13. 〝恋する惑星〟
「恋する惑星」(ウォン・カーウァイ監督 1994年の香港映画)から
「ここは多分、浄水施設ね」
呉服の声が反響する。
「隣は上のごみ処理場で発生した熱を利用したプール。ここはその水を循環させたり、排出する際に消毒、浄化したりするための場所」
立ち並ぶLPガスボンベの陰に隠れて様子を伺うが、呉服の姿は見えない。
「巨大な予算を使って建設したのに、国や自治体の手続きのずさんさと複雑な権利関係で、八割がた工程が終わったところで突然工事は中止、そして閉鎖。電気も水道も通り、機能するために必要な条件は揃っているのに、施設としては生きているのに、『なかったこと』にされている。まるで、私たちみたいに」
足音が声に重なるが、屋根を打つ激しい雨音がかき消していく。
「十九世紀の天文学者たちは、水星の公転周期のずれを説明するために、更にその内側にも惑星があるはずと考え、その惑星を『バルカン』と名付けた。でも、水星の摂動は太陽の巨大な重力によるものだとわかり、バルカンの存在は取り消された。『浅間バルカンパーク』という名前、火山から着想したんでしょうけど、皮肉よね」
「あたしは世間がどう思おうと関係ないし」
萌が立ち上がり、入口の脇に立った呉服を見る。
「あたしは、あたしにとっての一番以外はどうでもいいし、どう思われても気にしない。呉服サンは違うの?あいつのどこがいいのかさっぱりわからないけど、でも、あいつ以外が自分をどう見るかが気になるわけ?」
「虫にスカートの中を見られても気にならない。でも、虫が刺せば、やはり不快に思う」
「世間は害虫?」
「ええ、彼に比べれば、世の中も、八島や景清も、もちろん野宮さんも」
「へえ」
「今退けば見逃すわ。私たちの目的はあなたたちを倒すことではない。八島がこちら側であることが露見した以上、景清も含む我々三人は雨月を去る。〝月の裏側〟とは微妙な温度差があるけれど、協力できる部分では協力し、勢力を増やしていく。ウルヴズは薬害の産物。それも、その後の新薬の世界的な成功によって例外とみなされたマイノリティ。〝月の裏側〟もそう。しかもその特殊性故、的確な治療を受けることができず、鎖につながれたままでいる」
「〝月の裏側〟とかのことは知らないけど、あたしたちは別にいつもってわけじゃないじゃん」
「そもそも、私たちの時間を国や自治体が勝手に奪える時点でおかしいわ。拒否権もなく、中世ヨーロッパの罪人みたいに荷車に積み込まれて現場に送られる」
「何?お兄ちゃんが悪いっての?あたしたちのためにベンチや暖房用意してるってのに」
「そうね、野宮さんのお兄さんには何度も運ばれたことがあるわね。でも、安心して。ドライバーは依頼主の指示に従っているだけ。お金のためだもの。仕方ないわ」
「何そのムカつく言い方」
「モデルの仕事、断ってるんですってね?」
「はぁ?」
「県外の撮影は全部。絵馬君の件が相当トラウマになってるのね?絵馬さんが襲われた後は、更に狭い範囲に絞ってるらしいし」
「何、あたしを怒らせたいわけ?」
「私は野宮さんをそれほど大きな脅威とは思っていないから」
「あれ?あたし、もしかして見下されちゃってる?」
「攻撃手段としてのファーレンハイトにそれほど価値はないでしょう?私のウイルスが感染できない温度を作ることができるかもしれないけど、その周囲を冷却することである程度は無効化できる。味方としての価値は高いけれど、敵としての危険性は低いわ」
「そういえば、あの時呉服サンと協力して抑えようとしたよね。ラジカル置換反応だっけ?」
萌が天井を見上げた。呉服も目を細めながら上方を見る。
「呉服サンの眼鏡は、温度を感知するようになってるんでしょ?八島クンの図面の眼鏡みたいに。むしろそっちの方が重要な機能」
「なぜそれを?私の眼鏡を調べてる時間なんてなかったでしょ?」
「で、眼鏡の隅に現在の気温が小さく表示されるって感じ?自分の体温より低い温度を感じられないなんて、マジで命にかかわるもんね」
「そう、それも砧君ね」
「ま、さすがにあたしも、キモオタが呉服サンの眼鏡勝手に調べたとは思わないけど、でも、さっきの話聞いちゃうと、呉服サンとしては嬉しかったりしてね。今あたしがニヤニヤしてるのも残念ながら良く見えないと思うけど。あ、そこの水たまり、水じゃなくて、沸点以下に冷やしたプロパンだから。それからそっちは塩素」
萌がスタンガンを取り出す。
「そろそろ限界だし、温度をちょっと上げると、当然気化して」
火花が飛ぶ。轟音とともに炎が舞い上がる。スプリンクラーが作動し、部屋中が塩素臭のする霧に覆われる。毛皮が異音を立てて溶け始めた。呉服が部屋の外に飛び出し、塩酸のシャワーを背にして周囲を見る。
「どこ?逃げたの?」
「あたしは」
背後から声が聴こえて振り返る。
「あたしにとっての一番のためなら、この身が朽ち果てたってかまわない」
二人の影が重なり、止まる。カチッ、という音が一度、そして何度も繰り返される。
「どうして?」
「残念ね」
呉服がゆっくりと振り返り、萌の毛皮をつかんで引きずり出す。萌はそのまま地面に転び、それから手をついて体をかろうじて起こしながら、片手に掴んだスタンガンを呆然と見る。
「体に接触するような距離にある物質なら、私は限りなく絶対零度に近い温度にできる。そしてその温度域では、半導体は機能しないわ。いわば電気を凍らせた状態」
「ち、ちくしょう」
萌の手からスタンガンが落ちる。
「これも砧君の作戦?随分詰めが甘いけれど」
「キ、キモオタには、『塩酸のシャワーを浴びせたら逃げろ』って言われた。深夜から呉服サンを引き離すだけで十分だって」
「そう。やっぱり」と呉服が右手のグローブを屋内に差し出す。
「将がいくら有能でも、兵が無能なら作戦も無意味ってことね」
そして右手を戻す。手袋の上に重なった塊がかすかに差し込んだ月明かりに照らし出される。
「ところでさっき、『一番以外とのキスは無効』って言ったわよね?塩酸のシャーベットとのキスはどんな味かしらね?」