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「お疲れ様でした」
日当を受け取り、信也は勢いよく頭を下げた。
「おう。また募集かけたときはよろしく頼むよ」
「はい。こちらこそお願いします」
信也は再度頭を下げ、駅への道を急ぐ。
いままでは徒歩で帰ることが多かったが、最近は電車を利用している。数百円の運賃といえども毎日のこととなれば低収入の身には痛い出費だ。それでもいまの信也には惜しくはなかった。長らく忘れていた時間を金で買うという感覚が戻っていた。電車の到着を待つ数分間にはホームのベンチでノートを開き、ペンを握る。
手が、文章を書き始める――
《改札機が音を立てて閉じた。やっべ、と呟いた太一が精算機へ向かっていった。人波が去った頃に改札を抜けてきた太一に、亜美が手を振る。》
亜美が手を振ると、太一は恥ずかしそうに笑った。
「定期区間外だってこと、うっかりしてたよ」
気に入ったソファがあるのと連絡したら、太一がすぐに見に行こうと言い、さっそく仕事帰りに亜美の職場のそばで待ち合わせすることになった。
「帰り道が遠回りになっちゃったよね。ごめんね」
「いいって、このくらい。それより、気に入ったソファがあるんだって?」
「うん、そう。ランチに出たら、素敵な家具屋さんを見つけたの。でも、見に行くのは二人のお休みが重なる日にすればよかったね」
そうはいっても、週末休みの亜美と平日休みの太一とではなかなか休日が重ならない。
「大丈夫だよ。ほかの日はほかの日で、まだいろいろ準備しなくちゃならないだろ? それに、ふだん亜美が通勤している街に来る機会なんてなかなかないしな。そうかあ、亜美は毎日ここを歩いているのかあ」
太一はありきたりな街並みを物珍しそうに見渡しながら歩く。
「先に家具を選んじゃって平気かなあ。新居に合うといいな」
物件は太一が探してくれている。いくつか候補が見つかったら二人で内見する予定だ。
「任せとけ。プロの目でソファに合う新居を探してやるから」
不動産屋勤務の太一が得意げに言った。
「ソファに合う新居って……なにそれ、逆でしょ」
「いやいや、おれぐらいになるとだな……」
まだ明るさの残る街を二人並んで歩いていく。
来る日も来る日も信也は早朝の無料職業紹介所でも書き続ける。
最近では以前より朝早く着くようにしている。日の出が早くなってきたこともあり、早起きをするのもシャッターが開く前に並んでいるのも苦痛ではない。
列に並んだまま色褪せたナイロンバッグからノートを取り出す。書いていると、どんなに早く到着しても、瞬く間に求人開始時刻になるのだった。黙々と書き続ける信也のことなど誰も気にしていなかった。ここでは誰もが一日の始まる前から疲労の色濃く、他人が存在することすら意識していないように見えた。自分はいまや彼らとは違う。信也は、家族のために働く父親の気分を満喫していた。
まだシャッターは開かない。信也はペンを執る。
手が、文章を書き始める――
《新居の賃貸契約も終了し、本格的に家具選びを始めた。チェストやベッドもソファと同じ家具屋で選ぶことになった。忙しい時間の合間を縫って今日も仕事帰りに合流する。亜美は斜め前を揺れる太一の左手を取り、指を絡めた。》
太一が、急につながれた手を見下ろし、笑みを含んだ声で問う。
「なに? どうしたの、急に」
「んー。なんとなくー」
「あれえ? 亜美ちゃん、職場の近くで手をつないでもいいのかなあ? 誰かに見られても知らないよお」
「え。あ、そっか。やだ、やっぱり恥ずかしいかも」
太一にからかわれ、亜美は慌てて手を放そうとする。けれども瞬時に強く握り返されてしまった。
「自分からつないでおいてなに言ってんだよ。もうすぐ結婚するんだから、手をつないでいるのを見られるくらい平気だろ?」
恥ずかしさを紛らわすために、亜美は元気よく言った。
「ほかの家具もソファとテイストを揃えたいね」
「そうだな。選ぶのが楽しみだ」
太一は子供のようにつないだ手をブンブン振った。
信也は足早に踏切を渡る。夕日を背負った駅舎が見えてきた。
少し前までは夜の様相だった時間だが、いつしか日が長くなっていて、街並みはまだ明るさを保っている。見上げた空には、たなびく雲が薄っすら色づいている。日のあるうちに帰れそうだ。早く小説の続きを書きたい。
信也は疲労を忘れた軽い足取りで改札を通り抜けていった。
帰宅するなり、信也はペンを握る。
手が、文章を書き始める――
《カーテンの向こうで太一が母親と言い合う声を聞いて、亜美は試着室の中で笑いをこらえていた。》
「亜美さんはこっちのほうが似合うんじゃないかしら?」
「もう母さんは黙ってて。亜美の好きなのを選ばせてくれよ」
「もちろんよ。でも、あんたより母さんのほうがセンスいいと思うのよねえ」
「だいたいなんで新郎の母親がウェディングドレスの試着についてくるんだよ。こういうのは新婦の母親じゃないのかよ」
「なに細かいこと言ってるの。あちらのお母さんからお願いされているのよ。『仕事を休めないので、ご迷惑じゃなかったらお願いします』って」
「そんなの社交辞令に決まってるだろ」
「違うわよ。母さんたち、もうそんな仲じゃないわ」
試着室のカーテンが開かれる。賑やかだった親子は途端に口をつぐんだ。
長めの沈黙に亜美は少し不安になる。
「えっと……ど、どうかな?」
恐るおそる太一に声をかけると、太一の代わりに義母がハッとして笑顔になった。
「いいわよ! とても似合っているわ。ねえ、太一……ちょっと、太一ったら!」
「あ、ああ、うん、いいよ。すごくいい!」
「いやあね、この子ったら見とれちゃって」
「し、しかたないだろ。想像を超えてたんだから。絵本の中のお姫様みたいだ……」
「まっ! そんな風に言われたら照れちゃうわ」
「なんで母さんが照れるんだよ!」
「……なんだか母さん、お邪魔みたいねえ」
「さっきからそう言ってるだろ」
ついに亜美はこらえ切れなくて吹き出した。視界の隅でスタッフの肩も揺れている。
手が、文章を書いている。今日もまた信也の丸まった背中が、机代わりの段ボール箱に覆いかぶさっている。
夜の静寂にペン先と紙が擦れるかすかな音だけがする。ふいにペンの音が途切れ、ページを繰る音が大きく響く。そして、また静寂に飲み込まれそうなペンの音だけが続く。
書いているうちは眠気が訪れることはない。書くほどにますます冴え、不眠のまま朝を迎えることも少なくなかった。
日雇いの仕事は相変わらず現場ばかりで体力を使うが、きついと感じることはない。仕事中も心は亜美の物語に囚われたままで、ぼんやりするなと怒鳴られることはある。けれども、謝罪の言葉を口にする瞬間でさえすでに意識は物語の世界へと飛んでいる。
手が、文章を書き始める――
《またにやけてる、と同僚にからかわれて亜美は思わず頬を抑えた。仕事中でさえ、太一との楽しい時間が頭の中で勝手に再生される。》
ウェディングドレスの試着をしたときのことを思い出して、また亜美の頬が緩む。
太一がスマートフォンを掲げてスタッフに尋ねた。
「写真を撮ってもいいですか?」
太一が、「こっちに目線ください」「その笑顔いいねえ」などとカメラマンの振りをして何枚も撮るから、亜美は笑いが止まらなくなった。担当ではないスタッフまでもが二人を見て笑顔で通り過ぎていったほどだ。
「やばいです。亜美さん、美しすぎますよ」
「なぜ丁寧語?」
近くにいたスタッフが揃って声をあげて笑った。




