5. 〝グッド・シェパード〟
「グッド・シェパード」(ロバート・デ・ニーロ監督 2006年のアメリカ映画)から
「そんな、私」
一陽が胸を抑え、俯いた。しかしすぐに顔を上げ、声を荒げる。
「は、背景はいいです!亡くなった人のことは後で考えます。大事なのは、今生きている人間です!あの子たちは、仮にもほとんど戦闘経験のある兵力でもあるんですよ?彼らの身に何かあったら、とは考えなかったんですか?」
「オルヴズは、生命に対しては無力です」
安宅が荒い息の合間に言う。
「呉服さんのケルビンが最強だと言っても、生物に直接作用するわけではない。空気や衣類を凍らせるだけで、生命を迂回したり隙間から内部に入ったりすることはできない。小動物や昆虫なら、手でそっと包むだけで彼女のウイルスから守ることができる。非生命に対しては圧倒的な優位を誇る景清くんのネクローシスでさえ、それだけをもってしては微生物を絶命させることもできない。それはもはや、畏敬を越え、愛さえ感じるほどです」
そして一陽を見上げ、頬笑んだ。
「生命を畏れ、敬い、そして愛するウイルス。そんなウイルスのベクターである彼らが、命をないがしろにするはずなど、ないではありませんか?」
「教頭先生?」
「もちろん、雨月校長、あなたも」
「でも」
「例えもし、結果的に命を奪うことになったとしても、それはきっと、次の命への何らかの意味がある。鑑がそうだったように。少なくとも私は、そう信じたいと思います」
「だからと言って、先生が命まで」
「箙君は素晴らしい若者でした。鑑が成長したらこうあってほしい、こうなっているに違いない、と思う以上の、知力、体力、行動力、指導力、観察力等、そしてもちろん人格。その全てにおいて優れた彼に、唯一なかったのが時間でした。彼のような若者が世を去り、彼らの病の原因を作った老害がいつまでも生き残るのはおかしいでしょう」
「これは、彼との約束だったのですか?」
「いいえ、箙君は同意はしませんでした。でも、理解はしてくれていたはずです。それに、後を継いでくれる人も見つかりましたし」
「わ、私は」
「もちろんこれは、強制ではありません。パソコンにも動画サイトにもログインしたままです。今すぐに削除すれば、もしかしたら増殖しないで済むかもしれません。部屋の中の鉄球の制御装置をそのままにしておけば、ウルヴズによる報復という演出は失敗に終わるでしょう。それも全て、校長先生の手の中です」
「そんなの、私には重すぎます」
「遺産というのはそういうものです。時にそれは巨大で、背負いきれずに屈しそうになる。でも、その繰り返しが人類の歴史です。そうやって受け継いだものを時に進化させて次に託す。ウルヴズだけではない、我々は皆ベクターなのですよ。親から子へ、教師から生徒へ、先輩から後輩へ。まあ、私の場合は、子から親へ、となってしまいましたが」
「教頭先生」
「九重彦君は八重子さんと協力し、資本と権力という隠れ蓑、そして法律という槍でウルヴズたちを守ろうとした。配送網を強化し、一人一人では脆弱なウルヴズを束ね、目に見える脅威にすることで他者の干渉を防ごうと。多分それは、現状では最も理にかなった方法でした」
「そ、それは」
「当初私もそれが最善と考えました。しかしそれは結局、今の箱庭から別の、槍で武装した箱庭に彼らを移すだけだ。個々の意思を無視した平穏に、一体何の意味があるのか?絵馬真昼君の死に直面し、自分たちの奢りを思い知らされました。そんな折に箙君と知り合った。九重彦君の情報網をかいくぐるのは至難の業でしたが、箙君は、十のうち九の情報を抜き取られることで残りの一つを巧妙に隠した。そうすることで九重彦君たちの計画通り進んでいるように見せかけ、そして」
安宅の言葉が途切れた。
「教頭先生?」
「く、九重彦君はもちろん」
安宅が歪めた顔を上げた。
「八重子さんや、八重子さんを祭り上げようとした人たちには大きなダメージだと思いますが。でも、あのきょうだいなら大丈夫でしょう」
「それは確かにそうかもしれませんが」
「生きている限り生命は強くなれる。オオカミのクローンは浅間越の研究所で一定数まで増やしてから放たれた、とか、最初に生まれた三頭が噴火の際に脱走した、とか、更には捏造でニホンオオカミじゃない、いやそもそも絶滅していなかった、などいろいろと言われていますが、どれも正確ではありません」
「突然、何を?」
「施設内では育たなかったんですよ。何頭生まれても。どんなに健康管理に気を配り、環境を整えても、生まれて間もなく死んでしまう。代理母に使った実験用の犬の胎内では順調に育つのに、外界に出ると目を開けるにも至らない。行き詰った道成寺博士は、教育係として北欧から譲り受けたつがいの雌の未受精卵を採取し、これに剥製や毛皮から取り出した細胞核を移植して雌に戻した。その半月後、浅間山の噴火による混乱と噴石による損壊で二頭は脱走した。研究所の誰もが、ニホンオオカミ復活計画を諦めました。でも、噴火の後遺症が落ち着いてからしばらくして、軽井沢や御代田の山中でオオカミを見かけた、という報告が入るようになり、そしていくつかの群れができるまでになった。最初の二頭には当然不妊手術を施してありましたから、今現在浅麓地方にいるのが、北欧から譲り受けたオオカミの子孫と言うことはあり得ません。親縁係数ゼロのきょうだいたちの子孫か、野犬との交配によって生まれた狼犬か、それとも、本当にニホンオオカミは絶滅していなかったのか?当時のデータは噴火でほとんど焼失してしまいましたし、クローンの元になった剥製も今は聖域となっていますから、稀に捕縛された個体とのDNAの照合もできません。ですから、現在浅麓地方に住むヤマイヌの正体は、『わからない』が正解なのです。もし彼らがあの時の子孫で、研究所内では育たなかったのに自然の過酷な環境下では生き延びたとするならば、その過酷な環境こそが彼らを育てた要因なのかも知れません。いずれにせよ、確実に言えるのは、我々の計画は失敗に終わった、ということだけです」
安宅が笑みを浮かべる。
「失敗に終わった国家プロジェクト、しかも後の冥王症やウルヴズの遠因ですから、現在、オオカミクローン計画に関する論文の閲覧はほとんどできません。私の初期の論文だけは国会図書館で読めますが、それは、その論文の主要なテーマは、死細胞から損傷せずに核を取得するための技術であり、また、最初の実験が結果的に失敗に終わったことは、世間が注目していた当時の新聞などで公になっているからです」
安宅の声が途切れ途切れになり始める。
「もし現在のオオカミがあの時の子孫だとすれば、地球は、人間の失敗を、オオカミの時は救い、冥王症の時は罰したことになります。いいえ、冥王症を生み出した、と言う意味では、浅間山の噴火は、たばこ畑を荒らした牛だったのかもしれませんが」
そして声が少しずつ小さく、細くなる。
「オルヴズは、本来『ジ・オルヴズ』というべきです。道成寺博士夫妻が定冠詞をつけなかったのは、それを神とみなしたからではありません。我々チームの失敗の産物であるそれが、せめてどこにでもある一般的ものになるよう願ったからです。そうなるべきものと思いたかったからです」
「教頭先生、しっかりして下さい!」
「もちろん、本当の意味での伝播の手段はいまだわかっていませんが、それもきっと、命を守るような形だと、思います。そう信じたいと思います。地球が、人間が無理やり作り出した生命でさえも守ったように。たとえその先に、また更なる試練が待っていようと」