5. 〝地獄への入り口〟
「地獄への入り口」(『世界の恐ろしい話』植田敏郎)から
巴が田村を見つめ、そして姿勢を正した。
「すみません。もう一つ報告が漏れていることがあります。『月は見ている』では、オオカミの名前は日本書紀本文に登場する神々から借りている、と申しましたが、正確には、古事記、日本書紀に共通する神々から、です。神武以降、欠史八代を神話とみなすかどうかは別として」
「で、古事記にのみ登場する神々の名前を付けられてるのがウルヴズだって言うんでしょ?」
「それだけではありません。日本書紀本文に登場し、古事記には出てこない神々の名前も、非常に少数ですが、あります。ほとんどは最終更新日の投稿にある、例えばフツヌシやカカセオなどです。そしてこれらは、それぞれ〝月の裏側〟のメンバーのことではないかと」
「『古事記だけ』というウルヴズに対して?」
「はい」
巴が頷き、そして一度大きく息を吸い込んだ。
「そして、二年前にも、一つ。『2016年8月22日13時15分、キサカイヒメ、オオソビノミクマノウシ。オオソビノミクマノウシ、シヌ』というものです」
「キサカイヒメ?一昨年の夏?それじゃ?」
「はい。これは絵馬深夜が暴漢に襲われた日です。暴漢は氷室麻袋。小学校時代の、私の二つ年上の幼馴染です。彼は浪人、本人に言わせると『二回休み』だったので、大学の入学年度は私と同じでしたが。オオソビノミクマノウシは、彼のことだと思います」
「そうか」
「交際まではいきませんし、大学でのサークルも違う。HELIXなどは苦手な人で、電話か、今時手紙のやりとりでした。ただ、教養課程での授業はいくつか同じものを取っていました」
「その中に日本神話の授業もあった、と。それから、数学か暗号化に関する授業も」
巴が目を見開き、「はい」と呟いた。そしてタブレットをしまい、小さな声で言う。
「氷室さんは、決して頭がいい人ではありませんでした。ただ、私にはない、いきあたりばったりの感覚がどこか安心できたんだと思います。あの事件が起きる少し前までは。高校は別だったので、彼が〝月〟やその少年部に所属していたのは知りませんでした。もちろん、箙司馬との関わりも。ただ、あの当時はわかりませんでしたが、今考えると、絵馬真昼の事故が一つのきっかけだったと思います」
巴の頬を涙が伝う。
「事件のあったしゃくなげ公園には、帰省するたびに立ち寄っていたようです。『あの地蔵像を見ると、帰って来たって実感するんだよ。どこに?って訊かれても答えられないけど』と、よくわからないことを言って笑っていた人だったのに。文学に初恋したまま青年期を迎えた氷室さんからの最後の手紙にはこう綴られていました。『僕は文学を愛したが、それは決して叶うことのない片思いだったようだ。彼女は僕に燃え盛る松明を見せ、それが燃え尽きるまで待つことを約束させ、それからその炎を吹き消した』」
田村は無言で巴を見下ろす。
「その手紙が届いたのは、あの事件が起きた翌日でした。当時は、ある程度は信頼していた人の卑劣な行為に、それ以上に、氷室さん自身も気付いていなかった彼の精神的な脆さに失望しましたが、もしかしたら何か彼なりの理由があったのでは、という淡い期待もありました。と言っても、東京からでは情報がほとんど見えません。私自身、自分のことで必死だったのもありますし、ウルヴズ、冥王症、テイア、オルフェウス、月。そう言ったことは、氷室さんは何も話してくれませんでしたし、こちらに来るまで知りませんでした。そして、彼が副作用に悩んでいたことも。何より、私には、真相に近づくための力も手段もありませんでした」
「だから東信地域での勤務を希望した?」
「通るとは思っていませんでしたが、昨年度末、急に」
来賓のタクシーも到着し始める。
「今は、氷室さんが見えないところで苦しんでいたことは理解しています。そして、なぜそれが絵馬深夜さんだったのかも。でも、もし彼が絵馬深夜さんをウルヴズだと信じ、何かを訊こうとしただけだったとしても、リハビリ中で体の自由の利かない少女に恐怖を与えたのは事実です。私には、あの、いつも飄々としていた氷室さんがそんなことをしたことが理解できず、だからこそなおさら許せなくて」
しばらくの無言の後、巴が深く頭を下げた。
「捜査に関わる可能性のある重要な情報を黙っていてすみませんでした」
田村は空を見上げ、それから巴に視線を落とした。
「誰だって言いたくないことはあるよ。俺なんて、言いたくないことどころか聞きたくないこともたくさんあるし。でも、ありがとう。言い辛いことを言ってくれて」
「田村さん。私は」
「なんて、俺がかっこつけて言うことまで、箙司馬は予見していた、と」
「はい?」
「むしろ傀儡は、野宮君でも雨月校長でもない、俺たちかも知れない。だとすると」
田村がホール側を振り返るのと同時に、曇り始めた空に爆発音が響いた。