11. 〝ドッグヴィル〟
「ドッグヴィル」(ランス・フォン・トリアー監督 2003年のデンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランドの映画)から
『動画をご覧になっている皆さんに伝えたいことがあります』
処置を終えた萌が診察室から出て来ると、呉服が正面の椅子に腰かけていた。
「私が言うのもおかしいけれど、大丈夫?」
「うん。髪が少し焼けてるけど、皮膚にも肺にも特に異常ないって」
「そう、良かった」
「あ、これ、返すの忘れてた」
萌がポケットから眼鏡ケースを取り出す。
「あ、ありがとう」
「パチッたのあたしだし。それより微笑は?」
「まだ手術室。絵馬さんが病室の前で祈ってる」
「あたしも行く」
「一人にしてあげて」と呉服が萌の手を取った。
「いいえ。野宮さんのお兄様ならきっとこうおっしゃるわ。『二人を信じてあげよう』って。絵馬さんと、絵馬君の二人をって」
『これはテロリズムであり、いかなる理由があろうと許されることではありません。この動画をご覧になった皆さんの中には、我々への恐怖を抱いてしまった方もいらっしゃるでしょう』
八島が携帯電話を取り出し、画面を見た。
「呉服からだ。微笑さんはまだ手術中だけど、萌さんは異常がないようだ」
荷台に腰かける景清を振り返り、ハンドルを握る伝にも「だそうです」と言った。
「そう。心配だけど、きっと大丈夫だよ。シンちゃんと、それにマー君がついてるし」
『我々自身、これが最良の手段とは考えていません。もっと他の方法があったかもしれません』
手術室の前、廊下に置かれた長椅子に腰かけた深夜が手を組んで祈る。
「お願いです、エミちゃんを助けてください」
額を拳につけ、繰り返す。
「お願い、お願い、お願い」
そして一瞬、天井を仰ぐ。
「お願い、真昼」
『しかし、この檜垣鏡三のような男や、これを送り込む教育委員会、更にはその背後にいる文科省、国。これらの圧倒的な力に比して、我々はあまりに無力です。我々のウイルスは生命に対しては効力がありませんし、対象となる物質の規模も極めて小さなものです。もし、脅威があるとすれば、我々ではなく、我々を利用しようという勢力です』
一陽が百十番を押して、携帯電話を耳に当てる。「事件ですか?事故ですか?」という質問に、「事件です」と答える。
「殺人事件です」
『我々は国によって特別な存在であることを強制されていますが、自分たちは特別だとは思っていません。もちろん、テイアの前身となった治験薬オルフェウスによる薬害の被害者ではありますが、その結果であるウルヴズという現状は、国家から一方的に押し付けられた足枷でしかありません。ウルヴズであることによる不利益の方が利益よりもはるかに大きいのですから』
「お兄ちゃんは?」
「八島と景清を連れてバルカンパークに。一回ご自宅に寄るとおっしゃってたけど」
「あー。多分トレッカー取りに行ったんだね。牽引用の。景清クンのバイクは荷台に乗るし。あれ、呉服サンはどうやってあそこに行ったの?」
「いつもの原付。水無瀬さんは景清のバイクの後ろ」
「じゃあ、それも積むんだろうね」
「大丈夫かしら」
「大丈夫だよ、お兄ちゃんはプロだから」
「そうじゃなくて、いかなる理由があろうと、傷害事件の現場の隠蔽になるのよ?ましてウルヴズ絡みの。お兄様にまでご迷惑がかかるかも」
「あー。ってか、アレ言っといて今更ソレ言う?」
呉服が萌を見つめ、「それもそうね」とため息をつき、笑った。
『そして、更に少数派である〝月の裏側〟には、時間があまり残されていません。個人差はありますが、病の進行は日に日に加速しています』
ワゴン車の様子を見た伝が、「エンジンはかかる。オオカミの動向もわからないから、パンクしたままトレッカーに乗せよう」と言った。
「二人のうち一人はバイク二台と一緒に荷台で、来た時より狭くて申し訳ないが」
「あ、大丈夫です。今度は僕が後ろに乗りますので」
八島が答え、景清が頷く。伝がワゴン車をトレッカーに載せている間、周囲の様子を伺いながら八島が景清に「あの時、なぜ呉服を止めた?」と訊いた。「呉服も野宮さんに気付かれずにオオカミを数頭倒せただろうし、安全を確保するならその方が良かったはずだ」
「オオカミが襲うのは食うためだ。けがをした水無瀬は絶好の餌だ。食えるかもしれないと思えば、怪我をしていない俺たちにも襲い掛かるかもしれねえ。でも、鉄の塊に乗っちまったら、それは奴らの獲物のカテゴリーを越える。追いかけるのは最初の衝動のただの余韻だ。食えねえ相手に労力を使うほど馬シカじゃねえ」
八島が周囲を見渡す。景清が呟く。
「飽きては去り、飢えてはつく」
「どこかで聞いたね、それ」
「司馬兄さんのブログだろ。元は古典の引用だ。司馬兄さんが言っていた。オオカミはオオカミでしかない。オオカミに神を重ねるのも悪魔を見るのも、しょせん人間だ、と」
『過去の薬害訴訟の犠牲者、支援者の皆さんの尽力により、薬害に関する国の対応は以前よりは開いたものになっているかもしれません。しかし、治験薬オルフェウスは、別の問題も含んでいます。それが成功した新薬テイアの前身だったこと。それが巡り巡ってノーベル平和賞にもつながっていること。そして何より、その副産物であるウルヴズの、産業、科学など、戦闘以外の分野での利用価値が未知数だということです』
手術中のランプを見上げながら看護師の質問に答え、必要な書類に記入する。続柄に、『友達』と書いてから、線を引いて消し、『姉』と書き直す。
『ウルヴズは常にひとまとめの道具とみなされます。個性など当然認められません。しかし、強制的に着せられた毛皮の下は人間です。主張も一枚岩ではありません。国家の発展に寄与したいと思うものもいれば、放っておいてほしいと望むものもいます。憲法で認められている各個人の自由が、なぜウルヴズの場合のみ認められないのでしょう?我々は決して望んでそうなったわけではないのに』
四隅に据えられた八つの装置を回収し、もう一度部屋の中央に戻る。既に何も言わない安宅を見下ろしながら、机の上に装置を置く。その傍ら、窓から差し込む月明かりを受けてきらきらと光る盾を一陽がそっと撫でると、それは少しずつ風になって行った。
『〝村〟、そしてアハトは、村から出たものを人間狼、ウルヴズとみなします。ウルヴズを知ったものもウルヴズとみなすと村の掟で脅すことで、情報の拡散を抑えています。逆に言えば、皆さんのほとんどは、ウルヴズが誰なのかをご存じない、少なくともご存じないと思っていらっしゃるでしょう』
「ねえ、呉服サン、あんな奴のどこがいいわけ?」
呉服が顔を上げ、少し間を置いてから言った。
「私は、この名字のおかげで『ゴフク』というあだ名をつけられ、囃されることが多かった。でも、雨月に入学して自己紹介した後、同じクラスになった彼が、私をいきなり『クレア』と呼んだ」
「ふーん。で?」
「で、とは?」
呉服が訊き返すと、萌が目を見開いた。
「それだけ?」
「そうよ」
呉服の返事に萌が笑い出す。呉服もつられて笑いかけるが、真顔になって訊き返す。
「ま、まさか、野宮さんこそ『一番』って、彼じゃないでしょうね?」
「はぁ?あたしが、あいつを?まさか、やめてよ」
萌が眉をしかめ、それから床に視線を落として口元を少しだけ緩めた。
「そうだね、あいつは、まあ、四番目かな」
『でも、想像してください。あなたの親族が、友達が、恋人がウルヴズかもしれないということを。普段あなたと歩き、笑い合っている人が、あなたの知らないところで国や自治体の要請により毛皮をまとい、人間狼となって血なまぐさい現場に向かっているかもしれないことを。あなたの大切な人は、私かもしれない、ということを』
ワゴン車を牽引し、赤帽車が未舗装道路を走る。
「こんな道あったんですね」と荷台の八島が言うと、伝がハンドルを切りながら答える。
「まあ、さっきと違って今回はあまり目立ちたくないからね。ここならNシステムもないし。ああ、そう言えば」
伝がメモを取ってペンを走らせ、助手席の景清に渡した。
「確信はないが、一度訪ねてみてくれ。無駄足だったとしても、これからの時期は桜やこぶしがきれいだよ。でもまあ、それより、当面の配達エリアの調整について話をしよう」
『国や地方自治体は現在、特別保護教育法令の整備を進めています。これは今まで分散していたウルヴズに関する権利と義務を文科省に集約しようというものです。一見、責任の所在を明確にするように見えますが、その実態は、ウルヴズによる利得を一手にしようという目論みによるものです。そして更にそのおこぼれにあずかろうとしたのが、この檜垣鏡三のような小悪党でした』
不意に手術室が慌ただしくなる。手術中のランプが消え、扉が開いた。
「エミちゃん!」
深夜が立ち上がる。最初に出てきた医師に問う。
「すみません、エミちゃんは大丈夫ですか!?」
マスクをした医師が「君は?」と問う。
「あの、姉、みたいなものです」
「みたい?」
「同居してるから姉です!」
「そう」
医師は背後の看護師を振り返り、頷き、再度深夜に向き直った。
「妹さんは無事ですよ」
「あぁ」
深夜はがくがくと震え、そしてそのまま床に突っ伏した。それから医師を見上げ、声にならない声で感謝の言葉を繰り返した。
『でも、そのような法律が、なぜ、十分な審議もされずに成立してしまうのでしょう?立法府には悪徳政治家しかいないのでしょうか?文科省や教育委員会は、全員が檜垣のような陳腐な悪なのでしょうか?いいえ、おそらく違います。多くの人々は、自分の業務を淡々とこなす善良な人々だと信じます。ただし、自分に直接関係のないことへの関心が極めて低い、ということを除いて』
安宅のスマートフォンの待機画面に、巴からHELIXの返信があった通知が表示されている。パトカーのサイレンが聞こえ始め、一陽が窓際に立つ。赤色灯を点灯させた覆面パトカーが校舎の角を曲がって来る。
『特別保護教育法令、通称槍の整備を我々は断固阻止します。しかし、我々にとっての本当の脅威は、法律でも、権力でも、もちろん暴力でもありません』
「おい」
車椅子に乗った砧が二人の前にやって来た。
「また俺の悪口言ってたな?俺は俺の悪口に敏感だぞ」
「はぁ?あんたね、呉服サンは」
「野宮さん!」
呉服が萌の裾を掴んだ。砧はそれに構わず続ける。
「まあそれはいい。問題は来週からのハウルズの配送だ。さすがに俺は厳しい。呉服、ルートの変更を」
「変更って、どうするつもり?」
「デンさんに頼む」
「は?お兄ちゃん?何勝手にお兄ちゃん頼ろうとしてんだよ」
「頼るんじゃない。使うだけだ」
「もっとわりーよ!」
「勝手なことを。それに、野宮さんのお兄様もお仕事があるのでは?」
「そーだそーだ」
「大丈夫だ。真昼の時もデンさんが何とかしてくれたからな。今回も安心だ」
萌が舌打ちし、呉服がため息をつく。
「砧君が増長した大きな要因の一つがわかったわ」
「え?」
「そして、砧君を含めた皆が、野宮さんのお兄様を慕う理由も」
廊下の向こうが騒がしくなったのに三人が気づく。萌が駆けだし、呉服が砧の車椅子を押して後を追う。
『特別保護教育法令の整備が進んでいるのは、多くの人にとって、それはどうでもいい、または、どうでもいいと思い込んでいるものだからです。それが成立しようとしまいと、自分たちの日常には直接関係がない、と、真実から目をそらしているからです』
「いいんですか、そんなに広範囲をカバーしていただいて」
八島が訊く。伝が「大丈夫」と答える。
「引越も落ち着いたからね。四月は暇なんだよ」
「ありがとうございます」と八島が礼を言う。景清も無言で頭を下げる。
「気にしないで。俺は一応は君たちの先輩だ。それに、雨月さんも。だから、どこをどうとっても、俺たちは君たちと無関係じゃないんだよ」
『見ても見ないふりをする。その前に関わらないよう、近づかないようにする。存在すらなかったことのように扱う』
うずくまる深夜に萌が歩み寄り、そっと肩に手を添えた。深夜が萌に気付き、抱き着いてくる。車椅子の砧が手術室の中を伺う。呉服が目じりを拭い、そして八島宛のショートメールで『手術成功』とだけ送信する。
『我々の自由を奪い、尊厳を殺す槍。それは、皆さんの無関心です』