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まがり角のウェンディ  作者: gojo × 霜月透子
12/18

 きっかけさえあれば、と思っていたところに、太一からデートの誘いがあった。

 予約を入れてあるという店に着いて、亜美は驚いた。いままで入ったことがないような高級感溢れるレストランだったからだ。


 窓際の席をご用意してあります、と通されたのは、窓というよりガラス張りの壁の前だった。街の夜景が足元に広がり、宙に浮いているようだ。

 照明を落としたやわらかい明かりの中で、ピアノ演奏が始まった。生演奏だ。個室ではないものの、各テーブルは充分に離れていてほかの会話は気にならない。そのかすかなざわめきもピアノ曲に紛れて消える。

 窓の外は、遥か遠くまで見渡せる。街の明かりの中に一筋の黒い帯が伸びていた。


「あそこ、川かしら?」

「うん、そうみたいだな」


 あの川の先に通学路だった河原の遊歩道がある。遠くまできたのだなと懐かしく思う。

 ガラスに自分の影が映る。わずかに身を引くと、太一の影も見えた。太一のことは見慣れているし、自分のことだって毎日鏡で見ているのだから、それぞれの姿はいまさら珍しくもない。二つの影が並んでいるだけなのに、面映ゆくて目を逸らした。


 それでもまた気になって盗み見ると、太一がガラス越しにこちらを見ていた。亜美の視線に気づいた太一の目元と口元が弧を描く。

 いつからこんな笑みを浮かべられるようになったのだろう。普段はなにげなく目にしている太一の表情やしぐさなのに、とても新鮮に感じた。


 グラスにワインが注がれ、乾杯をした。

 ひと口目から酔いが回ったようにふわふわした。


 コース料理がすべて終わり、満たされた気分のまま亜美はティーカップを、太一はコーヒーカップを、傾けた。亜美は終わりの時間を遠ざけるために、これ以上ないくらいちびちびと飲んでいた。それでも中身は残りわずかだ。太一のカップも軽そうだ。あとひと口ほどしか残っていないかもしれない。


 先ほどからずっと、二人して無言で夜景を眺めている。


 太一が最後のひと口を飲み干したのを見て亜美はカップを置いた。亜美が姿勢を正して待つも、太一は落ち着きなく空のカップを置き直したり、ネクタイに触れてみたりしている。亜美のカップも空になり、テーブルにそっと置く。太一の視線が亜美の指先からゆっくりと上がってきて、目を見つめる。太一の口が開きかけては閉じる。

 緊張に耐えかねた亜美は、先に口を開いた。


「な、なんかわたしに言うことがあるの?」


 太一が真っすぐ亜美を見る。周りの一切の音が消えた気がした。


「お、おれと結婚してくれ!」


「……はい」


 二人を包む空気が緩んだ。再び店内のざわめきとピアノの旋律が耳に届く。

 亜美の目に映る夜景が、少しだけ滲んで揺れた。





 たいていのことはまず父に話す亜美だったが、今回ばかりはどうしても言い出せず、母にだけ報告をした。母は、おめでとうと抱き締めてくれたあと、「お父さんにはわたしから伝えておくから」と言ってくれた。

 その日のうちに伝えてくれたようなのに、父は一度もそのことに触れない。今日は太一が来るというのに、父がどう思っているのかわからないままだった。


 太一は直接家まで来てくれると言ったけれど、亜美が落ち着かないとの理由から、駅で待ち合わせることにした。自宅へ帰るというのに、ひどく鼓動が激しい。

 玄関に入ると、母が待っていた。


「はじめまして」

「太一さんね。はじめまして。亜美から聞いているわ」


 自己紹介を始めようとする太一を遮って、母はスリッパを勧めた。

 亜美が帰宅すれば必ず顔を覗かせる父の姿が見えない。


「あれ? お父さんは?」

「和室にいるわ」

「和室? リビングじゃなくて?」

「こういうときは和室だろ、ですって」


 和室には座卓を囲んで座布団が並べられていた。上座で腕を組んでいる父の隣に母が座ると、太一はふすまの前で膝をついた。亜美も隣で正座する。


「今日はお時間をいただき恐れ入ります。亜美さんとお付き合いしております……」


 太一の挨拶に父は、「うん」とか「ああ」とかしか返事をしない。

 母がお茶を出す。


「太一さん、まずはこちらに座って。ほら、亜美も」

「う、うん」

「はい。失礼します」


 この場でいつも通りなのは母だけだ。目が合うと、母はゆっくりと瞬きをして、大きく微笑んだ。大丈夫よ、そう言われた気がした。


 父が言葉短く仕事や学生時代のことなどを質問する。太一はひとつひとつ丁寧に答えていて、一向に本題に入れない。

 しばらくして父が湯のみに手を伸ばしたそのとき、太一が素早く膝行でさがり、座布団から降りた。そしてその勢いのまま頭を下げた。


「亜美さんと結婚したいと思います。今日はそのご報告に伺いました」


 父は一瞬動きを止め、手にした湯のみを口をつけないまま茶托に戻した。


「うむ」


 太一が顔をあげる。背筋の伸びたきれいな正座で、真っすぐ父を見ている。


「亜美さんの笑顔がおれ……私の、力になるんです。頑張ろうと思えるんです」


「そうか」


「亜美さんにはいつも笑っていてほしい。そして、一番、笑顔にできるのは自分でありたい。そう思うんです」


「そうか」


「亜美さんの笑顔を守ります。幸せにします。そのために、結婚したいと思います」


 太一が再び頭を下げた。床につきそうなほどに深いお辞儀だ。

 亜美はじっと太一を見ていた。そんなふうに思われていたなんてちっとも気づかなかった。亜美は、知らず知らずのうちに止めていた息をそっと吐いた。


 畳の擦れる音がした。父がわずかに後ろにさがっていた。

 父は、両手を膝に乗せ、上体を折った。


「亜美を、よろしくお願いします」


 太一がはっと顔をあげた。母が大きく微笑んだ。


 少しの間があってから、父が、「おめでとう」と亜美に声をかけた。





 後日訪れた太一の実家ではすでに結婚することは決定事項になっていて、玄関を入った途端に歓迎された。

 結納の代わりに行なわれた両家顔合わせも終始和やかで、母親同士は子供を差し置いて直接電話などもするようになった。ときには、撮られた記憶のない、自宅ならではのリラックスした亜美の写真をなぜか太一が持っていることがあり、恥ずかしい思いをしたこともある。母親たちのほうはどこ吹く風で、「結婚したらすぐにわかることよ」と妙に意気投合している。太一の少年時代のわんぱくエピソードが伝わってくることもあるから、まあいいかと思ってしまう。


 結婚式は家族と親戚だけの小さなものにすることになった。友人や仕事関係者を招待するとなると様々な調整が必要になってくるし、なによりも、あたたかな式にしたいと思っていた。

 複数の結婚式場から取り寄せたパンフレットを持って太一の部屋を訪れる。二人でページをめくる。どれも素敵で、でも、どれもいまひとつだった。

 いくつものチャペルの写真を眺めるうち、古い記憶がよみがえってきた。


「あ。ねえ、太一。あそこは?」

「あそこって?」

「ほら、あの教会。通学路の分かれ道の」


 幼い頃に、結婚式を目にしたことがある。チャペルの外に並ぶ参列者の前に、新郎新婦が現れ、真っ白なウェディングドレスが日差しを浴びて煌めいていた。誰もが笑顔で祝福をし、鐘の音が鳴り響き、そこはまるで、おとぎ話の世界のようだった。


「ああ、あの教会か。身近にありすぎて忘れていたな。おれたちにとって思い出の場所だし、いいかもな」


 その場で太一が電話番号を調べて仮予約を済ませた。


「よし、決まりだな」


 次の日曜日に、打ち合わせに出向くことになった。





 日曜日。亜美は、両親に見送られて家を出た。太一とは教会の前で待ち合わせをしている。早めに出たから亜美のほうが先に着くだろう。梅雨入り前の空はよく晴れていて、日差しが強いものの、風は涼やかで過ごしやすかった。


 空色のワンピースが風に揺れる。亜美は、結婚式前に日焼けをしたくないからと日傘を差し、なおかつ日陰を選んで歩いた。まだ午前中のせいか、道を行く人の姿はなく、鳥のさえずりだけが聞こえる。


 次の角までずっとアイアンフェンスが伸びている。この向こうは教会の敷地だ。光の差し込む明るい木立になっていて、誰でも散策できるように解放されている。幼い頃、よく父に手を引かれて訪れたものだ。結婚式を見かけたのもそんな散歩の最中だった。

 そのときに願った。いつかここで結婚式をしたい、と。

 もうすぐその願いが叶う。

 あの角を曲がれば教会の門。

 強い風が吹き、木々がざわめく。亜美は足を止め、日傘が飛ばされないよう両手で支えた。風が行き過ぎる。顔をあげ、乱れた髪を手櫛で軽く整えて、角を曲がる。



 ――そこで、世界が、途切れていた。



 突然現れた目の前の光景に、亜美は足を止めた。

 なにもない。そこにあるはずのアイアンゲートも街並みも道も、なにもかもが失われていた。光も闇もない空間。空間であるのかさえ定かではない。ただ、ない。日差しも風も感じられない。鳥のさえずりも木々の葉擦れの音も聞こえない。風景も光も色も、すべてが消えてしまった。


 亜美は呆然と立ち尽くす。自分が地面を踏みしめているのかさえ曖昧だった。なにもできないまま、なにも考えられないまま、ただ、ぼんやり前を見つめていた。なにもない空間を見つめていると、瞼を開いているのかどうかさえわからなくなった。


 やがて、ゆらりと影のようなものが浮かび上がった。濃霧の向こうにある人影のようでもある。姿かたちが見えるわけではない。けれども誰かがそこにいるとわかる。


 手元が緩み、日傘がふわりと後ろへ落ちていく。たゆたう空気に、ワンピースの裾がかすかに揺らめいた。

 亜美は、ゆっくりと口を開く。


「あなたは……」


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