ガラス種板の貴女に綴った手紙
あの古びた幻灯機を父から貰ったのは、小学校高学年の頃の春休みだった。
校門を出た所で浴びたという桜吹雪の名残か、自家用車から降り立った父の肩や袖口から桜の花びらがパラパラと落ちていたのが、今でもありありと思い出せる。
「確かに物は古いが…漫画雑誌の付録のスライドより造りは丈夫だし、まだまだ動く。好きに遊ぶが良いぞ、竜太郎。」
古びた箱から出てきた年代物の幻灯機を見つめる僕の心を知ってか知らずか、僕の父こと生駒往馬は鷹揚に笑っていた。
「我が鹿鳴館大学の倉庫で埃を被っておってな。処分するのも忍びなく、竜太郎の遊び道具にと持ち帰ったのよ。」
学校法人私立鹿鳴館大学の創設者一族にして理事を務める父の権限なら、廃棄予定の備品を貰い受けるなど、何でもない事だろう。
もっとも、この幻灯機が教材として用いられていたのは明治から大正にかけての事だから、詳しい事は父も知らないようだけど。
だけど、このクラシックな幻灯機の魅力を理解するには、当時の僕は余りにも子供過ぎたんだ。
「でも…これじゃ古過ぎるんだよなぁ…」
とりわけ、電子ゲームやプラモデルみたいな流行りのオモチャで遊び慣れていた現代っ子の僕にはね。
父から貰った手前、邪険にする訳にはいかなかったけど、正直言って持て余していたんだよ。
そんな僕に助け舟を出してくれたのが、新米執事の白庭富平さんだった。
「まぁまぁ…物は試しですよ、竜太郎坊ちゃま。この幻灯機だって、御役御免で危うく捨てられる所を、坊ちゃまのオモチャとして第二の生を得たのですから。ここは一つ、この富平が一肌脱いじゃいましょう。」
当時は大学生だった富平さんは、僕の良き遊び相手になってくれた人だ。
目鼻立ちの整った男前だから、執事の御仕着せである黒い三つ揃えを着ると物凄く様になったんだよ。
「一肌脱ぐって言ったけどさ、富平さん…その幻灯機、動かせるの?」
「御安い御用!この富平、憚りながら映研では、上映スタッフとして鳴らした男。部員の中ではイの一番に、十六ミリ映写機の操作免許を取得したんです。こと映写機に関しては、たとえ目を瞑っていても取り回せますから!」
でも、実は気さくで飄々として、とっても親しみやすい人なんだ。
さっきの安請け合い一つ取っても、いくらでも突っ込みが入れられるじゃない。
例えば、「十六ミリフィルムの映写機と幻灯機とでは、大分違うよ!」とか、「目を瞑って映写機の操作なんて、壊したらどうするの?」とかね。
時に頼もしく、時に剽軽で。
一人っ子の僕にとって富平さんは、まるで兄さんみたいに感じられたんだよ。
「よし…切れていた電球は新品に改めたら簡単に点灯したし、こうして埃を落とせばレンズも綺麗なもんだ…後は本体を磨き上げてっと…ところで竜太郎坊ちゃまは、『井戸の茶碗』という落語を御存知ですか?古びた仏像を磨いていたら、中から小判が出てくる噺なんですが、この幻灯機からも何か出てきたら面白いですね。」
ジャケットとベストを脱いだ白いワイシャツ姿で、幻灯機のメンテナンスをテキパキとこなす富平さん。
ほとんど軽口で構成された独り言のお気楽さとは裏腹に、その手付きは確かな物で、古びた幻灯機は往時の輝きを如実に取り戻したんだ。
「いかがです、竜太郎坊ちゃま。この富平の腕前、ちょっとした物でしょう?」
そして身支度を整えた富平さんもまた、ビシッとした三つ揃え姿に戻っていた。
その自信満々な顔を見ていると、さすがに僕も知らん顔は出来ないよ。
こうして馴染みの新米執事の顔を立てるために、幻灯会の観客の観客となった僕なんだけど、その事が僕の運命を大きく変えてしまったんだ…
その日の夜。
僕と両親、そして手の空いているメイドさん達を観客に幻灯会が開催された。
「往時を御存知の方には懐かしく、そして初見の方には目新しく。今宵は皆様方を、めくるめく幻灯の世界へ御招待させて頂きます。」
富平さんったら、普段の三つ揃えに蝶ネクタイと山高帽まで追加しちゃって、昔の曲馬団か見世物小屋の興行師でも気取っていたんだろうな。
上映前の挨拶も、大時代的で芝居掛かっていたし。
でも、こういうサービス精神旺盛な所が、富平さんの良い所なんだよね。
「まずは、東山文化を現代に伝える銀閣寺から…」
レンズと同じ丸形に映し出された、慈照寺の観音殿。
白黒で映し出された二階建て楼閣建築は、今と全く変わらぬ趣と美しさを僕達に見せてくれたんだ。
どうやら、この時の幻灯会に用いられたガラス種板は、地理の授業か観光用に作られた物らしい。
だって、白いスクリーンに次々と映し出された画像は、西本願寺の本堂や東寺の五重塔といった京都の名所旧跡なのだから。
祇園祭の山鉾巡行に、鴨川から撮影した五山送り火。
京都の風物詩である四季の祭の写真も、ガラス種板として網羅されていた。
それだけじゃない。
虫籠窓がある逗子二階の京町家を背景にした人力車夫や、八坂神社を社参する長刀鉾稚児など、明治期の京に生きた人々の姿が鮮明に記録されていたんだ。
そして、そのうちの一枚の画像に、僕の目は釘付けになってしまった。
今では重要伝統的建造物群保存地区に指定されている、京都市内の町家街。
そのうちの一軒の前に、一人の年若い舞妓さんが和傘を差して佇んでいた。
丸く結い上げた髷の下で輝く、あどけない細面の美貌。
スッキリとした鼻筋には気品があり、小振りで形の良い唇には、涼しい微笑が浮かんでいる。
そして何より、つぶらで大きな瞳が真っ直ぐに僕を見つめていた。
その吸い込まれそうな双眸と視線が合ってからの事は、よく覚えていない。
我に返った時には、両親やメイドさん達を始めとする他の観客は引き上げてしまっていた。
残っているのは、心配そうに顔を覗き込んでくる富平さんと僕だけだ。
「ねえ、富平さん…」
正直言って、聞きたい事は幾らでもあった。
あの舞妓さんは誰なのか。
そもそも、このガラス種板はどういう経緯で作られたのか。
そして何より、僕の胸の奥で熱く疼いているのは何なのか…
「僕…僕はね…」
でも、何から質問したら良いのか分からなくて、思わず口籠ってしまったんだ。
思っていた事が、上手く言い出せない。
それがこんなにも悔しくて、そしてもどかしいなんて。
「何も仰りますな、竜太郎坊ちゃま…」
だけど富平さんは、僕を急かす事なんて一切せず、全てを察したかのような笑顔で、僕の頭を撫でてくれたんだ。
「坊ちゃまは御好きなのでしょう?ガラス種板に描かれた、あの舞妓さんが?」
そして、それとなく教えてくれたんだ。
これが僕の初恋だという事をね。
「しかしながら…この富平、竜太郎坊ちゃまに断腸の思いで御伝え申し上げねばなりません。この初恋、決して成就せぬ物である事を御覚悟下さいませ…」
兄同然の青年執事に諭されるまでもなかった。
あの幻灯機もガラス種板も、どう新しく見積もっても明治時代の代物だ。
あの舞妓さんは、僕が生まれるよりずっと昔に天寿を全うして、彼岸の人となっている。
その事は、痛い程に分かっていた…
だけど、どうしても僕の気持ちは収まりがつかなかったんだ。
たとえ、理屈の上では理解出来ているとしても。
たとえ、あの舞妓さんが此の世の人ではなくなっていたとしても。
どんな形でもいいから、あの人に近付きたい。
その想いが、子供だった僕を突き動かしたんだ。
最初に僕が思い付いたのは、あのガラス種板の舞妓さんに手紙を書く事だった。
勿論、今更手紙なんか送っても届かないし、そもそも相手の住所はおろか名前さえも分からなかった。
それでも、心の中にわだかまっている思いを文章にして吐き出さずにはいられなかったんだ。
拝啓、ガラス種板の貴女へ
突然このような手紙を御送りする無礼を、どうか御許し下さい。
父から譲り受けた教材用の幻灯機に付属していたガラス種板の中で、優しく微笑まれる貴女の美しさ。
それに心を奪われ、思わず筆を執ってしまった次第です。
小学生の僕にとって、貴女は初恋の人でした。
だけど貴女と僕との間には、決して越えられない時間の壁があるのですね。
その壁を越えられない事が、僕には残念で仕方がありません。
貴女と一緒に吉野山の千本桜を眺めたり、秋の京都を散策したかったです。
僕が生まれる遥か以前に、きっと貴女は天寿を全うされたのだと思われます。
その生涯が幸多い物であった事と信じつつ、貴女への愛をお伝え申し上げます。
生駒竜太郎より。
名前さえも知らない初恋の相手に宛てた、人生初のラブレター。
インクの乾いた桜色の便箋は、桜の花の押し花と一緒に封筒へ収めた。
例の幻灯機を父が持ち帰ってきた日に因んだ封入物は、初恋相手に捧げるささやかなプレゼントのつもりだった。
その頃には僕は、あの舞妓姿の女性を「ガラス種板の貴女」と呼ぶようになっていた。
何とも気障な愛称だけど、そのように呼ぶ事で少しでも距離を縮められたように感じられたんだ。
でも、そこまでだった。
返信の返って来ない手紙では、結局は一方通行に終わってしまう。
たとえお互いに認知出来ないとしても、僕はあの人と寄り添ってみたい。
そこで僕は、手紙以外の方法も試みる事にしたんだ。
表面の印刷を丁寧に剥がし、舞妓さんの隣に一人分の余白を設けたガラス種板。
そこに、お湯に浸けてフォト用紙から剥がした僕自身の白黒写真を転写する事で、全ての準備は整った。
白黒写真の撮影や幻灯機の操作技術の手解き等で手助けしてくれた富平さんは、僕が何をしようとしているのかを薄々感づいていたんだろうね。
だけど富平さんは、敢えて何も言わずにいてくれた。
その心遣いは、本当に有り難かったよ。
とにかく、ここまで来た以上、後は実行あるのみだ。
新学期を間近に控えた、ある四月の夜。
明かりを落とした自室で、僕は割らないようにガラス種板を慎重にセットし、幻灯機の露光量を調整した。
「うん、上手くいった…」
子供部屋の白い壁紙に映し出された画像に、僕は満足した。
京町家が並ぶ一角で佇む、あどけない美貌の舞妓さん。
その気品ある笑顔の傍らに、確かに僕が並んでいる。
直接会って想いを伝える事はおろか、同じ空気を吸う事すら叶わなかったけれど、こうして初恋の人と寄り添う事が出来た。
それが幻灯機で映し出された虚像の中の自分だとしても、僕は満足だったんだ。
やがて新学期が始まり、僕は五年生に進級した。
小学校で授業を受けて、休み時間や放課後に友達と一緒に遊ぶ。
小四の三学期までと同様の平和な学校生活は、クラスの顔触れに多少の変化はありながらも、そのまま続いている。
クラスの男友達は色恋沙汰にまだ興味がないみたいで、その話題の中心は学習雑誌の漫画の展開だったり、プロ野球のペナントレースの動向だったりと、至って平和で罪のない物だった。
その穏やかな遣り取りに興じながらも、僕は時々考えてしまう事がある。
要するに、「この友達は、もう初恋を経験したんだろうか」ってね。
そうして僕は、あの学習机の引き出しに片付けた封筒の事を、つい思い出してしまうんだ。
桜花の押し花を添えた、桜色の便箋に綴ったラブレター。
決して成就する事のない初恋だったけれども、この切ない思い出は忘れずに覚えておきたいんだ。