5. 〝ザ・フォール〟
[トンネル内の人たちの救出は成功したみたいだよ]
[そうらしいわね]
ファーレンハイトの問いかけに、天井からぶら下がったKが背後を振り返る。欄干をまたいだ隊員が体をかがめて園児を抱き上げようとしているのが見える。
[ガウスの姿が見えないけど?]
[多分レスキューの負担を軽くするために自分で橋桁に貼り付いてんだよ]
[ガウスらしいわね]
[Kもう降りてきなよ。ずっと逆さじゃ大変じゃん]
[そうね、そうさせてもらうわ]
[あたしもこの後龍神公園でモデルのバイトだから、さっさと撤収しないと]
[だからそういう話をこの無線を通してしないで]
[はいはい]
Kが来た壁を戻り始めた。しかし中ほどでふらつき、落下する。
[K!]
ファーレンハイトが駆け寄って受け止める。同時にトンネル内部で轟音が響き、爆風が噴き出す。Kが積雪を氷の盾に変えてファーレンハイトと自身を爆風から守った。
[どーも]
[こちらこそ]
Kが立ち上がり、トンネル内部を覗いた。
[塩酸のシャワーね。絶対近づきたくないわ]
[あたしもパス。髪が汚れるし]
[汚れるじゃすまないわ、ね、え?]
何かが目の前をかすめて飛んで行く。
「タイヤの破片?」
「ガウス!オーム!」
ファーレンハイトが叫ぶ先で、レスキュー隊員が園児を庇って体を丸めた。鈍い音を立ててその背中にタイヤの破片がぶつかる。隊員の動きが止まり、そして園児ごと欄干から落ちた。
「あおいちゃん!」
橋桁に貼り付いたガウスが手を伸ばすが届かない。再度逆さまになった隊員の手が力なくぶら下がり、園児がずり落ちた。
「ネクローシス!」
「俺に指図すんじゃねえ!」
下り車線でパスカルが叫ぶと同時にネクローシスが走り出した。欄干を蹴破り落下する園児に向かって跳躍する。破裂音とともにその体は突然加速し、クロノスたちの視界から消えた。
「ネクローシス?」
クロノスが欄干に駆け寄り、覗き込む。下方の道路、バスの残骸の傍らに穴が開いている。
[何なんですか、今の?]
[まず落下する園児をネクローシスが抱きとめる。そして反動をつけて背中を下にするか頭からか、とにかく園児を上方にかばうようにしながら落下し、下方に向かって全身からウイルスを放出する。地面を構成する石や土はただの粒子となり、さっきのトンネル内のように風圧だけで舞い上がる程度の質量になる。湖とは言わないが、沼に落下したような感じだろう。後はウイルスの放出を少しずつ抑えていけば、徐々にブレーキがかかって最終的には止まる。途中にある生命、草や虫やミミズも潰れながらブレーキの役割を果たすだろう]
[そんなことができるんですか?]
[理屈の上では。実践は初めてだ。テストする場所も環境もないからな]
[そんな、いくら恐怖心がないからって。あ、で、でも、地面の中にまだ生きている木の根っことか、枝の太いのとかあったらどうなるんですか?]
[ただじゃすまないだろうな]
[なんでそんなに他人事なんですか?!]
[他人だからだよ。そもそも今の俺たちは、他人というカテゴリーでもない]
クロノスが俯き、それからパスカルを見た。
[え、き、パスカルはじゃあ、何もしてないで見てただけですか?]
[反対車線まで二十メートル以上ある。走り幅跳びの世界記録保持者でも届かない。だからネクローシスの背後で空気を圧縮し、解放した。別の言い方をすれば、園児に向かってネクローシスを叩きつけた]
[ひどい]
[早くその欄干を直せ。そうしたら下の道路に降りる。いくらウイルスの方向を制限しているとはいえ、園児の服もぼろぼろだろう。そろそろ救助車両も到着するだろうし、バスは無理だとしても、最低限道路の穴は早く塞がなければならない]
そう言うとパスカルは作業用道路へと向かった。クロノスが欄干に触れると、拡散した粒子が戻り、欠けた部分を再構成する。その向こう、反対車線の橋桁にぶら下がったガウスも下方を見つめている。欄干にはオーム、トンネルの前ではKとファーレンハイトが橋の下を覗いている。クロノスが小さく頷き、パスカルを追う。救急車のサイレンが谷に反響し始める。