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まがり角のウェンディ  作者: gojo × 霜月透子
6/18

 春先のこの時期、信也は日の出とともに床を出る。目覚まし時計をかけてはいるが、たいていは瞼の向こうの明るさで目が覚める。

 窓がすりガラスなのをいいことにカーテンをかけていない。それにもかかわらず、雨戸も使ったことはなかった。だからおのずと朝がわかる。

 しかし、今朝は窓からの明かりはなく目覚まし時計に起こされた。六畳間は薄暗い。

 今日は日差しが弱そうだと思いながら砂埃の溜まった滑りが悪い窓を開けると、外は霧雨だった。川向こうのマンションが白くかすんでいる。道理で明るさが足りないはずだ。

 目の前で縊死体のように揺れるハンガーを物干し金具から外す。昨夜のうちに干しておいた洗濯物は乾くどころか湿り気が増している。ベランダもないようなアパートだ。申し訳程度についているひさしでは無風であっても雨に濡れる。

 昨夜は月も出ていたし、まさか雨が降るとは思わなかった。

 信也はためらうことなく濡れた作業着を身に着け、流しで簡単に洗顔だけ済ませて家を出た。

 無料職業紹介所までは徒歩で行く。以前は自転車を使っていたのだが、ある日忽然と消えた。ブレーキはベルよりも大きな音が鳴ったし、なにが外れているのか、平たんな道を走っているだけでも車体がカラカラと音を立てていた。そんな自転車でも欲しがる人がいるものなんだなとちらりと思い、すぐに忘れた。電車やバスに乗る金などない。自転車がなければ歩くだけだ。その分早起きをしなければならなかったが、それについて思うところはなにひとつなかった。

 雨に煙る川沿いの遊歩道に人影はない。いつもならば犬の散歩をする人をちらほらと見かけるのだが、雨がやむのを待っているのかもしれない。

 雨音も立てない微細な水の粒が周囲の音を吸い込んでいく。国道を流れる車の走行音も遥か遠く、辺りは静けさに包まれている。

 しばらく歩いたところで傘を忘れたことに気づいたが、そのまま足を進める。濡れた作業着は滑りが悪い上にずしりと重く、とても歩きにくい。みるみる体が冷えていく。それでも信也は速度を変えずに歩き続けた。

 利用者たちがセンターと呼んでいる無料職業紹介所は、日雇いのほか、一か月以内の有期やそれ以上の常用の求人も行なっている。常用求人ではユンボやパッカー車を運転できなければならないなどの条件があり、集まる人はおのずと日雇いに偏る。

 無料職業紹介所に着いても霧雨は降り続いている。今日は終日雨なのかもしれないとぼんやり思う。

 いつもは人で溢れているピロティは閑散としていて、わずかにいる手配師もすでに撤収しようとしていた。屋外作業が多い日雇い労働では、天候によって求人数が大きく変動する。今日の職がないのは明白だった。

 信也は立ち止まることなく踵を返した。いま来た道を逆に辿り、帰路につく。

 一日でも収入が途絶えるのは厳しいというのに、仕事にありつけなかったのは今週二度目だ。本当ならばもっと早い時間に行くべきなのだろう。ほかの人たちはシャッターが開く一時間以上前から並んでいるらしい。信也は求人内容にこだわりはないため、紹介開始時刻に間に合うように行っているが、求人数が少ないとなると、これからはそうとも言っていられない。

 一日二食、しかもそのうち一食は握り飯ひとつだというのに、それさえきつくなってきた。数百円を削ったところでたいして状況は変わらないだろうが、とりあえず今日からは一日一食にしようと心に決める。日雇いの仕事はどれも肉体労働だからと二食はとるようにしていたが、どれほど体を酷使しようとも空腹など感じないのだから、ささやかな食事を一回減らすくらい影響はないはずだ。

 やわらかだった霧雨はいつしか粒を大きくし、ボツボツと顔を打つ。

 滅多に利用しない最寄り駅を通り過ぎ、住宅街へ入る。まだ通勤ラッシュには早い時間だが、すでに会社員らしき人々が足早に駅へと向かっている。数人とすれ違うものの信也の姿は彼らの目に映っていないようだ。玄関先で幼子を抱いた妻に見送られている男性が目に入ったところで、信也は道を折れた。

 急にひと気が途絶えた。住宅の少ない一角だ。道の左手にはアイアンフェンスが伸びており、木立の向こうに教会の屋根が突き出している。

 葉に落ちる雨粒が音を激しくさせていく。

 フェンスに沿って角を曲がり、川を目指して歩き続ける。作業着がたっぷりと水を含んで肩や腰に衣類とは思えない荷重をかけ、信也を地中へと引きずり込もうとする。それでも歩みを止めることなく進む足元には水の薄膜に覆われた道が続いており、靴底に穴でも開いているのか、指先辺りから冷たい水が浸み込んでくる。靴の中に水が溜まり、一足ごとにぐちゅぐちゅと不快な感触を足裏に伝えてきた。

 道はやがて土手に突き当たった。だが、遊歩道にはのぼらず、川裏の法面を横目に細い道を行く。すぐにアパートは見えてきた。

 トタン板が雨に濡れて錆が色濃く浮き上がっている。部屋の半分ほどは雨戸が閉まっている。住人が起床前なわけではない。もう何年も空室になっているのだった。年々、住人は減っていく。新しい入居者はいないようだから、大家は住人が自ら退居するのを待っているのかもしれない。立ち退きを迫られたら、新居は見つからないだろう。そうなればいよいよ住処を確保できなくなる。その考えは確信に近かったが、だからといって特段焦りもなく、ただ、そうであろうなと脳裏に考えが流れるだけだった。

 アパートに帰ると、上がり框で着ていたものをすべて脱いだ。しとどに濡れた作業着は重い上に体に張りついており、腕を引き抜くだけでも難儀した。

 襟の伸び切ったスウェットに着替えて再び濡れた靴につま先を差し込むと、脱いだ衣類を玄関先の洗濯機に入れた。ガタガタと揺れながら動き出した洗濯機にあとを任せ、信也は部屋へと戻った。

 濡れたままの上がり框で足を滑らせ転倒する。どういう態勢で倒れたのか、脛をしたたかに打った。片膝を立て、しばしうずくまる。悪態もつかず、うめき声もあげず、じっと痛みが遠のくのを待つ。それからおもむろに立ち上がると、やかんを火にかけ、台所の隅に寄せられたレジ袋から無造作にカップ麺を取り出した。

 雑巾で濡れた床を拭く。

 湯はまだ沸かない。

 突然、家鳴りがした。耳をすますと、トラックが通り過ぎる音が聞こえた。おおかたアパートの前の道を小型トラックかなにかが通過したのだろう。ガタガタと細かい揺れはすぐに落ち着いた。

 雑巾を干すために窓を開けると、雲間から日が差していた。

 開け放した窓枠に手をかけ、目の前の土手を眺める。アパートの二階にある信也の部屋は土手と同じ高さだが、遊歩道を行く人はみな前を向いていて、こちらに目を向ける人は誰もいない。

 やかんの口から蒸気が音を立てて噴き出している。

 沸かしたての湯をカップ麺に注ぎ、テーブル代わりにしている段ボール箱の上に置く。

 ふと、弾んで転がるような笑い声が耳に届いた。

 窓の外を見やると、遊歩道を保育園の大型ベビーカーが通っているところだった。六人乗りが二台、保育士に押されている。乗せられている子供たちは笑ったりしゃべったりして賑やかだ。ただ一人、真剣な面持ちで降り注ぐ光に手を伸ばす女児がいた。

 つられて信也もわずかに身を乗り出した。その拍子に段ボール箱を蹴飛ばし、カップが倒れた。湯が零れ、まだ固い麺の塊が転がり落ちた。

 信也は手づかみで麺をカップに戻すと、干したばかりの雑巾で床を拭いた。

 子供たちの声はもう聞こえなかった。代わりに、玄関の外で洗濯終了のブザーがけたたましく鳴った。


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