8. 〝夜歩く手〟
「夜歩く手」(ギ・ド・モーパッサン)から
口を開きかけた深夜が、駐車場に入って来た車に視線を移した。運転席の田村が手をあげ、「待たせてごめん」と言いながら車を降りた。助手席の巴もドアを開け、軽く会釈する。
「早速だけど、気になることって?」
「あ、はい」
深夜が答える。巴が「念のため記録させていただきます」とタブレットを操作する。
「新聞編集営業配達部の後輩で、今月から私と同じアパートで暮らしてるエミちゃん、水無瀬微笑さんのことなんですが、最近彼女の様子がどこかおかしいんです」
「具体的には?」
「本人が言うには、尾行されている感じがしたり、人の気配を感じたりするって」
「そんな曖昧なことで呼び出したんですか?」
巴が言う。萌が半歩前へ出る。田村が間に入る。
「いや、まあ、事情が事情だけに情報は大事だよ。でも、何か思い当たる節があるの?」
「そ、そりゃ」
「水無瀬さんの引越は、野宮伝さんが担当したんです。もし野宮さんがこの一連の件に関連しているとおっしゃるなら、水無瀬さんの引越をしたことだって関係あるかもしれません」
「うーん、警察としては、現段階ではあくまで参考、というレベルだからね。まあ、情報としてはありがたくいただいておくよ」
「それから、教頭先生はいつも教育委員会のバッジをつけてらっしゃるんですが、撃たれる直前、それが不自然に光ってたって、部長の八島さんが」
「それ言ってたの景清クンじゃなかったっけ?」
「景清さんは曖昧にだったけど、八島さんはこの間、はっきりと」
田村が顔を上げ、巴が眉を顰めて訊いた。
「八島部長は、なぜあの日にそれを伝えなかったのでしょう?」
「わかりませんが、八島さんがおっしゃるには、確証がなかった、って」
「キモオタは?あいつなら気付いてもおかしくないじゃん」
「八島さんもそうおっしゃってた。でも、砧さんは何も言ってないって」
「そうか」
田村が考え込む。深夜が俯き、深呼吸してから顔を上げた。
「それから、あの、あの、先日あった銀行強盗の件ですが」
「深夜!」
「大丈夫」と深夜が萌に頷き、もう一度田村に向き直った。
「あの時、友達の親戚の人が人質でその場にいたらしいんですけど、その人の話では」
「友達の親戚?誰ですか? その、うさぎの水の水のそのまた水みたいな人は?」
言いかけた巴を田村が片手で制した。そして深夜をじっと見つめ、問いかけた。
「で、その友達の親戚は、何と?」
「はい、その、その人が言ったんです。警察官の恰好をした人が、あのウルヴズ、とか言う、それの頭に拳銃を当てて、『仲間を解放しないとけが、じゃなくてゴーグルとマスクを剥ぐ。ここにいる人たち、そしてテレビを見ている人たち全員をウルヴズにする』って、言ってたって」
ブラスバンドの練習の音が風に乗って流れて来る。萌が深夜の手を握る。巴がタブレットを持った手を下ろす。
「そうか。貴重な情報をありがとう」
田村が巴を促し、車に向かう。それから立ち止まり、深夜を振り返った。
「あ、その、友達の親戚という人にも、『ありがとう』と伝えておいて」
深夜は無言で田村の背中に頭を下げた。巴が萌に向き直った。
「ところで、お兄様の屋号には、妹さんへの大切な想いが込められていたのですね」
「え?」
「笑ったりしてすみませんでした。心からお詫びします」
そう言って頭を下げ、無言で立ち尽くす萌を後にした。