缶ビールの肴としての排骨便當への追憶
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」と「Gemini AI」を使用させて頂きました。
次シーズンの手頃なアクセサリーや小物の物色を目当てに堺東の高鳥屋百貨店を訪れた私こと王美竜は、エレベーターに貼ってあった催事の告知ポスターに思わず目を奪われたの。
「へぇ、台湾物産展。難波の商業ビルだと常設のがあるけど、堺東でもやっているんだ…」
中華民国の台南市で生まれ育った私にとって、この物産展は否応なしに興味を惹かれる物だったよ。
日本での留学生活も楽しいけど、異国の地で出会う故郷の味覚の懐かしさには抗い難いね。
期間限定の物産展で催事会場のキャパシティもある訳だから、そこまで品揃えが良い訳でもないし、イートインスペースが用意されている訳でもない。
だから台湾物産展に並んでいたのは、太陽餅とか雪花餅みたいな割とポピュラーなお菓子類が主な品揃えだったの。
パイナップルケーキやライチケーキなんか、空港の売店の陳列棚からソックリ持って来たんじゃないかと思わんばかりだよ。
「後は鉄観音を始めとする台湾茶やお香が目立つね…おっ、あれは!」
そんな私の目を引いたのは、催事会場の一際目立つ一角に積まれた丸いステンレスの容器だったの。
「ああっ、懐かしいなぁ!台鉄の排骨便當…台湾鉄道のエンブレムも、蓋にキチンと入っているじゃない。」
「あっ…ありがとう御座います。台鉄に御乗車された事が御有りなのですね、御客様。」
あまりにも反応がオーバーだったのか、学生バイトと思わしき若い店員さんには驚かれちゃったね。
だけどそれは、この排骨をメインディッシュに据えた台鉄弁当に対する思い入れがそれだけ深かったって事だよ。
あれは確か、妹の珠竜が私の在籍する国民小学に上がった年の冬休みだったね。
春節が終わってからのタイミングでお父さんの有給が取れたから、私達一家は台湾鉄道を使って四泊五日の家族旅行に出掛けたんだ。
そうして朝早くに高鐵で台北まで行ったから、お昼ご飯は台鉄の中で食べる事になったの。
「新北の烏来まで一時間は掛かるから、その間に美竜も珠竜も食べちゃいなさいね。」
そうして両親が昼食として私達姉妹に買い求めてくれたのが、あの台鉄名物として名高い排骨便當だったって訳。
「わぁ、温かい…まだ温かいよ、お姉ちゃん!」
「気をつけてよ、珠竜。ステンレスが熱々になっているからね。」
妹に釘は一応刺しはしたけれど、その気持ちはよく分かったの。
地元の台南市に比べて肌寒く感じられる冬の台北だと、ステンレス容器で保温された台鉄弁当の余熱は本当に有り難く感じられたからね。
しかもメインディッシュが私の大好きな排骨な訳だから、否応なしに期待も高まるって物だよ。
だけど当時の私は、すぐには蓋を開ける事が出来なかったの。
それと言うのも…
「はい、今はロング缶を一本だけ。烏来では温泉に浸かるんだから、あんまり飲み過ぎちゃ駄目よ。」
「分かってるよ、白姫さん。子供達の目もある訳だし…」
しかし言うが早いか、お父さんは待ち切れないとばかりにアルミ缶のプルタブを空け、嬉々とした様子で排骨を肴に缶ビールをやり始めたんだ。
カラッと揚げられて甘辛いタレと八角の風味がよく効いている排骨も、付け合わせの漬け物も、ビールとの相性は申し分なかったろうな。
「お姉ちゃん、食べないの?この排骨、美味しいよ。」
「えっ?ああ、うん…」
ああして妹に指摘されるまで上の空だった辺り、あの時の私は目が釘付けになっていたんだろうな。
両親が美味しそうに飲んでいる、ロングサイズの缶ビールに。
「どうやら美竜は缶ビールが欲しいみたいだね、白姫さん。」
「だけど駄目よ、美竜。貴女は未成年なんだから、それで我慢なさい。」
だけどあの時の私には、母から突き出されたノンアルコールビールで渇を癒すのが関の山だったよ…
その後も家族旅行で台鉄には何度も乗ったし、その度に排骨便當を買って貰ったけど、ビールの肴として愉しむ事は最後まで出来なかったの。
何しろ成人年齢を迎えてすぐに、私は日本の堺県立大学へ留学した訳だから。
私は進学の手続きで忙しかったし、国民中学に上がった妹も新しい友達と遊ぶ方が楽しそうだったから、止むを得ないとは言えるけど。
だけど今は違う。
この通り私は成人しているし、台湾でしか買えないと思っていた台鉄式の排骨便當にしても物産展で入手出来たんだから。
「オマケにビールは常備薬よろしく、冷蔵庫に常時ストックしている訳だからね。小学生の時の自分に自慢してあげたい気分だよ。」
そうして鼻歌交じりでロング缶を取り出せば、後は待望の時間を享受するだけだよ。
グラスは予め冷蔵室に入れておいたから、そこへ注いだビールはすっかり冷え冷えになっていたの。
「う〜ん…効くぅ〜っ!」
景気付け代わりに一口やれば、もう頭が痛くなる程だったよ。
この後の待望の瞬間に、否応なしに期待が高まるね。
「ウンウン、見本通りの仕上がりだね。茶葉蛋じゃない普通の茹で卵なのは少し惜しいけど、これだけ本格的な排骨便當が日本で手に入ったんだから贅沢は禁句だよ!」
日本の下宿だから実家みたいに電鍋とはいかないけど、蒸し器で加熱したステンレス容器は良い感じに温まっていたの。
ノスタルジックな気分が、否応なしに高まってくるね。
ここまで万全の準備をしたなら、後は存分に享受するだけだよ。
だけど…
「あれ…?」
いや、決して不味い訳じゃないんだよ。
むしろ普通に美味しい方。
排骨は充分過ぎる程に味が染みているし、漬け物もピリ辛で自ずとビールが進むよ。
このジューシーで濃い味な排骨とビール特有な心地良い苦味は、見事な相性だね。
それらの具材から染み出た旨味を吸った白米の美味しさと来たら、もう堪えられないよ。
こんな美味しい排骨便當なのに、私はどうして物足りなさを感じているんだろう?
長きに渡って待ち望んでいたら、期待が無駄に膨れ上がってしまったのかな。
そんな、芥川龍之介の「芋粥」って小説じゃあるまいし。
「仕方ないなぁ、テレビでも見ながら晩酌といくか…」
何処か満たされない思いを少しでも埋め合わせようとしてつけたテレビでは、一昔前まではアイドル歌手として人気だったというバラエティ系タレントがゲストを迎えてトークしながらローカル鉄道に乗る旅行番組がやっていたの。
毒にも薬にもならない無難な番組だけど、一人でボンヤリと手酌しながら見るには申し分ないチョイスだよ。
「ふ〜ん、街興しの一環に産学共同で作った駅弁ねぇ。確かに最近、そういうのが流行っているみたいだけど。」
そんな具合に手持ち無沙汰でビールを呷っていたら、もうロング缶が二本も空になっちゃった。
次はウイスキーでもやろうかな。
「あっ、良いなぁ!あの女優さん、カップ酒やってるじゃない…それなら私も日本酒にしたら良かったなぁ…」
そうは言っても、もう水割りは作っちゃった後だし。
太公望呂尚は「覆水盆に返らず」と言ったけど、私に言わせれば「水割り既に分けれず」だよ。
「う〜ん、私にはピンと来ないなぁ…この人達がアイドルとして売り出していたのは私が生まれる前の事だし、そもそも台湾じゃなくて日本の歌だもんなぁ。だけど車窓を眺めてお喋りしながら、駅弁を肴に一杯やるのも悪くないかもね…って、ああっ!?」
それは正しく、横っ面をはたかれたかのような衝撃だったよ。
排骨便當を肴にした今回の晩酌に欠けていたのは、旅情だったんだ。
下宿の学生用マンションでテレビを見ながら飲み食いしていても、旅情なんてちっとも出やしないよ。
「そうかと言って、次の帰省で台鉄で家族旅行をやるのも無茶だよなぁ。お父さんやお母さんにも用事があるだろうし、珠竜にだって都合がある訳だし…」
特に悩ましいのは、台南市の国民中学に進学した五歳下の妹の事なんだよね。
今は珠竜だってクラスの友達と一緒に遊びたい盛りだろうから、旅行で数日間も拘束するなんて可哀想だよ。
日系二世の菊池須磨子さんとか曹操の末裔だという曹林杏さんとか、とっても良い子達と友達になれたみたいで安心したよ。
私の家は王元姫の一族の末裔だから、妹の友達が曹操の子孫というのは不思議な縁と言えるだろうね。
「友達…ねぇ。」
すると私の脳裏に、ちょっとした閃きが生じたんだ。
「んっ、そっか…その手があったか!」
そうして生じたささやかな閃きは消える事なく、徐々に形を成し始めてきたんだよ。
大教室の講義が終わり、昼休みに入ったタイミング。
ベッドの中で寝ながら考えたプランは、思っていたよりスムーズに受け入れて貰えたの。
「来月の第一日曜日なら空いてるよ。入館無料デーを活用する形で、和歌山の県立博物館と県立近代美術館をハシゴするんだね。奮発して特急サザンの指定席を取るのは、缶ビールの肴に駅弁を食べたいから?成る程、美竜さんも日本の鉄道旅で旅情を満喫したいんだね。私で良ければ付き合って構わないよ。」
二つ返事で受け入れてくれたゼミ友の蒲生さんには、足を向けて寝られないよ。
こういう時に持つべきは、妹の面影があって優しいゼミ友だね。
「ありがとう、蒲生さん!駅弁に関しては私が用意するから、蒲生さんは気にしなくて良いよ。高鳥屋の物産展で排骨便當を予約しといたから、堺東駅の難波行きホームで待ち合わせだね。」
この私の一言には、流石に蒲生さんも驚いたみたい。
「えっ?美竜さんの言っている駅弁って、和歌山の駅弁じゃなくて台湾鉄道の駅弁なの?」
どうして和歌山市までの日帰り電車旅で台鉄名物の排骨便當を食べる事になるのか、因果関係が分からないだろうね。
だから事情を説明した時には、蒲生さんには大笑いされちゃったんだ。
「なぁんだ、小学生の時の家族旅行のリベンジだったんだね。その時から缶ビールに興味があっただなんて、美竜さんったら本当に酒好きなんだから。もしかしたら、お酒で産湯を使ったのかもね?」
「そうそう!焼酎のお湯割りだから、身体の芯から温まって…って、違う!そもそも赤ちゃんの段階でお湯割りに浸かってたら将来が末恐ろしいよ!」
大学祭で漫才を演じた後遺症なのか、ついついノリツッコミをしたくなっちゃう。
だけどイベントがある度に懲りずに漫才をやっちゃうんだから、すっかり楽しくなっているんだろうな。
「だけど乗ったよ、その話!天下茶屋から和歌山市までを繋ぐ南海本線の特急車両で、台鉄名物の排骨便當を肴にビールをやる…なかなか出来る経験じゃないね。長生きはするもんだよ。」
「いやいや!女子大生でしょ、蒲生さん!その歳で『長生き』は生き急ぎ過ぎだって!」
まさか蒲生さんがボケ倒してくるとはね。
大学祭の漫才ではツッコミだったというのに、分からない物だよ。
「これぞ正しく『命短し、酔いどれ乙女』ってね、美竜さん!」
「それを言うなら『恋せよ乙女』だよ!『明日の宿酔無いものを』じゃないんだよ、蒲生さん。」
我ながらよくツッコんだとは思うけど、これなら特急サザンの車中も楽しい道中になりそうだよ。
後はアルコールの回り過ぎと羽目の外し過ぎに気を付けなくっちゃなぁ…