと歩み寄る。
その目は氷のように冷たく、鴉の一挙手一投足を見逃さない獣の目だった。
「ここからが本番だ」
鴉は鉄パイプを再び構え、じっとその視線を受け止める。
彼の声が静かに、しかし鋭く空気を切り裂いた。
「……なぜ俺を狙う?」
その問いには挑発や怒りはなかった。ただ事実を突き止めるための、研ぎ澄まされた刃のような響きがあった。
ボスはほんのわずかに口元を歪め、面白そうに肩をすくめる。
「理由? そんなもの決まってる。お前が生きてる限り、俺たちの計画が進まねぇ」
「計画……?」
鴉の瞳に鋭い光が走る。
ボスはその反応を心底楽しむように、さらに語り出す。
「そうだ。この街を――いや、この瓦礫の世界を俺が掌握する。秩序なき混沌に“秩序”を打ち立てなおすのが俺の役目だ。だがな、その秩序を乱す奴がいれば、始末して当然だろう? お前のような動きも予測できない何をやらかすかも分からない不安要因は、ここには不要だ」
最後の言葉に込められた圧倒的な断絶と威圧感に、周囲の空気がさらに冷え込む。
「秩序?くだらねぇ言葉だ。お前にとっちゃ、ただの力のひけらかしだろうが」
鴉の鋭い言葉に、ボスの口元の笑みがさらに深まる。
その目に、わずかな興味の色が宿る。
「お前の噂は、末端の連中から聞いてる。学ランを着て、鉄パイプ片手にうろつく男……最近俺の手下が何人もお前にやられた。直接“挨拶”したかったんだが、こうして会えるとは思わなかったよ」
鉄パイプを握り直しながら、鴉は冷ややかな視線でボスを睨みつける。
「……どうりで最近、雑魚の相手ばかりだと思った。全部お前の手下だったわけか」
睨み合うふたりの間に、鋭い静寂が落ちる。
湿った風が路地に流れ込み、金属の冷たい匂いが舞う。
「まあつまり、お前がこの連中の親玉なんだな?なら排除しないとな」
鴉の言葉に、ボスの笑みが意志の底からさらに濃くなる。
「いいだろう、相手になってやる。後悔するなよ」
ボスが静かに手を振り下ろすと、すぐさま背後の精鋭たちが鴉に襲いかかった。
これまでの半端者と違い、隙のない隊列、素早い動き。彼らはまるで一個小隊のような精度で鴉に迫る。
「……なるほど。こっちが“本物”ってわけか」
鴉は静かに呟くと、鉄パイプを構えて体を躍らせる。
巨体の男がナイフを振り下ろすが、鴉は躊躇なく壁沿いに滑り込み、男の股下へ滑り抜ける。
ドスッ!!!
鉄パイプが男の急所を穿ち、そのまま崩れ落とす。
間をおかず、別の手下が横合いから飛び掛かる。しかし鴉は壁を蹴って素早く左右に移動し、相手の死角にまわる。そして、跳躍と同時に高所から振り下ろした一撃が、敵の頭蓋を直撃した。
メキッ!!!
瓦礫の上に沈む手下たち。
その光景を、ボスは冷たい目でじっと見下ろし続けていた。
焦りも動揺も見せず、ただ静かに、鴉の機敏な動きを観察し続けている。
「無駄のない身のこなしだ。だが、その技もここまでだ」
そう言いながら、ボスは一歩前へ出て、ゆっくりと腕まくりを始める。
その仕草はあまりにも落ち着いていて、むしろこれまでの敵とは“格”が違うことをはっきりと示していた。
鉄パイプを構え直す鴉の瞳に、久しぶりに微かな闘志の色が灯った。本番の始まりだと悟るように。
「この街で生き残れるのは、力と覚悟を持った奴だけだ」
低く響くその一言は、場の空気ごと圧し潰すほどの威圧だった。手下たちは息を呑み、誰一人動こうとしない。そんな中、鴉はわずかな焦りすら見せず、鉄パイプを肩に担ぎ直し、真正面からその様子を値踏みするように見つめていた。
「猿山のボスらしい演説だな」
皮肉交じりに呟く鴉に、ボスの表情は微動だにしない。
彼が静かに構えを取る。その手は拳ではなく、開かれた掌底。攻防一体の無駄のない構えだった。
「お前には一応、敬意を払っているつもりだ」
低く、だがはっきりとした声。そのままボスは一歩を踏み出す。わずかな重心移動で、空気の圧がさらに強まった。
冷たい路地裏に張りつめた静寂が漂い、わずかな風が二人の間を掠めていく。
鴉はパイプを深く握り直し、鋭くボスを睨みつけた。
「敬意なんざ要らねえ。さっさと消えてくれ」
次の瞬間、ボスの体が疾風のごとく前に躍り出る。
その速度、手下たちとは比べ物にならない切れ味。熟練者ゆえの読みと反射、隙のない攻撃が鴉に迫る。
鴉は即座に横手の配管パイプを掴み、壁を蹴って高所へよじ登る。
ガァァァン!!!
凄まじい衝撃音が路地裏に響き渡る。
鴉が音に反応して見下ろした瞬間、ボスの掌底が数秒まで自分の立っていた地面を一撃で粉砕していた。鴉とボスはニヤリと微笑んだ後、即座に次の動きへと移る。
火花が散るような攻防の幕開け。本当の決闘が、路地裏で静かに燃え上がった。