1. 〝桜の園〟
「桜の園」(アントン・チェーホフ)から
遠くから花火の音が聞こえる。マスコミのヘリコプターが飛んでいるのを見上げていた一陽が、八分咲きの桜の樹の横で頬笑む。
「わざわざ迎えに来てもらってごめんね。仕事は?」
「会場の設営は午前中に終わった。元請けのイベント会社の人たちは最終確認をしてるけど、俺たちは式が終わるまで暇」
車から降り、助手席の扉を開けながら伝が言う。
「忙しいところ時間を割いてもらって、こちらこそ申し訳ない」
「ううん」
助手席に乗り込んだ一陽が山門を振り返った。
「ちょうど父のお墓参りに来たから」
「そう」
伝は扉を閉めると、一陽が見た方向に手を合わせ、頭を下げ、それから運転席に回った。エンジンをかけ、ハンドルを握る。赤帽車が山道を降りていく。
「来た時はバスだよね。妹の学校の校長先生のお迎えなのに、狭い助手席でごめんね」
「私なんて何の権力も権威もない。いつも言うけど、前身の創始者の娘というだけの、ただのお飾りだよ。今日だって、創立十五周年の式典だっていうのに、進行も出席者も、決めてるのは教頭先生や教育委員会だし。まあ、それは十五年前も同じだけど」
一陽がため息をつく。
「雨月の公立化の時も、イニシアチブをとってるのは教育委員会、それに文科省だった。新設校の校長の席だけを用意されて、経営権を手放して実質発言権を奪われた父に、当時は失望したわ。でも、今になって思うと、それも生徒や、私たちを守るための父なりのやり方だったのかもしれない」
「今の俺があるのは雨月さんのお父さんのおかげだよ。中学を出たら働くつもりだった俺は、公立の雨月御代田ができて、そしてネストがあるから高校に行けたんだし」
「ありがとう。そう言ってくれて。父もきっと喜んでる」
「それなら、校長先生は雨月さんを誇らしく思っておられるよ、きっと。お飾りっていうけど、萌たちはよく雨月さんの話をしてるよ」
「どうせ悪口ばっかでしょ?ほんと困る」
「それだけ普段から接してるってことだよ。それは威厳のある校長先生ではなかなかできないことだし、これからの時代、生徒と距離の近い校長先生も必要だよ」
一陽が肩の力を抜いて微笑んだ。
「いい人だよね、野宮君は。で、そんないい人の野宮君が今日はどうしたの?『送り狼』?」
「狼ではないかな、俺は。送り狼や送り犬は、送られた側が礼儀を尽くせばおとなしく帰るって言うしね」
そう言いながら伝が頭上の収納から一冊の黄色いファイルを取り出した。その横顔の向こうの空に、ヘリコプターが旋回しているのが見えた。
『くぐつ名義考』(喜田貞吉)から