15. 〝時計仕掛けのオレンジ〟
「時計仕掛けのオレンジ」(スタンリー・キューブリック監督 1971年のアメリカ映画)から
原作は未読です。
深夜の正拳を景清が大きく飛びのいて躱し、そして地面に膝をつく
「おめえ、削ってるな?」
「はい?」
「直接触らねーでも、突きや蹴りで酸素をごっそり削る。いや、窒素を送って酸素濃度を下げてんのか?なんにせよ、おめーの弟の攻撃方法だ」
深夜の動きが止まる。自分自身の右手をじっと見下ろす。
「しかも、少しずつ距離も量も増えてやがる」
「真昼は、真昼は、ぼや程度なら軽く蹴り上げるだけで消火することもできました。逆に酸欠で苦しんでる人には、高濃度酸素を与えることもできた。なのに私は、真昼から目も手も足ももらったのに、人を助けたり災害を止めたりすることもできない。上信越道の多重事故の時だって、火災を抑える手伝いさえできなかった。ただ、酸素を奪って人を苦しめたり命を奪ったりするだけ。そんな、そんな人を害するばかりの力なんて要らない!真昼を、真昼を返して!」
「死んだもんは帰らねー。例えどんなに望んでも、何を犠牲にしても。おめーが斃した司馬兄さんのように」
深夜が悲鳴を上げる。土に埋まった金属片やネジ、ちぎれたワイヤーが景清を襲撃する。霧散する粒子も地面に落ちる前にもう一度景清の顔に向かって舞い上がり、それに深夜自身の攻撃が重なる。景清の避ける動作がだんだん大きくなる。そして後方に飛び退いた景清に合わせて深夜も跳躍し、右手を伸ばして口元に手のひらを重ねる。月を隠していた雲が流れ、二人の影が大きく伸びる。
「どうした?」
大きく息を吐きながら景清が訊く。
「俺の呼吸に合わせて酸素を奪うんじゃねーのか?」
「景清さんこそ」
前傾姿勢で俯いたまま深夜が訊き返す。
「景清さんこそ、どうして全く反撃しないんですか?私なんかいつでも斃せるって言う余裕ですか?」
「攻撃しないんじゃねー。できねーんだ。俺に欠けてんのは恐怖心じゃねえ。『見えている生命を攻撃する衝動』だ」
深夜がゆっくりと顔を上げる。
「俺はガキの頃から人や動物を殴ったり蹴ったりできなかった。目をつぶって手を振り回すことくらいしかできねえ。相手が視界に入るとその痛みまで見えちまって、それが怖くて体が動かなくなる。小突かれようが蹴られようが、何をされても、どんなに悔しくても反撃できなかった俺は、施設でもいじめられてた。先生たちだっていつも目が届くわけじゃねえ。でも、それを庇ってくれたのが、特に俺に良くしてくれた箙先生の息子さんで、しょっちゅう手伝いに来てた司馬兄さんだった。頭もいいしスポーツも得意、誰にでも優しかった司馬兄さんには、俺を小突き回してた悪ガキ連中も一目置いてたからな」
深夜の右手が下がっていく。
「司馬兄さんが俺をウルヴズと知ってたかどうかは知らねえ。でも、実質反撃できない俺に、俺なりの戦い方を教えてくれたのも司馬兄さんだ。『相手をよく見て、ぎりぎりで避けるんだ。そして、お前の攻撃なんて大したことはない、反撃するまでもないって見下せば、相手が勝手に恐れるようになる。キヨは勘もいいし、動きも素早いし、何より恐怖を克服できる強さがあるから、きっとできる』ってな」
「でも、でも、さっきは砧さんを攻撃しようとしたじゃないですか?」
「俺の標的はあくまで砧の持ってたケータイだ。それに、砧自身なら何としても呉服が庇うのはわかってた。俺のこの秘密を知ってんのは、司馬兄さんだけだったし」
「景清さん?」
「例えどんな大義名分があったにせよ、司馬兄さんがやったことは犯罪だ。おめえが制圧した現場、あの場にいた客や行員を怯えさせたことは決して許されねえし、唯一の肉親で、俺もさんざん世話になった箙先生を悲しませた罪は消せねえ。もちろん、斃したおめえを恨むつもりはねえよ。それでも、俺にとって、司馬兄さんはいつまでも憧れなんだよ」
「そんな」
深夜が右手で、そして左手で景清の毛皮を掴んだ。
「景清さんたちがいい人で、〝月の裏側〟のリーダーっていう人もいい人で、これでもし、教頭先生もいい人だったら、私は一体、誰を恨み、何を憎んだらいいんですか?」
自身にしがみつきながら震える深夜の肩を景清が無言で見下ろす。不意に背後を振り返り、右手を伸ばした。閃光が走り、景清が手で目を覆って片膝をつく。発電機が二つに裂かれて背後に落ち、轟音が響く。
「電溶?八島か?」
荷重を失ったクレーン車のワイヤーが空中で不規則に揺れている。斜面の向こうから人影が現れる。
「深夜さん、大丈夫か?」
砧に肩を貸した八島が叫ぶ。隣には萌を支える呉服が立っている。
「砧さん、萌ちゃん」
「そんなに真実を知りたいか、エマ?そこまで固執するなら教えてやるよ」
「余計なこと言うんじゃねー!」
景清が地面を掬い上げるように殴った。えぐれたコンクリートの塊が砧たちの方向に飛ぶ。
「やめなさい、景清」
呉服が氷と砕石で作った壁でそれを防ぐ。
「ここまで来たら、もう、絵馬さんは真実を知るべきよ」
「ど、どういうことですか?呉服さん?」
「今、深夜さんのスマホに、砧がくれた音声データを送った」
八島が代わりに答える。
「大丈夫。もう圏外は解除した。今再生する」
深夜がスマートフォンを取り出す。操作する前に音声が聴こえ始めた。
『俺、あんたを脅かしてやろうと、罠をかけたら、予定外に深夜が来て』
『絵馬君、もう喋らないで。応急処置をする』
『まさか、深夜が来るなんて』
『しっかりしなさい!』
『俺はもうだめだけど、深夜を、深夜を』
『わかった、大丈夫』
『でも、これ、俺のケータイで、全部録音してて』
『それはどこに?』
『俺の、右のケツの、ポケッ、ト』
『これか』
『そ、う』
『ならばこうしよう』
衣擦れに続いて乾いた音が二度響き、そして音声が途切れた。