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まがり角のウェンディ  作者: gojo × 霜月透子
15/18

 四十九日を過ぎても後飾り台に白い覆い袋の骨壺が乗っている。信也が断固として納骨を渋ったためだった。遺影とともにきれいに畳まれた空色のワンピースも並んでいる。ひどい外傷はなかったため、当日着ていた服に血液の汚れは一切なかった。このワンピースは亜美のお気に入りで、度重なる洗濯で色褪せてもなお着続けていた服だ。


 信也は終日、亜美の遺影と遺骨の前に座っていた。葬式の日からずっとだ。

 一方、十和子は七日間の忌引き休暇を消化すると、これまで通り出社した。早朝出勤や残業が増え、むしろいままでよりも多忙な日々を送っている。そんな十和子の様子を信也の意識の片割れが眺めているようだった。


 ライティングの仕事も手につかず、依頼を何度か断っているうちにいつしか一件も連絡が来なくなった。亜美のいない生活では食事を作ることも掃除や洗濯も必要性を感じなくなった。それでもこれまでの習慣で最低限の家事は行なう。惰性ですらない、操られているかのような感覚だった。なにをしていても意識は亜美のもとへ向かう。

 調理をしているとメニューを尋ねる声がする。洗濯物を取り込んでいると手伝いを申し出る声がする。腰に飛びつく柔らかく温かな感触がある。すべて錯覚だった。すべて幻だった。そう気づいた瞬間、胸の奥が急激に凍る。こみ上げるものを自覚するより早く、とめどなく涙が溢れ、視界が滲む。

 部屋のどこを探しても亜美はいなかった。時計の針を進めようとしていた姿も、ぎこちなくタオルを畳んでいた姿も、夢中で本を読んでいた姿もない。


 ……本。

 信也が書いた『あみちゃん』を主人公にした童話は亜美のお気に入りだった。

 ぽつりと胸の片隅に小さな煌めきを感じた。これだ、という気がした。


 書こう。亜美の話を。


 あの日、事故など起こらなかった話を。打ち合わせを早々に切り上げ、いつも通り誰よりも早く迎えに行き、亜美と洗濯物を畳み、夕飯の支度をする後ろで亜美は本を読み、十和子が帰宅し、三人で食卓を囲む。そんな日々が続く話を。


 信也はひたすら手書きで亜美の物語を綴った。

 眠る以外はほとんどノートに向かった。


 小学校では気の合う友達ができる。目立たないけれどいつも教室の隅で友達と笑っている。中学校での成績は良くも悪くもない。だけど遅刻をしたこともなければ、忘れ物をしたこともない。係や委員がなかなか決まらないと、そっと手をあげてしまう。高校で気になる男子と親しくなるものの、互いにあと一歩を踏み出せず離れ離れになってしまう。大学でも充実した生活を送り、初めて恋人が……。

 信也が綴る小説の中で、亜美はすくすくと育っていった。




「亜美を眠らせてあげましょう」


 十和子が言った。もう百か日だからいい加減納骨しないと。そう言った。もうそんなに経ったのかという思いと、まだそれしか経っていないのかという思いが同時に湧いた。


 その後、どのようにして納骨を済ませたのか信也の記憶はぽっかり抜け落ちている。気づけば一周忌を迎えており、十和子が差し出した離婚届に署名捺印をしたのだった。

 家の売却、資産の等分など離婚にかかわるすべての手続きは十和子が行なった。信也はただ亜美の物語を書き続けていた。信也が書いているものが依頼された仕事でないのは十和子にもわかっていたはずだ。それでも、いつもペンを握っている信也を見ても十和子はなにも言わなかった。



 信也はいままでの家に程近いアパートに越した。築浅でリフォームも済んだ小ざっぱりとした二階の部屋だ。

 転居することになり、地元の不動産屋のガラスをザッと眺め、目についた貼り紙で即決した。住居などどこでもよかった。土地勘のある町で、家賃が手頃であれば問題ない。大家はアパートの隣の小さな平屋に一人暮らしをしている高齢の女性で、家賃は振り込みではなく直接集金に来るという。

 荷物は最低限の着替えと身の回りのもの、そしてノートだけだった。

 亜美の物語が書かれたノートは増え続け、段ボール箱いっぱいに詰まっている。

 信也はノートの詰まった箱だけを開梱すると、その箱を文机にして文章を綴り始めた。



《高校卒業のときは出せなかった言葉を、四年後のいまなら出せるだろうか。

「ねえ、太一」

 考える前に呼んでいた。

 太一の目が真っすぐこちらを向いた。街灯の明かりが瞳に反射して煌めいている。

「なんかわたしに言うことない?」

 木立の間を風が渡る。さわさわと葉擦れの音がする。

 太一の口が開く。

「そっちこそ」

 真剣な目をした太一と見つめ合う。

 二人は同時に……》





 信也はほとんど部屋にこもりきりで書き続けた。外に出るのはノートのページかペンのインクがなくなった時くらいだ。その際にまとめて食料や日用品を購入する。そしてまたノートに向かう。

 書いている間だけは亜美がいた。ノートの中に亜美がいた。綴る文章を考える必要などなかった。亜美の毎日を写し取るだけでよかった。


 玄関チャイムが鳴っていたが、訪れる人もなければ、届く荷物もない。

 部屋を間違えているのだろうと放置していたら、苛立たしげにドアが叩かれた。しまいには声高に呼ばれた。


「富田さん、いるんでしょう。出てきてくださいよ!」


 思い当たる節はないものの間違いではないようであるから、渋々ペンを置いて玄関へと向かった。


「いい加減払ってくださいよ」


 ドアを開けるなり、壮年の男に詰め寄られた。


「なんのことでしょう?」

「家賃ですよ、家賃。もう三か月も滞納しているじゃないですか」


 そうだっただろうか。考えてみようとするが、今日が何月なのかも判然としない。いつもはあの高齢の大家が集金に来たら月末なのだと知ることができた。そういえばここのところ大家の顔を見ていない気がする。しかし、払わなかったことはない。


「集金に来られたときは払っていますよ」

「集金? ああ、母はそうだったようですが、私は振り込みでお願いしていますよね?」

「えっと、あなたは?」

「は? オーナーですよ、いまの大家。母は施設に入ったから今後は私が管理することになっています……って、通知書類を送りましたよね?」

「そうですか。それはすみません。郵便受けを開けたことがないもので」

「はあ? 階段下に全戸の郵便受けがあるでしょう。見ていないのですか?」

「郵便が届く当てもないので……」


 大家を名乗る男性は聞えよがしの溜息をついた。


「じゃあ、とりあえず郵便の確認をしてください。振込先も書いてありますから滞納分と合わせて振り込んでくださいね。入金が確認できなかったら退居してもらいますから」


 家賃を払わなかったら退居。もっともなことだ。信也が深く頭を下げると、大家は横柄に頷いて帰っていった。

 信也は郵便受けへは向かわず、ドアを閉めた。段ボール箱の文机で小説の続きに取り掛かった。亜美は結婚式を控えている。

 数行書いて、手が止まった。

 ひどく久しぶりに会話らしい会話をしたためか、頭が妙に冴えている。

 滞納分と合わせて四か月分の家賃を振り込まなければならない。預金残高を確認するまでもなく、既に底を尽きつつあることは知っていた。支出は家賃だけではない。ただ小説を書いているだけでも生きていれば金はかかる。生きていれば。

 いましがた書いたばかりの文章を読み返す。



《そのときに願った。いつかここで結婚式をしたい、と。

 もうすぐその願いが叶う。

 あの角を曲がれば教会の門。

 強い風が吹き、木々がざわめく。亜美は足を止め、日傘が飛ばされないよう両手で支えた。風が行き過ぎる。顔をあげ、乱れた髪を手櫛で軽く整えて、角を曲がる。》



 信也は深くため息をつき、目を閉じた。

 河原のほうから中高生と思われる少女たちの弾むような話し声が聞こえてくる。犬が吠える。自転車のベルが鳴る。バットにボールが当たる音。歓声。


 ゆっくり瞼を開くと、緩慢な動作でノートを閉じた。それからおもむろに床に散らばっているノートを段ボール箱に詰め始める。

 段ボール箱の蓋を閉めたら、心も密閉された気がした。


 箱を押し入れに押し込みながら、信也は、職探しに行こうとぼんやり考えた。





 転げ回って号泣していた信也は、ようやく体を起こし、改めてノートを開いた。鼻をすすりつつページを繰る。

 二十年前のあのときに閉ざしたものは、時の流れにさらされず、いまもくすむことなく残されている。これは、亜美の物語などではない。記録だ。

 この中で亜美はたしかに生きている。

 最後のノートも終わりに近づいたところで、信也の手が止まった。

 同じ部分を何度も読み返す。



《空色のワンピースが風に揺れる。亜美は、結婚式前に日焼けをしたくないからと日傘を差し、なおかつ日陰を選んで歩いた。》



「やっぱりあの姿は……」


 教会の脇の道で陽炎のように揺らめいていた姿が脳裏に浮かぶ。

 半透明ではあったが、空色のワンピースと日傘は見間違えようがない。特に空色のワンピースは幼い頃のお気に入りでもある。あの日に着ていた服だ。


 間違いない。あれは亜美だ。大人になった亜美だ。

 生きていた。亜美は、生きていた。


 かつて、信也は段ボール箱とともに自身の心にも蓋をし、時の流れに取り残されることを望んだ。信也はネバーランドの住人となったのに、亜美は生き続けて立派な大人になっていたのだ。腕から肩、首筋へと鳥肌が立つ。


 亜美がいた。亜美の生きている世界があった。


 信也はノートの縁を強く握りしめた。

 亜美が生き続けているのは架空の世界ではない。この世界とは別の、けれど、たしかに存在する世界だ。信也が願いを込めて書いてきたものは単なる小説ではなかったということになる。信也の思いが強いあまり空想が実体化して生まれた世界なのか、あるいは、信也が介入する以前からもう一つの世界は存在していて、信也はなにか大きな力に操られて書かされていただけなのか……。

 いずれにせよ、信也の書く小説が、もう一つの世界に作用していることは確実だ。


 だが、この物語は途絶している。教会の脇の道を歩いているところで信也が筆を置いたからだ。このままでは亜美の道が途絶えたままだ。また亜美を失うことになる。また自分のせいで亜美の存在を消してしまうことになる。

 やり直せるなら。どこかで生き続けていてくれたら。何度思ったことだろう。


 救えなかった。救いたかった。


 もう一度動かすんだ。動かさなければならない。止まってしまったあの瞬間から。亜美の幸せを見届けるまで書こう。書かなければならない。

 ページを繰る紙の音だけが空気を震わせる。まだ白いページを開く。


 止まってはだめだ。終わらせてはだめだ。

 亜美、おまえにはまだ未来がある。生きろ。幸せになれ。


 信也はノートに向かう。指先が白くなるほど力を入れてペンを握る。


 二つの世界を隔てる壁など崩してやる。このペンで亜美を幸せへと導いてやる。

 僕が。この僕が。


 ゆっくりと、だが力強く手を伸ばす。信也の右手は見えない壁へと突き出される。右手が発する熱に溶かされるように壁はぐにゃりと歪み、亜美を包む被膜となる。守らなければ。守らなければ。指先が弾力のある被膜を押していく。抗う力に負けじと向こうの世界へと手を伸ばす。今度こそ亜美を守る。膜に小さな裂け目ができた。届けと強く願い、信也は指先に力を込める。裂け目が広がり、二つの世界を隔てる膜の抵抗が失われた。信也はあらん限りの思いを込めて勢いよく手を伸ばす。

 そして――小さな肩を掴んだ。




 力強く肩を掴まれ、幼い少女は振り返る。


「お父さん!」


 二人を掠めるように車が走り抜けた。わずかに遅れて風が起こる。空色のワンピースの裾が翻り、乱れた髪が満面の笑みに貼りついた。


「亜美! 保育園で待ってろって言っただろ!」

「だ、だってえ……早くお父さんに会いたかったんだもん……」


 見たことがない父親の剣幕に、みるみるうちに亜美の目に涙が浮かんだ。

 信也は資料の入った封筒を落とし、亜美を抱き締めた。


「よかった。無事でよかった」


 いつまでもそう繰り返す若い父親に、通行人が不思議そうな視線を向けていた。





 ふいに亜美はそんな昔のことを思い出した。二十年も前の出来事だ。


「どうして突然……」


 記憶の蘇りに呼応するように、先ほどまで途切れていた世界が現れ始めた。いつもの教会に沿った道。アイアンフェンスも街並みもいつも通りの風景だ。鳥のさえずりも木々の葉擦れの音も聞こえる。強い日差しを避けて、亜美は傾いた日傘を持ち直した。

 釈然としないまま、式の準備で疲れているのだろうと納得する。

 日差しの向こうに人影が見えた。笑顔で手を振りながら歩み寄ってくる。


「おはよう、亜美」

「太一」


 差し出された手を握ると、いましがたの出来事はやはり気のせいだったのだと思えた。


「よし、行くぞ」

「うん。結婚式の打ち合わせだなんて緊張しちゃう」

「いよいよって感じだな」


 開かれたアイアンゲートをくぐり抜けて教会の敷地へ入る。木漏れ日の中、二人は寄り添って歩いていく。


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