新興宗教
ある新興宗教が、若者の間で急速に広まっていた。教祖が女性でマリア様を信仰していたが、広まった理由は、他にあった。若者の関心は、そこで配られる”幸せの種”にあるらしかった。新興宗教の目的は、また”幸せの種”とは何なのか・・・。
埼玉県の東端を南北に走る私鉄線の駅に、石神は降り立った。 すでに日は沈み、帰宅を急ぐサラリーマンや学生の姿に混じり、駅前の広場で通行人に声をかけている者が何人かいた。
大半が二十才前後の若者達で、通行人を呼び止めては何かを説明している様子だった。 石神は駅ビルの壁に寄り掛かりながら、人待ち顔に立って彼らを観察した。
彼らが呼び止める相手は、学生風の若者かOL風の女性が多かったが、中には社会人の男性もあり、彼らは一応にスポーツが不得手で、神経質そうなタイプの者に限られていた。
石神の方に、彼らの仲間の女の子が近づいてきた。学校に行っていれば短大生ぐらいの年頃に思えた。
彼女はちらっと石神を見たが、石神は彼らの獲物にはなれかったようだ。彼女は石神のすぐ横に立っていた男性に狙いをつけたらしく、可愛らしい笑顔をつくるとその男性に近づいて声をかけた。
「今晩わ、ちょっとよろしいですか・・・」 透き通った魅力的な声だった。石神でさえも、あの笑顔と声で話しかけられたら、きっと拒む事は出来ないだろうと思った。
彼女が愛くるしい程の話し方で世間話を始めると、隣の男性のうわずった様子が、石神にもひしひしと感じられた。
石神は二人の会話を聞きながら、昨日の吉井の話を思い出していた。
東京経済興信所の所長室で、石神が書類作成をしているときに、ノックとともに吉井がドアから顔をつき出した。
「ちょっとよろしいですか」
石神が顔をあげてうなずくと、吉井はすでに用意してあったコーヒーポットとカップをお盆にのせて室内に入ってきた。
「気が利くな」
と言いながら、石神はソファーに移動した。 吉井は二人のカップにコーヒーを注ぐと、椅子にゆったりと座りなおして話し始めた。
「所長の所の宗派はどちらですか」
「実家のお墓は日蓮宗のお寺にあるから、俺自身も日蓮宗になるのかな」
「でも、さほど宗教心はない、と言うことですか」
「そうなるかな」
「日本人の大多数の答えですね。でも最近は、知ってますか。若者の間で新興宗教に入信するものの多いことを」
「なんとなく、そんな話は聞いている」
「どれがいいとか、悪いとかは言えませんが、最近急激に信者が増えている団体があります。勧誘の場所は、駅前と自宅訪問で、なんらいままでのものと変わりはありません。活動も地味で、教祖が美人らしいと噂されているぐらいのものです。内容は聖書の勉強のみで、オカルト的な要素のものはありません。どちらかというとつまらない内容だと思うのですが、信者の伸びは目を見張るものがあります」
石神は聞きながらコーヒーを飲むと、煙草に火をつけて言った。
「それが何か、うちと関係あるのかな」
戦後日本の経済が復興すると、日本は外国の諜報員の格好の情報収集場所になっていた。その対応策として国家公安委員会はその中に、特別調査部を設立した。最初は外国諜報員の捜査、発見が仕事で、情報は警視庁へ流していた。しかしその捜査や摘発にはかなり乱暴なところもあり、民主警察のイメージが定着してくると色々な面で支障が出てきた。そのため秘密理にそれらを専門に扱う機関が作られた。それがこの東京経済興信所で、現在は大阪にも大阪経済興信所を設立して、東地区、西地区と大きく分けて運営していた。
石神達が扱う事件は、主に外国の諜報機関が関係するものに限られていた。
「まだはっきりした確証はありませんが、ちょっと臭うことがあります」
と言いながら、吉井は背広のポケットから取り出したものを、手の平にのせて石神に見せた。それは両側をねじって包んであるキャンディーだった。
「これは彼らの間で、幸せの種と言われています。通常は信者達のみに配られるもので、寄付の金額によっても、もらえる数が違うそうです」
石神は吉井の手からそれを取って、包を解いてみた。中から出てきたのは水色のキャンディーで、外見は市販のキャンディーと変わるところはなかった。で
「聞くところによると、色が何種類かあって、それぞれ味が違うとの事です」
「味の違いに、何かあるのか」
と石神が質問したが、吉井はそれに答えず、先を話し始めた。
「彼らはときたま、この幸せの種を街頭や自宅訪問の勧誘の時に配るそうです。誰にでも配るわけではなく、慎重に選んだ末だそうですが。そしてこれを相手の手に握らせ、その手を両手で包み込むようにして、こう言います。<これは幸せの種と言って、聖母マリア様の真心が込められています。普通は私どもの信者のみにしか与えられないものですが、今回は特別あなたにも差し上げます。あなたにも聖母マリア様の真心が必要だと、神の啓示がありました。寂しいとき、悲しいとき、またはつらくてどうしようもないときにこれを口に含んで下さい。でもこれは守って下さい。この幸せの種の事は、絶対他人に話さない。そして必ず一人の時に自分の部屋で味わって下さい。それでないと、聖母マリア様の真心があなたに伝わりません>とね。なかなか面白そうではありませんか」
と吉井は言いながら、コーヒーを飲んだ。
「それぞれの宗教で、神のご加護があると言って色々なものを売っているが、それらとはちょっと違うみたいだな」
石神は、キャンディーを包み直すとテーブルに置いた。
「そうなんです。これこそが彼らの神みたいなもので、幸せの種欲しさに信者が集まっていると思われます」
「それで神の正体は何だった」
「中に含まれているのは、わずかなのですがヘロインです」
石神は横の男を払いのけると、その女の肩をつかみ、壁に押し付けた。
「なにするのよ」
先ほどのかわいい笑顔 とは打って代わり、きつい顔をして石神をにらみつけてきた。
「おまえら、誰の許しを得てこんな事をしている」
「何のことなのよ」
「幸せの種とやらをだしな」
石神は女の顔の前に手を突き出した。
女が石神を見つめたまま何も言わないでいると、石神はいきなり女のブラウスを引きちぎった。女は小さく悲鳴を上げると、あらわになったブラジャーを両手で隠すようにして、しゃがみこんだ。
石神は女の髪をつかんで無理矢理立たせると、顔を近づけて言った。
「幸せの種はどこにある」
石神の背後で、何人かの駆け寄って来る足音が聞こえた。
女はいまにも泣きそうな顔をしながら、バッグの中からビニール袋にはいった幸せの種を取り出した。
石神はすばやくその袋を取るとポケットにしまい、女の髪を離して振り返った。
先ほどまで、あちこちで勧誘をしていた彼女の仲間が、石神を取り巻いていた。
その中のリーダーらしい三十すぎの男が前に進み出て言った。
「あなたは何者ですか。私たちの仲間に暴力はやめてください」
「おまえこそ、何者だ」
と石神は、相手をにらみつけるようにして言った。
石神の威嚇に、相手の男性はちょっとたじろいだ様子だったが、仲間の手前気を立て直すと言った。
「私はしあわせ教会草加支部の班長をしている者です。私達は聖母マリア様に仕えるもので、暴力は好みません」
「俺だって、暴力は好きじゃない」
「その男は私の幸せの種を取り上げたのよ」 石神の背後で女が言った。
「あなたの目的は幸せの種なのですか」
男は顔にふっと笑みを浮かべると言った。「私たちの信者になれば、そんなまねをしなくても幾らでも手に入りますよ」
石神も笑みを浮かべた顔を振って男に合図をすると、ビルの横の暗がりへ歩き始めた。すぐに男が追い付き、並んで歩き始めた。
「幾らでも手にはいるのか」
「信者になれば可能ですよ」
「たわごとはよそうぜ。取引だ」
男は立ち止まると、値踏みするように石神を見つめて、静かに言った。
「そのような話しは、私よりもっと上の者と話したほうが良さそうですね」
「何処に行けば会える」
「連絡はこちらからします。名前と住所を教えてくれますか」
石神は名刺を差し出した。
「沢井探偵事務所。沢井慎太郎。神田神保町。あんたは私立探偵ですか」
「表向きは、食えない私立探偵さ」
石神は、肩をすくめながら言った。
神田神保町の事務所は、偽装用の事務所の一つだった。
「自宅はどちらですか」
「よしてくれ。自宅じゃ仕事はしないことにしている」
「明日、連絡がいくと思います」
男はそれだけ言うと、仲間の方に戻って行った。
石神は煙草に火をつけて、しばらく彼らをながめていた。
仲間の何人かがさっきの彼女を取り囲んで慰めていたが、リーダーの男が近づくとみんなで引き上げて行った。今夜の勧誘は止めにしたらしい。
いつの間にか近づいて来ていた吉井が、石神の横でささやいた。
「ずいぶん派手にやりましたね」
「彼女には悪いことをした」
「少しばかり過剰演技気味でしたが、あんなものでしょう」
「奴らはどう反応するかな」
「可愛い子ちゃんの飴玉を取り上げたんだ。きっと恐い顔して怒鳴り込んできますよ」
石神は煙草を足でもみ消しながら呟いた。「どんな奴が怒鳴り込んでくるか、その顔をしっかり拝ませてもらおうぜ」
沢井探偵事務所は、靖国通りから何本か裏に入った路地に面した雑居ビルの二階にあった。
石神は靖国通りから路地に曲がると、なにげなく時計を見た。午前八時か。お客さんがくるのは何時頃になるのかな、と考えながら、角をもう一度曲がった。
事務所のあるビルの先に、型の古い国産車が止まっていた。ご丁寧に三人乗っている。 朝早くからご苦労なことだ。昨夜の内にしあわせ教会草加支部の班長から連絡が入り、どうするか協議をした結果、あの三人が朝早くからたたき起こされたのだろう。
ビルの階段を登りながら、この沢井探偵の役は吉井に譲れば良かった、と石神は思った。 吉井順二はまだ三十才前で、髪を七三に分け紺の背広を着た姿は銀行マンのようで、陸上自衛隊の特殊訓練を二年間受けた猛者とはとうてい見えなかった。
ひさびさに現場に出てみたいという気持ちから、吉井の申し出を抑えてしまったたが、やはり四十近い年齢を考えるべきだった。今の体力では、三人相手ではきつすぎる。
石神が事務所のドアに鍵を入れていると、背後に人の近づく気配があった。もう一人いたのだ。一人なら簡単なものだ、と思っていたら、階段をかけ上がって来る足音も聞こえた。
ここは大人しくして相手の出方を見るしかないな、と考えていたら、首の後ろで風を切る気配がした。
石神はとっさに、相手に気づかれない程度に体を動かした。
首を外れて肩に強い衝撃を受け、石神は膝をおとした。相手は首筋に打ちこんだと思えるはずだった。
床に倒れる前に両わきを抱えられ、すでに鍵を開けた事務所の中に引きずり込まれた。 彼らは石神を椅子に座らせると、部屋の中を調べ始めた。
石神が首を撫でながら頭を振って、ぼんやりした視界を戻していると、いきなり胸倉をつかまれ椅子の背に体を押し付けられた。
「誰に頼まれた」
目の前に顔を突き出した男が言った。その男の息が臭かった。にんにくの臭いかな、と思っていたらいきなり左の頬を叩かれた。
叩かれたおかげで視界のはっきりした石神が、辺りをすばやく見回すと、仲間の男が机や書類棚を引っかき回しているのが見えた。 リーダーらしいその男は石神の背広から、財布と昨夜取り上げた幸せの種を見つけ出すと近くの仲間に手渡し、さらに右の頬を叩くと言った。
「誰に頼まれて、しあわせ教会に近づいた」 石神は目の前の男を見た。顎が張って、目の細い凶暴そうな男だった。
財布を受け取った男は中身を調べながら現金を抜き出すと、自分のポケットにしまっていた。
石神はその男から目をそらして言った。
「誰にも頼まれちゃいないぜ」
今度は腹に拳を打ち込まれた。身構える暇がなかったのでもろに利いて、咳込みながら少し吐きそうになった。
胸倉をつかんでいた男は、そんなことにはひるむ様子もなく、さらにもういっぱつ腹に拳を打ち込むと言った。
「正直に言うんだ、このチンピラめ」
やはり少しアクセントが違う。朝鮮半島の人間のようだ。
タイミングだ、タイミングが大事だ。素直にすぐ答えてしまうと、余計に信用されない。「何の事だよ。おまえらしあわせ教会とか言うところの回し者か」
男は石神の胸から手を離して体を起こすと、右足で石神の胸に蹴りつけた。
石神は椅子に座ったまま後ろに倒れ込み、蹴りの衝撃を少しはやわらげたが、後頭部と背中を床で打ってしまった。
少し意識がもうろうとしながらも、体を起こそうとしていたら、顔を革靴で踏みつけられた。両手で男の足首をつかむと、さらに強く床に踏みつけられ、顎の関節が痛んだ。
いまならたぶんいいタイミングだ。
「やめてくれ、話すからこの足をどけてくれ」「だめだ、先に話せ」
「顎が痛くて、うまく話せない」
男は足を離した。石神は顎をさすりながら起きようとしたが、男に胸を強く踏まれ再び仰向けに床に倒れた。
「話せ。誰に頼まれた」
「名前は知らないんだ。事務所にふらっと入ってきた客に依頼された」
胸を踏んでいる男が、向い側の仲間に目配せをした。
その男が石神の脇腹を容赦なく蹴ってきた。石神はよけようとしたが、胸を革靴で押さえられているのでよけきれず、まともにくらってしまった。
せき込みながら石神は声を絞り出した。
「本当なんだ。事務所に来た男も誰かに頼まれたようだった。俺に封筒を渡して、俺が読む間待っていた。そして俺が請けると言ったら現金を前金で払って帰って行った。名前を聞かないのも依頼の条件に入っていた。俺は手紙に書かれてあった通り、あの駅前に行って幸せの種を取り上げてきて、手紙の依頼主の指定した場所に置くことになっていた。それだけなんだ」
「おまえは取引、と言ったそうじゃないか」「依頼主が、幸せの種に興味を持っているらしいので、何か情報をつかめばボーナスでももらえるかと思ったんだ」
男は石神の胸から足をはずすと、
「この欲深いチンピラめ」
と言いながら、石神の脇腹を蹴り上げた。
石神は蹴られた脇腹を両手で抑えるようにしながら、床の上をころげ回った。
「幸せの種について知っていることは」
「何も知らない、見るのも初めてだった」
石神はうめくように言った。
「その男とは、どうやって連絡をとるんだ」 石神は床の上にはいつくばって、息を整えながら言った。
「連絡のとりかたは書いてなかった」
「男はどうやって、おまえが種を置いたのを知るんだ」
「そんなことは知るか。種を置けば俺の役目は終わりだ」
「指定された場所は」
石神がためらっていると、靴先で腹を小突かれた。
「日比谷の地下駐車場で、B67の所に消火栓があるらしい。それの裏側だ。時間は今日の午前十一時」
男は腕時計を見て、しばらく沈黙が続いた。石神はゆっくり体を起こして床に座った。
男は朝鮮語で仲間に指示をすると、石神に言った。
「おまえが言ったことが本当かどうか調べてくる。もし嘘だったら、その舌を焼肉にして食ってやるからな」
見張りを一人残すと、彼らは出て行った。残った奴は、先ほど石神の横腹を蹴った奴だ。性悪そうな顔をしていた。
石神は蹴られた所をさすりながら言った。「椅子に座ってもいいかな」
男は返事をしなかった。
石神が脇腹をさすりながら立ち上がると、男は背広の内側から拳銃を出して身構えた。「拳銃を持ってるのか」
と石神は声に出して言うと、体の前で手を振りながら、朝鮮語で言った。
「日本語は分かるか」
石神が朝鮮語で話したので、男は一瞬驚いた様子だった。
「分からない」
「椅子に座ってもいいかと聞いたんだ」
男はちょっと考えていたが、ゆっくりうなづいた。
石神は倒れていた椅子を起こすと、それに座った。
「少しこの男と話す」
石神は日本語で言った。
「なんだ、なんと言った」
男が言った。
石神は朝鮮語で言った。
「少し話さないか、と言ったんだ」
男は黙ったまま石神を見つめていた。
石神は構わず話し始めた。
「おまえもしあわせ教会の信者なのか」
男は無表情のままだった。
「そうか、俺とは話したくない、と言うわけだな。それならそれで構わないが、それにしてもあの飴はひどいな。いや、全くひどい品物だ。何であんな物のために、みんなが大騒ぎするのか気が知れないね。おまえの国ではあんな物しか作れないのか」
「食べたのか」
男が、少し怒りながら言った。
いいぞ、その調子だ。怒れ、もっと怒って何でも話してしまえ。
「いや、食べていない。食べられると思っているのか。一目見ただけで吐き出しそうになるぜ。それにあの包紙。センスが悪いな。新聞紙でくるんだ方がまだましだ」
男は石神を馬鹿にしたように笑うと言った。「我が偉大なる祖国で作ったら、もっと素晴らしいものが出来る。あの飴は、おまえらの腐敗したこの日帝で作ったものだ」
国内で作っているのか。何処だ。何処に工場がある。
「馬鹿なことを言うな。日本であんなひどいものは作ろうとしても作れない。いったいあの飴は何なんだ。ただの飴とは違うのか。漢方薬入りの健康飴なんて言うなよ。そんな話しは信じないぜ。おまえは本当に知っているのか。そうか、おまえは飴の内容も、何処で作っているかも本当は知らないんだ。そうだよな、だいたいおまえみたいな下っ端が、相当大事らしいあの飴の事を知らされる訳がない」
男はいきなり、石神の頬を拳骨で叩いた。「俺を馬鹿にするな。俺は三号庁舎から選ばれた人間だ。飴の中に何が入っているかも知っているし、それに工場の事だって知っているさ。輸送の責任者だからな。それを地方へ運ぶのが、おまえの言った下っ端の奴らだ。もちろんそいつらなら何処で飴が作られているかなど知らないさ」
三号庁舎。北朝鮮の対南工作の奴らが来ているのか。
「嘘もいい加減にしろよ。飴の中に何が入っているか知らないが、どうせ非合法のものだろう。そんなものが、日本国内に大量にあるはずがない」
「もちろんないさ。我が祖国から運んでくるんだ」
「ほら、嘘がばれた。そんなものは税関でストップさ」
「税関など通るか。祖国から直接運んでくる」「嘘はやめろよ。新潟の沿岸監視は凄いんだ。密輸は無理さ」
「我々の優秀な特殊工作船ならたとえ見つかっても、日本の監視船などすぐに振り切ってしまう。それに富山なら、幾らでも上陸できるところがある」
ヘロインは北朝鮮から密輸してるのか。しかも富山から。
これくらい聞けば充分だろう。他の仲間が戻ってこない内に逃げるか。
「もういいぞ」
石神は日本語で言うと、椅子から立ち上がった。
男が座れと言うのと同時に、事務所のドアが勢いよく開けられ、吉井が飛び込んできた。 男が慌てて拳銃を吉井にむけて狙いをつけたが、石神がすばやく男の足を払った。
男は床に倒れ、吉井が拳銃を拾い上げた。 吉井は拳銃を男に突きつけながら、石神に言った。
「沢井さん、大丈夫ですか」
「ああ、なんとかな」
と言いながら、石神は吉井に近づこうとしたが、急に脇腹をおさえると、うめき声を漏らしながらうずくまった。
「どうしました」
と、吉井が石神に顔を向けた隙に、すでに立ち上がっていた男が吉井を突き飛ばすと、ドアから外に逃げ出した。
吉井がすぐ後を追って、階段を駆け下りて行った。
石神が窓に寄って外をのぞくと、男の姿はすでになく、吉井が道路の中程で辺りを見回していた。
石神は部屋を出るとドアに鍵を掛け、隣の部屋のドアを開けて中に入った。
テーブルの上にセットしてあった録音機器からテープを抜き取っていると、吉井が入ってきた。
「奴は無事に逃げましたよ。柿崎と篠原が尾行しているはずです。それにしても逃げ足が早いですね」
「録音は、うまくいったか」
と、石神は聞いた。
「ばっちり。蹴られた音も取れたと思います」 それを聞いて苦笑いした石神が言った。
「とにかく奴らが戻ってこないうちにここを出よう。手当をしてもらってから検討だ」
石神は脇腹を押さえて廊下に出た。
吉井が石神に肩を貸して、笑いながら言った。
「腹の手当をしてもらう前に、顔を洗いましょう。靴の跡がついていますよ」
石神は脇腹を押えながら、事務所の椅子に座った。胸に痛みが走った。所内の医者には肋骨にひびが入っているので、当分安静にするようにと言われた。
ドアがノックされ、平井よしみが入ってきた。サイドテーブルでカップにコーヒーを注ぎながら、石神を見て言った。
「所長、先生に診てもらったら、少し太りましたね」
「ワイシャツの下にはミイラ男がいるのさ。あの薮医者め、包帯でぐるぐる巻きにしやがった」
「新井先生の事を、そんな風に言うのはいけませんわ。あのかたは名医ですよ。どうせ所長の事だから、安静にと言ってもきかないで動き回るだろうから、そのための安全策ですよ」
よしみは石神の前にコーヒーを差し出し出すと、その横にファイルを置いた。
「これが、先ほどご依頼のありました資料です。しあわせ教会と栄光貿易のものです」
よしみが出て行くと、石神は資料を読みだした。
柿崎と篠原の尾行した性悪顔の男は、途中で一度電話を入れた後、新橋にある栄光貿易のビルの中に入って行ったと、すでに連絡が入っていた。
栄光貿易の社長は、在日朝鮮人の徐哲で、中国と北朝鮮の雑貨や食品を扱っていた。設立は、日本でしあわせ教会の布教活動が始まった頃だった。
しあわせ教会は、教祖が美人だと噂される黄順姫という女性で、聖母マリアの生れ変りだと言われていた。マスコミの前に顔を出すことはなく、会えるのは信者のみだった。活動にオカルト的なことはなく、聖書の勉強が主体で信者は東京の首都圏を中心に二千五百人といわれていた。信者は布教以外に、栄光貿易から商品を仕入れて訪問販売活動をしていた。この活動は信者の個人的な活動で浄心活動と呼ばれ、つらければつらいほど聖母マリアの慈悲の心が養われるとされていた。しかも商品を買った人々は浄財をしたことになり、一般の人々を天国に導くための清い行動とされていた。信者はこの売上を教会に寄付すると、マリアの金貨というメダルがもらえた。それ自体は何の価値もないメダルだが、このメダルの交換業者がいて、信者はそこでメダルと幸せの種とを交換できた。もし幸せの種の事が発覚しても、教会としては一応無関係を装うことが出来た。
石神はファイルを机の上に置くと、コーヒーを飲んで煙草に火をつけた。医者からはどちらも体に悪いといわれていたが、心を落ち着け考えごとをするときには、どちらも必要なものだった。
信者の布教活動で幸せの種をもらった者は、それがまさか麻薬入りだとは思わないで食べてしまう。あたりまえだ。路上でそんなものを配っていると考える方がおかしい。そしてその時経験した感覚を、聖母マリアの力と信じてしまった者が、あるいは興味を持った者が、しあわせ教会に入信する。しかしただでは幸せの種はもらえない。それで必死に訪問販売をする。そして教会には金が集まり、その金は深夜誰にも知られずに日本海を渡り、北朝鮮に運ばれる。うまく考えたものだ。だがそれも、もうおしまいだ。幸せの種を発芽させて、不幸の花を咲かせてやる。
石神は吉井を呼ぶと、今後の打ち合せをした。
「しあわせ教会の本部、支部と栄光貿易に監視チームを手配しよう。監視チームをそれぞれ四組配置し、交代で二十四時間体制だ」
「第一目標は」
「あの性悪顔が輸送の責任者だといっていた幸せの種の製造工場だ。それとメダルの交換業者も探しだしたいな。そちらの線からも探せるかもしれん。しかしむこうも、先ほどの事があったので用心するだろうから、くれぐれも注意するように言ってくれ。それから朝鮮担当の山口に富山の件を話して、海上保安庁とも打ち合せをして、海と陸からの監視体制を実施させてくれ。物が入って来るのを阻止しなかったら、何にもならないからな」
「所長はそれまで何をします。探偵ごっこを続けますか」
「いや、しばらくは安静にしているよ。工場が見つかるまでに、傷を直したいからな」
「傷が直る前に、捜し出してしまいますよ。うちの連中は優秀だから」
先方もかなり用心していて、監視チームもあちらこちらと振り回されていたが、三日目に監視チームよりメダル交換業者のアジト発見の連絡が入った。しあわせ教会板橋支部の近くの公園を通りかかった監視チームの一班が、公園の横に止まっているワゴン車に若者が集まっているのを見かけた。その中にたまたま見覚えのあるしあわせ教会の信者がいた為、離れたところから双眼鏡で確認すると、車の中でメダルと飴を交換していた。そのワゴン車を追跡したところ、他の支部の近くの公園でもメダルとの交換をしたのちに、川崎にあるその家へ着いた。場所は神奈川県川崎市の川崎大師の近くだった。幹線道路に面した木造の二階家で、以前は一階が店舗だったらしく、古くなったシャッターが下ろされていて、軒の上には文字が見えなくなった看板がまだのっていた。
石神と吉井の乗った車が、川崎に着いたのは午前二時だった。車の通行はまばらで、路上には違法駐車のトラックや乗用車が止まっており、その中に監視チームの車もあった。
吉井が車のエンジンを切ってしばらく待つと、後部扉が開いて男が乗り込んで来た。
「ご苦労さん。それで現在の状況は」
吉井が運転席から、監視チームの男に話しかけた。
「ワゴン車は夕方ここに着いてから動いていません。現在はあのシャッターの中です。男性を四人確認しています。そのうち二人は午後七時頃出掛けて、現在も戻っていません。たぶん帰宅したものと思われます。午後十一時五十分に二階の明りが消えて、それからなんら動きはありません。入口は表のシャッターと家の左脇に通用口が一つあるだけです」「ご苦労だった。俺達はこれから中を調べる。そちらは何かあったときに備えて援護を頼む」 石神が言うと、その男は自分達の車へ戻って行った。
「石神さん、傷が直るまでは無理をしない方がいいですよ」
「何を言ってる。これくらいは平気さ」
吉井は車をその家の前まで靜かに進めた。エンジンを切ってしばらく辺りの様子を伺ってから、二人はすばやく家の脇の暗がりに入り込んだ。
吉井がドアのロックを解いているうちに、石神は警報装置がないか調べたが、それらしきものはなかった。
吉井がドアを開け先に入り、石神も続いた。入ったところは居間になっていて、左側に階段、右手にはガラス戸があった。ガラス戸のむこうはコンクリートを打った土間になっていて、ワゴン車と積み重ねられた段ボール箱が見えた。
吉井は人差指で上をさして石神に合図をすると階段を静かに上がって行った。石神はその場で待ちながら居間の中を眺めた。中央にテーブルが置かれ、隅には机がありその上には電話があった。
吉井が下りてきて、仕草で二人が寝ていると教えてきた。石神は居間を指さすと机へ向かった。
石神が机の中を探して住所録と帳簿らしき物を見つけると、机の上に広げてペン型ライトで照らし、吉井が次々と写真に撮った。
次に二人は土間へ下りて、段ボール箱の中身を調べた。段ボールの中はビニール袋に入れられた幸せの種と呼ばれる飴が入っていた。 二人が顔を見合わせると、吉井がライターを取り出して、いたずらっぽく笑いながら燃やす真似をしたが、石神は微笑みながら頭を横に振り、吉井に向かって自分の耳をさわり次に車を指さすと、石神は居間に戻った。石神が電話機に、吉井が車に盗聴器を仕掛けた。
二人は侵入した形跡が残っていないか調べた後、外に出て車に戻った。
静かに車を発進させ監視チームの車に近づくと、盗聴器を仕掛けたことを告げて帰路についた。
川崎の交換業者のアジトで撮影した資料によると、交換業の運営は栄光貿易が行っていた。また在庫の数量にもよるが、だいたい一週間から十日ぐらいおきに、何処からか幸せの種が持ち込まれていた。前回の持ち込まれた日付から考えると、まもなく次の持込みがあるはずで、すでに監視チームは縮小され、栄光貿易と交換業者にしぼられていた。
盗聴器を仕掛けてから二日目の朝に、川崎のアジトの盗聴班から連絡が入った。
栄光貿易の朴という者から電話が入り、今日の夜に品物を入れるという内容だった。
しばらくして栄光貿易の監視チームより、ビルの前にトラックが止まり、乗用車が一台合流して出発したため、監視チームのうち二台が追跡にむかったと連絡が入った。
石神は事務所に吉井と居たときに、これらの連絡を受けた。
「いよいよですね。工場に品物を引き取りに行くトラックですよ」
「たぶん間違いないだろう」
「場所が分かったら急襲しますか」
「そこがはっきり製造場所と断定できたらな。もし違っていたら、敵にこちらが内偵しているのが分かってしまうし、出来るなら敵が気づく前にしあわせ教会と光栄貿易、川崎のアジト、それと工場を一斉に押さえたいな」
「工場に忍び込むつもりですか」
「確かめなくては、ならないだろうな」
「明日以降がいいですね。今夜はちょっと約束があるもので」
「品物を送りだしてしまうと、工場としては一段落した感じにならないか」
「ひとくぎりつけば、心に油断が現れる。つまり今夜ですね」
「そういう事だ。断わりの電話は早めがいいぞ。上司に無理矢理付き会わされるとかなんとか、うまくやれよ」
「彼女も、もう慣れっこですよ」
石神も、苦笑いしながら電話を取った。
「ああ、俺だ。今夜も麻雀で遅くなる」
中央高速道路を八王子インターで下りると、相模原方面にしばらく走り、右折すると津久井湖方面に向かった。
石神が運転して、吉井が助手席で地図帳を見ていた。
「その先を左に曲がって、また右に曲がります。その先に橋がありますから渡って直進です。その橋の辺りは東京百景の一つですって」 深夜二時過ぎで、他に走っている車はなかった。明りといえば、橋の両側にある街路灯ぐらいで、その両側に広がるのは漆黒の闇だった。
橋を渡ると上り坂になり、ヘッドライトの光の輪が、右に左にせわしなく動いた。
吉井が無線機で、工場を監視している車と連絡を取りはじめた。
「その先を左です」
車が左に曲がると急な下り坂になり、小さな橋を渡るとまた上り坂になった。だんだんと丘陵地帯の頂上に向かっていると、吉井が言った。
「もうすぐ着きます」
前方の路肩に車が一台止まっていた。石神がその車の後ろに止めると、二人は車を下りて前の車に乗り込んだ。
「長い時間ごくろうさん。差入れだ」
石神は途中で買ってきたドーナッツの箱とコーヒーを差し出した。
「どうもすいません」
と言いながら、助手席の男が受け取った。
「工場は何処にある」
と吉井が聞いた。
運転席の男が前方の暗闇を指し示した。
「この先の道路の右側です。工場の手前に二階建てのプレハブがあって、二階に従業員が寝ていて、一階の事務所に宿直らしいのが二人います」
「暗視眼鏡はあるのか」
「いえ、これです」
と言って、赤外線カメラを持ち上げた。
「うちらが終わったら、これを置いていって上げるな」
吉井はバッグから、赤外線暗視眼鏡を取り出しながら言った。
「それで、状況はどうなんだ」
「十時過ぎに二階の電気は消えました。下にいる二人はプレハブの中にいるだけで、巡回などはしていません」
「事務所にいられると、盗聴器がつけられませんね」
「とりあえず、工場の中を調べよう」
石神は赤外線暗視眼鏡を持つと車の外に出た。 二人は左側の薮の中を進んで行った。薮の中にうずくまりながらプレハブの中を見ると、二人の男がテーブルに座り、テレビの深夜番組を観ていた。テーブルの上にはウィスキーの瓶と、握りつぶされたビールの缶が転がっていた。
二人のそのまま進み、プレハブの一階から死角になる辺りで、道路を渡ると工場に近づいた。工場からはキムチのにおいがした。
二人は暗視眼鏡をつけた。辺りが真昼のようによく見えるなか、表のシャッター側から調べ始めた。
シャッターの脇にドアがあり、三協食品の看板がさげられていた。ドアには鍵がかけられていて、外側からでは警報装置があるかどうか確かめられず、石神はちょっと考えていたが、すぐに諦めてプレハブとは反対側の脇へ進んだ。
工場の脇には使わなくなったパレットやゴミが入っているらしい段ボール箱などが積み上げられていた。
低い位置にある窓以外にも、高いところに光採りの窓があり、その一つのガラスが割れているのを石神は見つけた。
「あそこから、入れないかな」
と石神が言うと、吉井はパレットを持ってきて工場の壁に立てかけると、それを踏台替わりにして窓を調べた。
指でオーケーサインを作ると、窓を開けて中にもぐり込んだ。石神も後に続いた。
工場の中にはいると、強烈なにんにくと唐辛子の臭いが鼻をついた。隅には低いうなり声を上げている大きな冷蔵庫が据え付けてあった。その周りには大きなポリバケツが幾つも重ねられ、日干しした白菜や唐辛子のはいった袋も積み重ねられていた。
吉井が、工場の奥で厚手のビニールが天井から床まで垂れ下がり、他の場所とは区切られている一角を見つけ、石神に知らせた。
チャックで開閉する入口から中にはいると、キムチの臭いからは解放された。
「ここで飴を作っているのか」
石神は呟くと、すぐ辺りを調べ始めた。
飴を作る機械があり、隅には米袋みたいなものが積まれていた。吉井がその中身を調べたが、殿粉と砂糖だった。
二人はその場所を含めて、工場内を手分けして調べたが、ヘロインらしきものはなかった。
「ここでなくて、事務所の中ですかね」
吉井が、辺りをにくたらしげに見回しながらささやいた。
「隠すとなれば、工場内も事務所内も危険は同じと思わないか。警察の手入れがあれば、どちらも徹底的に調べられる」
「作るたびに、別の場所から運んでくるのですか」
「それも手間がかかりすぎるし、危険過ぎるだろう。それとも思いもよらない所に隠してあるのかな。建物の外なんかどうかな」
「それこそ見つけやすいし、危険すぎますよ。・・・と普通は考えるから、外かも知れませんね」
二人は外に出ると、工場の周りを調べてみた。
「石神さん、これは・・・」
吉井が指さしたところを見ると、人が踏み固めたような細い小道が、裏の雑木林の中に続いていた。
二人がその小道をたどって行くと、大きな穴に生ゴミが捨てられ、悪臭が漂っていた。その左側には、不用になった品物が乱雑に捨てられ、小さな小山になっていた。
「ゴミ捨て場か」
と石神が言って戻ろうとすると、吉井がもぞもぞしながら言った。
「ちょっと、用足しをしてきます」
石神が微笑みながらうなづくと、吉井はゴミの小山を回って後ろの雑木林の中へ入って行った。
石神が工場の方を見ていると、後ろから吉井が小声で呼んだ。
「石神さん、ちょっと来てください」
石神もゴミの小山を回って後ろに行くと、吉井が雑木林の中でかがみこんでいた。
「これを見てください」
吉井が指さすところには、隠すと言うほどではないが、下草の中に隠れるように中型の金庫があった。雑木林の中まで入ってこなかったら、見逃してしまうだろう。かなり前に捨てられたように、後ろ三分の一ぐらいが土に埋もれていて、いたるところ錆び付いて汚れていた。
「扉は開くのか」
石神も吉井の横にかがみこみながら言った。「いや、鍵がかかっています」
「開けられそうか」
「ちょっと、試してみます」
と言うと、吉井は胸のポケットからドライバーセットみたいな錠前破りの道具を取り出した。
石神は工場の方を警戒して待った。
「でもこの中に隠してあったら、不用心過ぎますね。何も知らないものでも金庫には興味を持ちますよ」
「そうでもないさ。鍵を開けるのは難しいし、持って行こうにも、大人二~三人と道具が必要だ。ここでそんなことをしていたら、すぐに発見されてしまう」
その時、吉井が小声だが興奮した様子で言った。
「開きましたよ。自分でも驚いたな、これは奇跡に近いですよ」
石神が吉井の肩を優しく叩きながら、金庫の中をのぞくと、ビニール袋に入れられた白い粉が納まっていた。一つが二百グラムぐらいとしても、全部で二十キロぐらいはあると思われた。
「どうしますか、所長」
と吉井が興奮しながら言った。
「扉を元通りに閉めて、開けたのが気づかれないようにしろ」
吉井は言われたとうりに扉を閉めて、あたりをチェックした。
「よし、車に戻ろう」
石神は先に小道を戻った。
道路脇の薮の中を進みながら、吉井がプレハブを顎で指しながらささやいた。
「盗聴器はどうしますか」
プレハブの中では、二人が何も知らずにテレビを見ていた。
「金庫を見つけただけでも成果は大きい。これ以上危険を犯すのはやめておこう」
石神は監視の者に盗聴器は設置できなかったことを告げ、かわりに暗視眼鏡を渡すと車に戻った。
八王子インターに向かう車の中で石神が言った。
「あの金庫を開けてしまうとは恐れ入ったよ。所内一の錠前破りだな」
吉井もうれしそうに言った。
「あれは偶然ですよ。でも金庫の扉より、女性の心の扉を開ける方がもっと得意ですよ」
翌日、石神は特別調査部に飯島部長を訪ねると、昨日までの経過を報告した。
石神の報告が終わると飯島は言った。
「それで今後はどうするつもりだ」
部長は恰幅のよい体を椅子から立たせ、机を回って石神の座っているソファーの方へ歩いてきた。医者から糖尿病の気配があると注意を受け、酒を控え食事にも注意しているせいか、以前よりは少し痩せたようだった。
石神は、飯島がソファーに座るのを待って話し始めた。
「現段階でも栄光貿易、三協食品、交換業者をおさえることはできます。盗聴の記録は提出できませんが、ビデオテープにも一部始終撮ってありますので、幸せの種をつぶすことはできると思います。しかし、しあわせ教会までとなると、物証がありません。栄光貿易を調べて、何かでてくれば別ですが」
「まあ、無理だろうな」
「それで、どうしようか迷っています」
「あまり無茶はやるなよ」
石神は飯島を見て微笑むと、煙草に火をつけた。
「何か企んでいるのか」
と飯島は言いながら、煙草を吸う石神をうらやましそうにながめた。飯島は煙草も奥さんに止められていた。
「しあわせ教会の本部より、幸せの種が見つかったらどうなるかな、と考えただけです」「それは面白いかもしれんが、違法な事をするのなら勧めることはできんぞ」
「反対ですか」
と言いながら石神は、さほど吸っていない煙草をもみ消した。
飯島は、長いまま灰皿に押し付けられた煙草を惜しそうに見つめながら、もったいないことをと呟くと、改めて石神を見て言った。「誰が反対と言った。ただ賛成とも言っていないだけだ」
石神の指示により警察と打ち合せを行い、二日後の午前中に、栄光貿易、川崎のアジト、三協食品の一斉手入れを行うことになった。「三カ所だけですか。もう一つ大事なのを忘れていませんか」
吉井はしあわせ教会を、一斉手入れから外したことに不満があるようだった。
「現時点では何もできないな」
「ではこのまま、おとがめ無しということですか」
「吉井は、しあわせ教会の教祖の黄順姫に会ったことはあるのか」
「いえ、信者ではありません」
こんな時に何を言っているのだろう、という言い方だった。
「私は、明後日会いに行くつもりだ」
「明後日というと、一斉手入れの日ですよ。何しに行くのですか」
「一斉手入れのあることを、教えてあげようと思っている」
「正気ですか」
と吉井は、石神の瞳の中をのぞき込むようにして言った。
「もちろん正気さ。沢井探偵としては、栄光貿易の後釜になるために、幸せの種とは別の類似の飴の提供を申し込みにいこうと思っているのさ」
「何か考えていますね」
吉井はいたずらを見つけたように、笑みを浮かべながら言った。
「そのためには、すぐ後釜を見つけなくてはならないような状況と、後日教祖に届ける素敵な飴が欲しい。それで相談がある」
石神は吉井に大まかな予定を話し、細部については後日打ち合せすることにして、とりあえず明日までにやることを指示した。
その日の午後、しあわせ教会板橋支部の近くの公園にたむろしていた若者達に、一人の見かけぬ男性が草加支部の信者だといって近づいてきた。
「あなた達も、まだマリアの金貨をお持ちですか」
若者達が持っていると答えると、男は言った。
「安心してるところを見ると、まだ知らないのですね」
男は声をひそめると、あなた達だけに教えてあげますけどね、と言って話し始めた。
「実は幸せの種が、もう余り残っていないらしいのですよ。本当なんですよ。地方の支部では一人何個と割当ですって。草加支部でもね、午前中に私も取り替えようと思ったら、なんと私の二人前でなくなってしまって、今日はたまたま持ってきた数が少なかっただけで、明日からは大丈夫だ。なんて言っていましたけどね、あなた、信じられますか。それで私はね、手持ちの金貨はみんな取り替えてしまおうと思って、あっちこっち回っているんですよ」
その日の同じ様な時刻に、各支部の近くの公園では、若者達の間で声をひそめて話す人影がみられた。
同じ日の夜、といっても日付の変わった午前二時頃、川崎のアジトの前に一台のワゴン車が止まり、四人の陰がすばやく車より下りると、その家の横の暗がりに消えた。
翌日はしあわせ教会の職員にとって、受難の日だった。朝から信者が本部におしかけ、幸せの種の事について職員に詰め寄った。
朝から信者の間では、幸せの種がなくなるらしいという噂がたっていたが、実際に交換業者が少しの量の幸せの種しかもっておらず、交換場所にきても、一部の者と交換を終えると、まだ多数の者が残っているにもかかわらず、すごすご帰ってしまうにいたっては、噂が真実のものと見なされてしまった。交換業者でさえ、朝になったらあれほどあった幸せの種があらかた消えてしまい、慌てさせられていた。
職員は当初、押しかけた信者に対して幸せの種は当教会とは関係ないものだと説明していたが、マリアの金貨が幸せの種と交換できるものと信じてせっせと浄心活動をしていた者が納得するはずがなく、なかにはマリアの金貨を職員に投げつけたり、買い戻しを要求する者もでて、混乱状態になってしまった。 午後三時過ぎに、事態を重くみた教会側が翌日の昼より教祖による説明会を本部でひらくことを発表した。それにより夕方までには信者も引き上げ、一応の収拾をみた。
同じ日の午後、石神は事務所で吉井とともに刻刻とはいるしあわせ教会関係の報告を聞いていた。
「予想していたより、事の進み具合いが早いな」
「交換業者が、幸せの種を持っていないという事実が、拍車をかけたようですね」
吉井は、自分達の仕掛けた罠が順調に回転している事が、うれしくてたまらない様子だった。
昨日、昼間は公園で悪い噂の種をまき散らし、夜には大量の幸せの種を引き抜いてしまったので、今朝になると、悪い噂の種からは疑惑の芽が伸び始め、信者の間に混じって吉井の仲間達が、扇動という水を大量にかけて回ると、昼までには混乱の大きな花が咲き乱れた。
「これでは予定を早めるしかないな」
石神は席から立つと、窓の外を眺めながら呟いた。
吉井はソファーに座り、ゆっくりコーヒーを飲みながら言った。
「予定が早まる。結構なことじゃないですか。早く片付けてしまいましょう」
「予定では、明日黄教祖に会って、明後日に信者の集合をかけてもらい、信者をじらすだけじらしてから一気に爆発させようと思ったが、この分だと明後日までは信者も待てそうにもないな。予定を一日早めるか」
石神は席に座り受話器を取ると、プッシュボタンを押し始めた。
先方の交換手が出ると、石神は沢井と名乗り黄教祖、と短く告げた。
しばらく待たされた後、男性が応答に出た。「事務局長の石田ですが、どちらの沢井様ですか」
石神は神田神保町の沢井だと答えた。
「沢井探偵事務所の沢井様ですか」
その口調は丁寧だったが、憎しみの響きが感じられた。先日の一件について、すでに栄光貿易の者から聞かされているらしい。
「私の事をご存じとは、これは光栄ですな。いや、栄光貿易ですな。と言うべきかな」
「くだらないことを言っていないで、用件はなんだ」
石田と名乗った事務局長の口調ががらりと変わり、怒りの感情をむき出しにした。たぶん本部のまわりで騒ぐ信者のせいで苛立っているだけで、私の事を嫌っての事ではないだろう。
「明日の昼前に、黄教祖のご尊顔に拝顔させて頂きたいと思いまして・・・」
「ふざけたことを言うな。誰がおまえなんかに会わすものか」
なんとなく、石田の怒りは私にむけられている様な気がしてきた。
「幸せの種に関する事でもですか」
「なんだと。そうか、幸せの種を盗んだのはおまえだな。そうならただじゃおかないぞ」
石田はさらに憎憎しげに言った。やはり怒りは私に向けられたもので、おまけに嫌われているようだ。
「さあ、どうですか。神のみが知る。いや、マリア様のみが知るでしょう。明日お会いできますか」
石田は無言だった。口元と、受話器を持つ手がわなわなと震え、今にも受話器を叩きつけようとしているのが、目に見えるようだった。しかしここで電話を切られたら、たまらない。
「この騒ぎを解決するためにも、会う必要はあると思いますが」
「明日の何時だ」
「午前十一時。それと明日の昼から信者達に対して、教祖様より説明があると発表してください」
「おまえの指図はうけたくないが・・・」
会うと決まったら少しは怒りがおさまったようだ。それとも私に何か仕返しする方法でも思いついたか。
「説明会でもひらかなくては、この事態はおさまりませんよ。教祖様にお会いしたらお話しますが、信者達を喜ばせるいい話があるんですよ」
「おまえ一人でくるのか」
やはり何か企んでいるな。
「もちろん一人で」
「明日の午前十一時。楽しみにしてるぞ」
と言うと、石田は一方的に電話を切った。
二人の会話を聞いていたヘッドホーンをはずしながら吉井は言った。
「一人では危険です。私も同行します」
「大丈夫さ。それよりしあわせ教会が明日、説明会を開くと発表したら警察と打ち合せをして、一般道路の混乱を防ぐためという名目で警官の警備を頼んでくれ」
「警備だけですか」
「もちろん家宅捜査の令状を持ってる者も一緒さ」
午前十時五十分に、石神は文京区小石川にあるしあわせ教会の本部に着いた。春日通りから少し入った閑静な所にある五階建てのビルで、一階はロビーと駐車場、二階は講堂、三階以上は事務室や教祖の部屋などがあるらしい。
ビルの周りや駐車場の中は、昼からの説明会に参加しようとする信者がすでに列をつくって並んでいた。あちらこちらに警備につく警官の姿もあった。
石神が衿の裏の盗聴マイクを指で確認しながら正面玄関に向かうと、大きなガラスドアの両側に立っていた教会の職員らしい男達が、行く手を遮った。
石神が名乗ると、既に連絡を受けていたらしく男達は道を開け、中の一人がドアを開けてくれた。
ロビーは広くおちついた雰囲気で、正面に幅の広い階段があり、右手に受付、左側は応接セットが何組も置かれていた。
石神が受付に向かうと、名乗る前に受付の女性が立ち上がり、軽く会釈をすると言った。「沢井様でございますね。お待ちいたしておりました。階段の右手にございますエレベーターで五階までお上がり下さい。そちらで係の者がお待ちいたしております」
沢井がエレベーターに乗ると、扉が閉まり上昇し始めた。受付からの連絡で、上でボタンを押したのだろう。
扉が開くと、いかつい顔をした男が二人待っていた。まだ残っていたのか、と石神は思いながらエレベーターを下りた。
今朝早く石神達は栄光貿易の近くで待機していた。先日沢井探偵事務所に押し込んで来た連中が、今日も呼び出されるとふんでいた。 午前九時をまわった頃、一台の車が玄関に止まると、三人の男が乗り込んで出発した。「先日の連中ですね。見覚えがあります」
吉井がゆっくり車をスタートさせながら言った。後ろから柿崎と篠原の乗った車もついてきた。
「あいつらをおさえてしまえば、俺の身も安全という訳か」
石神は煙草に火をつけながら言った。
連中の車は日比谷通りを北上し、白山通りにはいるらしかった。
石神は車内の無線機で、連中の車を止める位置を柿崎と、他の場所で待機している別の車にも連絡した。
「周りに他の車もかなりいますよ」
と吉井が言ったが、石神は気にしなかった。「別にかまわんさ。あの高速道路の下を過ぎたら前に入り込め」
日比谷通りから右折して白山通りに曲がるときに、吉井はスピードをあげて連中の車の前に強引に割り込むと、ハザードランプを点滅させながら、ブレーキを踏み込んだ。
連中の車も、ブレーキをきしませながら止まると、すぐ後ろに柿崎達の車も止まった。 柿崎達が運転席側、石神達が助手席側に近寄ると、窓を開けて連中がののしり始めた。 運転席に乗っていたリーダーの顔を、柿崎がいきなり殴りつけ、車のキーを引き抜いた。石神もくわえていた煙草を助手席に乗っていた性悪顔男の顔に押し付け、相手がひるんだ隙に背広の内側に手を入れて、拳銃を取り上げた。
「まだこんな物を持っているのか」
「貴様は沢井か」
リーダーの男が、切れた唇の血を拭いながら呟いた。性悪顔男は、無言のまま石神をにらみつけ、後部座席に座っていた男達は吉井と篠原が威嚇していた。
「こんな物騒な物を持って、どちらへお出かけですか」
石神が取り上げた拳銃を吉井に渡そうとすると、性悪顔男が手を伸ばして拳銃を取ろうとした。石神はすかさず持っていた拳銃の銃身を性悪顔男の鼻柱にたたきつけた。男は両手で顔をおさえ、うめきながらうつむいた。近くで救急車のサイレンが聞こえた。
「貴様、こんな事をしてただで済むと思っているのか」
リーダーの男が、怒りをおさえながら言った。
「何とでもわめけ。強がりを言っていられるのも、いまのうちさ」
石神が言い終わらないうちに、救急車が横に止まり、白衣の男達が下りてきた。東京経済興信所所有の救急車に偽装した護送車だ。「警察に引き渡す前に、徹底的に聴取しろ」 石神の指示で四人の男は救急車に連れ込まれた。リーダーの男が救急車に押し込まれる前に言った。
「貴様、ただの探偵ではなかったのか」
廊下は毛足の長い絨毯が敷き詰めてあった。石神は二人の男に挟まれるように廊下を進み、彼らの一人が開けてくれたドアの中に入った。 広い部屋の窓際に、大きな机が置かれ一人の女性が座っていた。長い髪で瞳の大きな清楚な雰囲気の女性で、噂通りの美人だった。 その横に中年の眼鏡をかけた男性が立っていた。いかつい顔に、意地の悪そうな目をして石神をにらみつけていた。
「よく来たな、沢井。私が事務局長の石田だ」
石神は、ちらりと石田を見ただけで、黄教祖に視線を戻した。
「黄教祖、はじめまして。私立探偵をしている沢井といいます」
「貴様、俺を無視するきか」
石田が怒りながら前に進み出た。
「お辞めなさい、石田」
黄教祖が立ち上がって石田を制した。
「よくいらして下さいました。どうぞおかけ下さい」
黄教祖は机を回りながら、ソファーに向かって進んだ。笑顔がとても素晴らしかったし、日本語も流暢だった。
「今日は、よいお話を聞かせてくれるとの事でしたが、どの様な内容ですか」
石神は、石田を一瞥すると言った。
「黄教祖、二人きりでお話したいのですが」「誰がおまえのような、信用できない卑劣な男と二人で話すものか」
教祖は手をあげて石田を制すと、石神に言った。
「彼の助言はとても大切です。お話は二人でお聞きします」
「分かった。話しと言うのは幸せの種についての取引だ」
そこまで言うと、石神は相手をじらすようにゆっくり煙草に火をつけた。
教祖は落ち着いて座っていたが、石田は苛つき始めていた。石神はなおも黙ったまま、ゆっくり煙草を吸った。
石田がついにしびれを切らした。
「さっさと用件を言わないか。もしかしたらおまえは、幸せの種がこちらにはないと思って、自分達が盗んだ物を売りつけようという魂胆ではないのか。それならおかど違いだ。そんなものは買う気などないぞ」
石神は煙草を灰皿でもみ消し、薄笑いを浮かべると言った。
「売りつけようというのは当たっているが、おまえ達から盗んだ程度の量ではない。幸せの種を今後、私が大量に供給して上げよう、と言う話しだ」
「何を言うかと思えばくだらないことを。おまえから分けてもらう必要などない」
石田は机に近づくと、受話器を取り上げた。「来たか。---そうか。来たら連絡をくれ」「栄光貿易からのお客さんだったら、待つだけ無駄だぜ」
石神は、石田のほうに向いて言った。
「今ごろは、拳銃の不法所持で捕まってる」 石田が驚いたように、石神を見つめた。
「貴様、何でそんなことを知っているんだ」 石神は教祖に向き直ると言った。
「あんたにも、いい話を聞かせてあげよう。これは秘密の話だ。誰にも言っちゃいけないぜ。今日、栄光貿易と三協食品と川崎にある家の三カ所が、警察の手入れを受ける」
黄教祖の顔色が変わり、表情に動揺があらわれた。
「それは本当ですか」
石神はうなずいた。
「でも、何故あなたがそのようなことを、いろいろ知っているのですか」
「何故、聖母マリアの生れ変りの教祖には分からないのですか」
石神はからかうような笑いを浮かべながら言うと、教祖の顔が険しい表情になった。
「そんな表情をしちゃいけない。せっかくの美しい顔が台無しだ」
「貴様、人を小馬鹿にするのもいい加減にしろ」
石田は怒鳴りながらドアを開け、外にいた男達を呼び入れると言った。
「この小生意気な男を、少し痛めつけてやれ」 石神は薄笑いを浮かべたまま、教祖を見つめていた。教祖の瞳の中に、何かを期待するような残忍な光がきらめいた。
この女は、清楚な顔立ちをしていたがマゾの気があるのかな、と石神は思った。普段なら少しぐらい痛めつけられて、彼女を喜ばせてあげてもいいが、今回はまだ肋骨のひびが完治していないので、やられる訳にはいかなかった。
石神は両側から男達に腕を取られて、ソファーの後ろに立たされた。彼女からいちばん見やすい位置だ。
体格のよい方の男が、腰に両手をあてて石神の前に立ち、顔を傾け片方の眉を釣り上げながら言った。
「確かに生意気なつらをしている。少しお仕置をしたほうがいいな」
いかに教祖の前での晴れ舞台だからといっても、顔の表情まで作って芝居がかった真似をするなど調子にのり過ぎだ。それにこれから戦おうとする相手の前で、仁王立ちなど危険きわまりない。急所ががら空きだ。こいつこそ、お仕置が必要なようだ。
石神はためらいもなく、相手の股間を蹴り上げた。男は白目をむいて、股間を両手でおさえてうずくまった。美しい教祖の前なので、かろうじて悲鳴はこらえたようだ。いや、違った。痛さのあまり、息が詰まって悲鳴も出せない様子だった。
石神はちらっと教祖を見た。教祖は絨毯の上をころげ回っている男を、恍惚とした表情で見つめていた。この男も、とりあえずは教祖を喜ばすことはできたようだ。
残った男が殴りつけてきた。石神はその男の繰り出した右手をらくらくとよけると、その手を捕まえて、背中にねじり上げた。男が低いうめき声を上げた。石神はその男を教祖と向かい合う位置に動かすと、頭の後ろを押さえつけた。教祖がこちらを見ているのを確認すると、ソファーの背もたれにその男の顔を勢いよく叩きつけた。にぶい音と共に、白いソファーに血が飛び散った。石神が手を離すと、男はその場に崩れ落ちた。
教祖は、顔中を血だらけにして気絶している男を見て、あきらかに興奮していた。
「俺がやられなくて、残念だったな」
石神は石田に向かって歩きながら言った。
石田は床に倒れた二人と石神を交互に見ながらおびえていた。
「やめろ、もう分かった。おまえに手出しはしない」
石田は身を守るかのように、両手を前に突き出しながら机の後ろに後ずさりした。
「さっきの話しの続きをしよう。おまえの話を聞かせてくれ」
「と言うことは、俺の話を受けるという事か。信用できない卑劣な男で、しかも人を小馬鹿にする小生意気な男の話を」
「今までの事はすべて、おまえを、いや、沢井さんを試すためにやったことで悪気はないんだ。私たちも、身も知らずの相手と取り引きするときは、一応は用心しなければならない事も分かってほしい」
「先ほどは、俺から分けてもらう必要などないと言っていたが、いまは俺と取引をしたいという事か」
石田は返答に困り、どうしたものかとせわしなく視線を動かした。
「私に決定は出来ない。あくまでも教祖の指示に従うだけだ」
石神が馬鹿にしたようにうなずき、ソファーのほうに戻ろうと体の向きを変えた時、先ほどの体格のよい男がいつの間にか立ち上がっていて、石神に殴りかかってきた。石神は腰を折って相手の拳をかわすと、右フックを男の顔に打ち込んだ。男はよろめき、神の前で祈りを捧げるように床に両膝をついた。引続き石神が顔の中央を蹴り上げると、男は鼻と口から血を撒き散らしながら、両手をあげて後ろに倒れ込んだ。
石神は、血の飛び散ったソファーの後ろに立つと、背もたれに両手をついて教祖に言った。
「あんたはどうする。俺と組めばいろいろと楽しいと思わないか」
教祖は興奮のためか、潤んだ瞳で石神を見つめながら言った。
「そうね。あなたと組めば楽しそうだわ。石田、あなたも異存はないわね」
「ありません」
と石田は短く答えた。
「よし。細かい打ち合せは後でゆっくりするとして」
石神は腕時計を見ながら続けた。
「そろそろ信者達に約束した時間だ。黄教祖は会場へ行って信者達を安心させてくれ。幸せの種はなくなってもいないし、今後もなくなることはないと」
「それはだめだ。教会内で、しかも教祖の口から幸せの種について話すことはできない。あくまでも教会と幸せの種は無関係でなくてはいけない」
石田が慌てて言った。
「何を言ってる。会場にいるのは信者だけだし、幸せの種について教祖が安心を与えなければ何の意味もない。教祖、あなたはどう思いますか」
石神はソファーを回り、教祖に近づきながら言った。
「私はどうしたらよいか・・・」
石神はいきなり教祖の手を握り、教祖をソファーから立たせた。そして彼女の両方の手のひらを合わせさせ、その手を優しく包み込むと、彼女の瞳を見つめながら言った。
「黄教祖、会場にいるのはあなたの愛する子供達です。彼らはいま不安にかられています。彼らを不安から助けられるのは、黄教祖、あなただけです。彼らはあなたを信じています。あなたに導かれたいと願っています。さあ、会場へ行って、彼らに安心を与えて下さい。そして説明会が終わったら、またここでお会い出来ませんか。あなたとなら特別楽しい話しが出来そうだ」
彼女の瞳の奥で、妖しい光がきらめいた。
「わかりました。彼らに安心を与えてきます」「そうと決まれば、私からプレゼントがあります」
石神は教祖の手を離すと机に向かった。
「教祖のお話だけでも彼らは安心するでしょうけど、現物があればもっといいと思いませんか。私の手持ちの幸せの種を提供します。会場で、マリアの祝福を与える、と言うことで信者達に配って下さい。彼らもきっと喜ぶでしょう」
石神は電話を借りると連絡をとった。とはいっても、吉井達は盗聴マイクにより一部始終を録音していたので、既に知っていた。
「十分足らずで品物は着きます。私は玄関で品物を待ちますので、黄教祖は信者達をお願いします」
まだ不満気味の石田事務局長を尻目に、石神はドアに向かった。
そのころ、本部の前に集まっていた信者達の間では、説明会で幸せの種が配られるという噂が広まっていた。しかし数量に限りがあるので、会場の中にはいれた者だけらしいというものだった。もちろん、吉井の仲間がふれ回ったものだったが、いつのまにか列は乱れ、職員が玄関ドアを開けたときには、信者達が我先にと玄関へなだれ込んだ。職員は会場へ向かう者達が信者かどうか確かめるすべはなく、私服の刑事達もらくらくとその中に紛れ込むことができた。
石神が玄関で待っていると、吉井がワゴン車で玄関前に到着した。待機していた職員達が、会場にはいれず通路やロビーにいる信者達の間をぬうようにして、会場に幸せの種が入った段ボール箱を運び入れた。
段ボール箱を車からすべておろし終えると、石神は車の助手席に乗り込み、吉井が車を発進させた。
黄教祖は、三百人近い信者の前で話をしていた。しかし信者の関心は、先ほど運び込まれた段ボールの中身にむけられていた。
「と言うわけで、幸せの種はなくなった訳ではありませんし、今後もなくなることはありません。ごらんなさい」
と言って、教祖は段ボール箱を指さした。
「ここにも、これだけの量があります。これから、ここにあるものは貴方がたに分け与えようと思っています。貴方がたにも、マリアの祝福がありますように」
教祖の合図で、職員達が段ボール箱を開け始めたとき、会場の信者達の間から何人かの男が立ち上がり、頭上に黒い手帳をかかげて叫んだ。
「警察だ。全員その場所を動くな」
その声と共に、会場の扉が一斉に開けられ、制服姿の警官がなだれ込んで来た。
「手はずはすべて終了しているのか」
石神が煙草に火をつけながら聞いた。
「すべて完了です。うちの所員達はこの車が発進するのを確認して、全員が引き上げたはずです。会場の中には、信者に紛れて私服の刑事が何人か入り込めました」
「彼らはちゃんとテープレコーダーを持っていったか」
「持って行きました。教祖の話しはすべて録音するはずです。幸せの種を配り始めたら、外の連中に知らせる手はずになっています」「外の手配状況は」
「連絡がはいり次第、すべての入口を封鎖してから、手入れを行います。幸せの種と教祖の話しの録音があれば、言い逃れは出来ません」
「他の手入れはどうだった」
「そちらも、すべてうまくいったそうです。これで、すべてが THE END です」 石神が、窓を少し開けると、車内の紫煙が外に流れ出した。
「あっけない幕切れだったな」
石神は、車内を揺れ動く紫煙を見ながらつぶやいた。
吉井は肩をすくめると、分かりきったように言った。
「映画だったら、最後にクライマックスがあって終わるのでしょうけど、現実はこんなものですよ」
「でもこれで、北の連中の日本での活動は後退したから、しばらくはゆっくりできるな」
「そうですね。私も今夜は久しぶりにゆっくりデートができますよ」
と吉井が言ったとき、車内にあった携帯電話が鳴った。
石神が電話をうけると、栄光貿易の手入れに参加した北朝鮮担当の山口からだった。
「いま栄光貿易からの帰りの車の中なのですが、すごいものを見つけましたよ。北朝鮮の特殊工作船が今夜富山に来るという通信文です。詳しい位置や連絡方法も書いてあります。私のほうから、むこうの海上保安庁に連絡を入れておきますから、所長達はこれから羽田へ向かって下さい。羽田には別の所員が先に行って、飛行機の切符と着替えなどを用意して待っています」
石神は電話を切ると、吉井に内容を話した。「これが、おまえの言う現実というやつか」「そんなことより所長、早く奥さんへの電話を済まして下さいよ。私も彼女に早めに電話をいれないと。断わりの電話は早めがいい、だったでしょう」
今回は、無事に他国の陰謀を防げたが、他国からの侵略、陰謀はまだまだ続く。
石神たちの組織は、また新たな敵に向かっていく。