3. 〝永訣の朝〟
「永訣の朝」(宮沢賢治)から
「あ、お帰りなさい、景清さん。お帰り、エミちゃん」
景清が立ち止まり、「何だ?」と訊いた。
「うん、砧君からエリア変更の提案があって」
「必要ねえよ」
景清が即答する。
「どうせ自分のことしか考えてねーだろ」
「その通り。さすが景清クン」
「萌ちゃん」
「深夜先輩」
微笑が皆を無視して深夜の前に立った。
「どうしたの?」
「前からずっと訊きたかったんですけど」
そして微笑は一呼吸置き、言った。
「深夜先輩は、どうして本気で真昼先輩の犯人を見つけようと思わないんですか?」
深夜が息をのみ、微笑を見つめる。
「このまま、真昼先輩のことなどなかったものとして一生過ごすんですか?」
「エミちゃん」
「ちょ、ちょっと微笑!」
萌が微笑の襟をつかむ。
「あんた、言っていいことと悪いことが」
「大丈夫、萌ちゃん」
深夜が萌の前に立った。そして微笑に伸ばした萌の手をそっと握る。
「エミちゃんは、真昼がいた部屋に住んで、真昼のことを、私たちきょうだいのことも今まで以上に心配してくれてるんだよ」
「深夜」
「ありがとう、エミちゃん。大丈夫だよ。私たち。大丈夫」
深夜がゆっくり繰り返す。沈黙の後、微笑は「失礼します」と会釈してから、教室の方へと向かった。
「深夜」
萌が言った。
「深夜、痛い」
「え?あっ」
深夜が慌てて萌の手を放す。
「ご、ごめんね、萌ちゃん」
そして無言の八島たちを見まわし、部室から駆け出る。萌が慌てて後を追う。
「深夜!深夜!」
建物から出たところで深夜が歩を緩めた。隣で歩調を合わせながら萌が吐き捨てる。
「微笑の奴、突然何なんだよ。深夜が。あたしだって、今までどんな想いでいたか」
「大丈夫、萌ちゃん」
深夜が萌に笑いかける。
「大丈夫だよ、みんな」
「大丈夫じゃないよ!それは大丈夫な顔じゃない」
「でも、私、あれから一度も涙が出ないんだよ!」
「深夜」
「やっぱ、あの時、真昼が死んだ時、私もきっと死んじゃったんだよ。前に砧さんが言ってた沼の人みたいに、ほんとの私はあの時死んで、今の私は別の何かなんだよ!右目と右手と右足以外は、きっと生きてないんだよ!涙も出ない、本当の道具になっちゃったんだよ!」
「そんなわけないじゃん!」
萌が深夜の体を揺すった。
「そんなわけない。深夜は誰よりもいい奴で、あたしの大切な友達」
「でも」
「それに、知ってるよ。深夜が、真昼をどれだけ大事に思ってるか」
萌が深夜をじっと見つめる。
「真昼が取りたがってたバイクの免許だって、誕生日が来たら取れるよう教習所に通ってる。真昼たちが使ってた暗号も覚えようとしてる。月の裏側の件は予想外だったけど、わかる範囲で、知れる範囲で真昼の夢を叶えてあげようとしてる」
「知ってたんだ」
「当たり前だよ!『親友』なんてちんけな言葉じゃ語れないくらいの仲だよ、あたしたち?」
「そ、そうだね。ありがとう、萌ちゃん」
「深夜」
「取り込んでるところ悪いが」
突然背後から声をかけられ飛び退く。
「げっ、キモオタ!今度は何の用だよ!」
「砧さんまで。心配してくださってありがとうございます」
「エマに用はない。ノノ、ちょっと来てくれ」
「あんた、他に言い方ないの?っていうか邪魔。空気読め」
「エマは気にせず部室に戻って残数の整理でもしておいてくれ」
「あたしの話無視か?」
「萌ちゃん、砧さん忙しそうだから」
深夜が萌に笑顔を向けた。
「砧さん、取り乱してすみません。私、部室に戻りますので、どうぞ」
「あたしも手伝う。キモオタ、あんたの用は後!」
「おい」
「あ」
深夜が立ち止まり、振り返る。
「あの」
そして声を潜める。
「砧さん、萌ちゃん。特に萌ちゃんに聞きたいんだけど」
「何?」
「ファーレンハイトで弓矢の軌道は曲げられるよね?」
「え、あ、うん」
「同じように、銃弾の軌道も曲げられるかな?」
「え?」
「理屈の上では可能だ」
聞き返す萌を横に、砧が答えた。
「ただ、初速もエネルギーも全く違うから、矢のようには曲がらない。正確に標的を撃つには、相当の訓練が必要だろう」
「あ、ご、ごめん、深夜」
萌が口を挟む。
「あたし、キモオタに用を言いつけてたんだっけ」
「萌ちゃん、先輩に『言いつけてた』って」
「キモオタ!あんたの用を優先してやるから!ほら、行くよ、ごめんね、深夜」
萌が砧の背中を叩いて促す。砧は「悪いな、エマ」と言うと萌に随行した。