8. 〝谷蟆考〟
「谷蟆考」(中西進)から
「どうぞ」
「野宮君から連絡が入っています。そちらの状況はある程度理解しているから、用件だけ伝えます」
スピーカーを通して一陽の声が伝わる。
「教頭先生が亡くなりました」
「え?」
萌が顔を上げる。深夜が「そんな」と呟く。八島が振り返り、砧から視線を移した呉服と目が合う。
「私が、斃しました」
砧が舌打ちをした。景清は無言で微笑を見つめている。
「これからある動画のアドレスを送るわ。それを見て何を思い、どう判断するかは、君たちそれぞれに任せます。ただ、一つだけ言えるとすれば、私たちは、全員負けたのよ。ウルヴズではない、何の特殊能力も持たない、ただ仲間たちの希望を担う一人の青年に。そして、息子さんの遺志を受け継ぎ、若者たちに未来を託す、一人の父親に」
電話が切れた。八島が伝のスマートフォンと荷台のモニターを同期し、動画を再生する。しばらくの沈黙の後、砧が言った。
「景清、お前、この結末を知っていたな?」
全員が景清を見る。
「校長の話を聞いたとき、景清だけ心音に変化がなかった」
「知ってたわけじゃねーよ。ただ、あの時、絵馬の弟を自分が殺したと言った時の教頭の目が、俺を庇ってくれた時の司馬兄さんと似てたってだけだ。司馬兄さんは俺に、文字通り生き方を教えてくれた。それなのにいまだ俺は破壊することしかできねえ」
「景清さん」
「司馬兄さんにどんな意図があれ、全然カンケーねえ人たちを怯えさせたことは許されねえ。それでも、俺にとって、司馬兄さんはヒーローなんだよ」
「手を、握ってあげてください」と深夜が景清を見つめる。
「砧さんが以前おっしゃっていたように、ウルヴズであることは、私たちの一部でしかありません。できることだって、そこに限定しなくていいはずです。エミちゃんが、上信越道の事故の後言ってました。景清さんが助けた園児、あおいちゃんが、お礼にグミをくれた時、マスクを少し外してそれを食べた時の口元がすごく優しそうに笑ってたって。真昼のことだけじゃなくて、そういうのがあるから、景清さんたちについて行ったんだと思います。私に言う資格はないかもしれませんが、景清さんが箙司馬さんを慕ったように、エミちゃんもきっと景清さんを。ですから、エミちゃんの手を握ってあげてください。意識がなくても、きっと伝わるはずです」
景清は微笑の顔をもう一度見ると、その小さな手に自分の手を重ねた。微笑の口元が少し緩んだ。深夜は更に右手に力をこめる。微笑の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「砧君。砧君でさえ、この結末は予想できなかったの?」
呉服が訊いた。砧は顔を上げ、それから景清を一瞥した。
「俺は常に自分が生き残ることを前提に考える。景清や箙司馬とは違う。自分を犠牲にして他者を生かそうなんて発想はないよ」
後方からサイレンの音が聴こえた。スピーカーを通して停止を求められる。
「検問じゃなくて、直接この車に?お兄ちゃん」
「大丈夫だよ、萌」
伝が道路脇に車を停める。覆面パトカーはそのすぐ後に停車した。伝が車を降りてパトカーに駆け寄る。
「すみません、怪我人が、って、田村さん?」
「やあ、野宮君か」
「こんばんは、野宮さん。怪我人とは?」
「巴さん。ちょうど良かった。荷台に怪我人が乗っています。重傷の子だけでも病院に連れて行っていただけませんか?」
「怪我人?」
「彼らです」
伝が荷台のカーテンを開ける。田村が全員の顔を見回し、それから萌が握ったタオル、最後に微笑の口に当てられた深夜の右手を見つめた。
「田村さん」
深夜が呟く。田村がその肩に手を置いた。
「お疲れさん。よく頑張ったね」
「は、はい」
深夜が何度も頷きながら俯いた。田村が伝を見る。
「いや、結構皆ダメージありそうだし、このまま誘導しよう。巴、非常灯を。あ、毛皮は脱いでどこかに隠しておいてくれ。俺のために」
「結局保身かよ。だからマッポは」
萌が田村を見て笑った。伝がその言葉遣いをたしなめてから、田村に「ありがとうございます。切符は後で受けますんで」と頭を下げた。
「おいおい、勉強不足だな。『緊急避難』という法律用語を知らないのか?」
田村はそう言うと巴を振り返った。
「非常灯をつけて運転してくれ。後、『全員は不要では?』とか言うのはやめてね?」
「私でも空気くらい読みます。サイレン鳴らしますか?」
「いや、お願いする立場だし、後続する赤帽も優先させなきゃ意味がない。俺はスピーカーで呼びかける。サイレンは信号通過の時だけでいいだろ」
「わかりました」
巴が運転席に座る。助手席の田村がスピーカーを通して状況を説明する。二、三台の乗用車が素通りした後、対向車線の大型トラックがハザードランプを点滅させて停止した。後方ではダンプカーが同様にハザードを炊いて止まった。
「パッシング?警察相手に退けと言ってるんでしょうか?」
「逆だよ」
前方のトラックの窓から出た右手が手招きをするのが見えた。
「道を開けてくれたんだよ。出発しよう」
巴がアクセルを踏み、赤帽車を追い越した。サイドミラーに後続する伝たちが映る。
「どうした。顔がにやけてるぞ」
「あ、いえ。私、本当に踊らされてますね。『国のどこにでもいて、地上の隅々まで知っている』神様であるタニグクが一人や二人、いいえ、一企業や一団体程度なんてはずないですよね」
「そうか?」
「果たして、たかが一企業や一個人に、地上の神を統べるだけの資質があるでしょうか?」