Chapter 3
高校生活最後の一年になった。
「ほいじゃちょっくら綾音ちゃんのトコに行ってくるわ!」
女の話になると何かと突っかかってきた織屋は結局クラスメイトの女子と付き合い出し、事あるごとに色恋話を惚気てくるようになった。話によれば件のカノジョ――美綴綾音には入学当初一度告白して玉砕を見ていたらしいのだが、此度また同じクラスとして相見えた奇跡に運命を感じたあまり思い切って諦め切れなかった胸中を打ち明けたところ見事おめでたく、という結果になったらしい。
と、いうわけで俺はまたしてもこんな残念野郎と一年を共にしなければならないのかと進級一日-いっぴ-から頭を悩ませるばかりだった。
だが、不幸せなことばかりだったかと言えばそれは嘘で、ここで俺は再び夏菜、怜子の両者と繋がりを持つ機会を得た。腐れ縁と言っても過言ではなかろう夏菜とはこの年もまた同じクラスだった。三年間同じクラス、というのは、同性では数人いたが女子では夏菜ただ一人だった。
一方の怜子はと言えば、クラス自体は別だった。そもそもこの学校では希望進路によって二年次から1組から4組が理科、5組から8組が文科クラスとして割り振られているのであり、本人の意志で転科しなければクラス割りは実質四つに一つとなる。俺達は文科、怜子は理科だったが受験対策で初夏からレベル別の共通授業が始まると俺と怜子は中堅国公立組で一緒の授業になることがあった。
だが彼女との縁はただそれだけ、というもので、隣席になることもなく、話す機会もなかった。
「あ、ねぇちょっと」
物理的関係としての距離、そしてそれに伴う気持ちの距離が遠ざかるほどに、俺は怜子のことが気になり始めていた。二年前のことを思い出す。そこまで多くを話したわけではなかったが、それでも彼女と過ごす束の間は、とても尊いものに感じられた。
「ねぇってば」
同じクラスではなかったとはいえ、目指す所を同じくして少しでも再び同じ教室で授業を受けられるようになったのには、導き示す何かがあるのではないだろうか。俺はそんな観念にばかり囚われていた。
「おい聞いてんのかコラ」
「いって! 何しやがる!」
俺では到底答えの出せない思慮に延々思いを巡らせていると、突然何者かにど突かれた。振り向くとそこには当然のように夏菜が立っていた。
「何しやがるじゃないわよ! これだけ至近距離で三回も呼んでるのに気付かない方が何してやがるって話でしょ!」
「おぉそうか、すまん、聞こえてなかったんだ、許せ」
「それマジだったら補聴器付けた方がいいわよ、アンタ」
「悪かったって。ちょっと考え事してて」
下手を打つとコイツには考え事の中身まですっぱ抜かれそうで怖い。
「それで、何の用だよ」
「あまり呼ぶのに躍起になり過ぎて危うく本題忘れるところだったわ。アンタさ、ウチのとこの助っ人、やるつもりない?」
二年前の同じ頃に聞いたような言葉が彼女の口からは飛んできた。
「お前のって、軽音部のか」
「そうそう。去年はちょっとタイミングが合わなくて誘えなかったけど、今年も夏の定演に間に合わなそうでさ。今度はベースをやってくれてもいいわ。弦が一本少ないからそっちの方がラクよ、たぶん」
曲がりなりにも青春数年間音楽に懸けてきた人間がそんな口から出任せ、よく言えたものだな。というか、
「じゃあなにか、今年はギターに加えてベースも足りてないってか」
「あはは、新入部員2人だったんだよね、今年」
他校の事情は知らないが、軽音部ってどこもそんなに低迷しているのか? 学生生活を謳歌する期待値? みたいなのは高そうだし、知名度もそこそこだろう。それに近頃では女子高生5人組がバンドをやるアニメが流行ってるそうじゃないか。
「誰かさんの言葉じゃないけど、現実ってのは意外と厳しいのよ。そんなわけだから、ね? 手伝ってくれないかな?」
「前にも言ったろ。俺は元々バンドとかそういうの、そこまで興味がないんだ。それに仮に俺がその夏の定演とかいうの、手伝ってやったとしてその次もあるんだろ。それはどうすんだよ」
「そ、それはさ、ほら、何とかするから」
「一回助っ人やったって慢性的な人手不足は解消されないんだから、そうなったらまた俺にやってくれって話が来るだろ。一昨年の話は……秋口だったか、三年もそこまでは付き合うんだろう。とにかく、俺は勘弁させてくれ。今年は受験もあることだしな」
以前そうしたのと大筋同じ理由を付けて、俺はその誘いをきっぱりと断った。
何でもかんでも手を出すと碌なことにならない。素質あるないに拘る必要はないし、わざわざお人よしぶる必要もない。自分は自分のやりたいことだけをやっていればいいのだ。
俺の判断は間違っちゃいない。そう確信を持っていた。だが俺はこの時この応酬に違和感を覚えていた。
まず俺の発言には誤りがあった。二年前、俺が夏菜から誘われたのは秋の定演前だった。俺の学校の文化系部は通常、一シーズンに一回催しなりコンテストなりに参加しなければならないきまりがあるから、恐らくは軽音部も秋の大一番はそれ一回だろう。となるとあの時既に三年は引退していたから、三学年揃って活動できるのは夏の定演が最後、ということになる。
それならば俺の詰問に夏菜が言い淀む必要はない。助っ人は夏の一回で、それ以降三年が参入する余地はないのだから、秋に俺が再度召喚されるはずもない。後輩想い、ってこともあるかもしれんが、根本的に三年が夏定演後の人のやり繰りを気にする必要がないのだ。
この矛盾に気付いてしばらくして、俺はもう一つアクションを起こした。軽音部の三年でドラムをやっている奴がそれなりに馴染みのある友人だったからメールで聞いてみた。俺としては正直当たって欲しくない予想だったが、残念ながら的中してしまった。
今年の新入部員は、二人ではなかった。
******
嘘だ、そんなはずがない。そう思い込んで、俺はこないだの一件を忘れようと必死だった。片方が閉じるとその風圧でもう片方が開く引き出しのように、入れ替わりに頭に舞い込んできたのは怜子の存在だった。何かの拍子にすれ違うことがあっても、向こうからは何も言ってこない。ただただ、変わらぬ他人のようにすれ違うだけ。そんな態度だっただけ俺としては余計に彼女のこと、昔のこと、今のことが気にかかって仕方なかった。
俺がかつてこれほど一人の異性を気にかけたことがあっただろうか。物心ついた頃から中学を卒業するまでを含めても、そんなことなかったはずだ。色恋の事情には疎い自分だが、これをきっと「好き」だというのだろう。それは根拠もなく自信を持って信じられる一つの答えだった。
「ちょっといいか、怜子」
翌週のセンター対策の授業が終わった後、俺は特別教室を出ようとしていた怜子を呼び止めた。
「どうしたの」
――君、と彼女は続ける。そういえば、コイツの口から俺の名前を聞くのは初めてかもしれないな。
「話したいことがあるんだ」
ここじゃちょっと人が多くて話しにくいから……と俺はそれっぽい理由を付けて教室脇の人通りの少ない廊下に促した。
「それで、用事って? 次の授業も、教室移動があるんだけど……」
「ああすまない。手短に済ませる。単刀直入に言おう」
本当は放課後やらもっと時間のあるタイミングで、夕暮れの空き教室とか雰囲気の出る場所をチョイスすべきだったのだろうが、それでは如何せんコイツと会えない。
一世一代の出来事かもしれないのに比しては割合冷静な面持ちで、俺は一息に告げた。
「俺、お前のこと好きなんだ、怜子」
言ってしまった。少し俯き加減だったから、彼女の表情を見るのに顔を上げるのが億劫だった。バツが悪いというより、怖かった。
「…………」
その間がどれほどであったかは見当もつかない。数秒であったかもしれないし、数分であったかもしれない。俺達の周りに結界が張られてて実は数時間経ってました、ってことも、この期に及んでは無きにしもあらずだ。長い沈黙のあと、
「……そうなんだ」
怜子は一言だけ、口にした。恐るおそる彼女の表情を窺うと、目を少し見開いて幾分動揺している様子だった。視線の先は俺ではなく、その先のどこか遠い位置に焦点があるようでもあった。
それがどんな返事を示唆しているのかなんてのは今の俺では分からない。心臓が止まりそうになるけど、俺は身を粉にして聞かなきゃならない。明確な、答えを。
意を決して次の返事を迫ろうとしたとき、図らずも何かを察したのか怜子からポツリポツリと言葉を繋ぎ始めた。
「そっか……そうだったんだ……あの、でもね……ごめんね……あたしね……もういるんだ、他に……好きな……人が……」
ごめんね
この流れで最も耳にしたくない、口に出して欲しくない言葉だった。こと男と女の関係では、謝ったところで何も生み出さないし、誰も得しない。残るのはどうにもできない虚無感だけだからだ。
「分かった。俺も次の授業に行くよ。わざわざ呼び止めてすまなかった」
他にも何か言いたげな表情をしていたが、もう結果は明らかだった。それ以上悲痛な思いをしたくなかった俺は踵を返しその場を立ち去ることで自ら会話を断ち切った。
******
どうしよう。今更、そんな。
二年前、まだ私が人付き合いに不慣れだった頃、他の人と話せるようになるきっかけを作ってくれたのが彼だった。そしてきっと一生叶わない片恋相手だと思っていた、それも彼だった。
でもそれは自分で想って自分で満足して、それで済む話だった。マッチポンプで勝手に自己解決して、気持ち的にはそれで割り切ったようにして、それで私は今の私でいるはず。
あの頃の私だったらどう反応していただろうか。もしかしたら二つ返事だったかもしれない。嬉しくて涙してしまったかもしれない。けれど今の自分には、そこまで考えられる余裕がなかったし、深く考える余地もないと思っていた。
何故なら私は去年、運命的な出会いをしている。深澤と知り合い、私の価値観や人生観みたいなものは大きく変わった。勉強を懇切丁寧に教えてくれたのも深澤だったし、地元からほぼ出ることのない私に楽しめる場所を教えてくれたのも深澤だった。
そんな彼とこれからもずっと一緒にいたいという気持ちは本当だった。私に意中が存在するのだとしたら、それが深澤であることは間違いなかった。
その日曜も深澤との約束が入っていた。図書館で他愛のない話をしては週末課題で手詰まりな所を教えてもらったり、この頃はセンター試験に向けた勉強も一緒にやっていた。学校で一斉に過去問が配られてからやるのでは遅いので、その前に何年分かこなしておこうという話になったのだ。
早めの夕食を近くのファミレスで済ませた後、いつもならそこで別れているところだが、腹ごなしの散歩、という体で公園まで付き合ってもらうことにした。
私の気持ちを知ってもらおう。こないだのあいつみたいに、好きって伝えよう。私の気持ちは揺らがない。深澤だって、これだけ私に時間を割いてくれている。少なくとも好意以上の感情は抱いてくれているはずなんだ。そう思った私は、夕焼けが眩しい閑散とした公園のベンチで切り出した。
「ずっと言いたいことがあったんだけど」
「どうしたの、急に。怜子から何か教えて、以外の話が出てくるの、珍しいじゃん」
「うん。実はね、何ていうか、その……前から、深澤くんのこと、気になってたんだよね」
だめだ。「好き」なんて直球な言葉、そう簡単に出てこない。
「気になって……? それは、どういう意味で?」
いや、言うんだ。言わなきゃ。過去の自分にも決別が付けられない。
「その……男の子として……好き、だったんだ、前から……」
言えた。気持ちを言葉にできた。告白がこんなに覚悟と勇気のいることだなんて思わなかったけど、これでちゃんと深澤にも伝わったよね、私の想い。
「そっか」
けれど、深澤の返事は想像していたよりずっと冷ややかで素っ気ないものだった。
「俺もね、君のことは気になってたんだよ。一度話して、ちゃんと知り合いになりたいなって」
表情と発言が一致しておらずまったく状況が飲み込めなかった。私が視線を右に左にずらしていると、次の瞬間、私の耳には信じられない言葉が飛び込んできた。
「それで知り合いになったらさ、七組の伊藤を紹介してもらおうと思ってたんだよね」
「えっ……い、伊藤って……まさか、秋咲のこと……?」
「そうそう。どうにかしてお近づきになりたいんだけどさ、可愛い系よりは美人系で他人を寄せつけないタイプじゃん? いきなりは近づきづらいんだよね」
分からない。何を言っているの、この人は。
「怜子、結構伊藤と仲良いでしょ、いっつも喋ってるもんね。だから近いうちに紹介してもらおうと思ってたんだよ、伊藤を」
「それじゃあ……あたしは、最初から……」
「そういうことだから、その返事にはイエスとは答えられない。ごめんね」
ああ。
因果応報ってこのことなんだ。
ごめんね、だって。
その言葉は聞きたくなかったよ。
******
人生初の告白、そして玉砕を果たして次の授業をまともに受けられる気も毛頭せず、俺は自教室に戻ることにした。
何をしよう、というわけでもない。ただ空き教室になっていたら儲けもの、一コマ分じっくり休んでいようという心づもりだった。
次の授業で使われないのか、確かに教室は生徒がちらほらいるくらいで明かりもついておらず、昼下がりで日差しの入らない室内には薄暗くどんよりとした雰囲気が漂っていた。
三年はちょっとした変則授業なので、人によっては授業のない空き時間が出ることがある。そういう時にはこうして教室に戻っては黙々と自習をしているか、そうでなければイヤホンをして突っ伏して寝ているかのどちらかだった。
「あれ、アンタこの時間空きだったっけ?」
静かな教室を見渡していると、聞き慣れた声がした。夏菜だった。一次進路希望を出した時から都心の英語科志望だったという夏菜は俺達とはかなり異なる授業編成をしていた。
「夏菜か……。いや、そうではないんだけど、何ていうか、ちょっと、疲れて」
「うそ」
精神的にはこれでも十分疲弊しているはずなのだが、どうやら夏菜には違うように受け取られたらしい。
「疲れるほど真面目に授業受けてないくせに」
「……それもそうだな」
珍しくしおらしい俺を見て怪訝に思ったのか、彼女は心配そうな面持ちになった。
「何かあったんでしょ。……話せるなら、話しなさいよね」
これ以上話し声でピリピリムードの受験生を邪魔しないよう、俺達は教室隣の談話スペースに移った。本当に、コイツは何でも見透かしてくるな。
「……さっき、授業が終わった後、怜子に告白してきた。……フラれちまったけどな」
話してどうこうなる問題じゃないのは分かっていたが、あまりの傷心でそこまでにすら思慮が入らず、俺は先刻あった全部を夏菜に打ち明けていた。全部、と言って文字に起こしてたった二行というのも寂しいものだが、俺にとってこの二行に含まれる意味は見て取れる文字数よりも遥かに多かった。
「フラれたんだ?」
すると夏菜は少し意外そうな顔をしていた。
「どうしたよ。何か、おかしいか」
「怜子、アンタのこと、好きなんだよ。一年の時、自分で言ってた」
「何で……じゃあ、どうして……」
独り言つ。が、移ろいゆく人間の感情、そこに理由などなく、「好き」なのではなく、「好きだった」なのだとしたら。
それもやはりどっちつかずで二年間を過ごしてきた自分が全て悪いのだと俺はそこで考えるようになった。
「……いや、今考えたところで無駄だ。結果は結果。過去を悔いて未来が変わるわけじゃない」
変なことを言ってすまなかったな、と一言添え半ばまで進んでいるであろう次の授業に今からでも出るべきかどうか迷っていたところだった。
「待ってよ。アンタの悩み、聞いてやったんだから、今度は私の番よ」
ついさっき話せるなら……と控えめに出ていた口がどの面下げてそんな豪儀な態度を取れるのかと呆れつつも少しおかしく思ったが、聞いてくれたのは事実、授業中の教室に入ることほどSAN値の下がることもないだろう。夏菜の悩みとかいうのを聞いてやることにした。
どうせまた部活のこととか、大した悩みじゃないんだろうし。一週間前の出来事を海馬の彼方に突っ込んだ俺はこの時それほど楽観的な態度でいた。
つくづく思う。人の相談事なんかそうそう安請け合いするものじゃない。それから、貧乏くじにも大吉が入っているものだな、と。
「私ね、たった今、好きな人が失恋したって聞いたんだけどさ、これって千載一遇のチャンスだよね?」
「…………え?」
「好きな人に告白してフラれたらさ、しかもそんな経験したことなさそうな人だったらさ、凄く落ち込むでしょ。その相談相手になったのって、慰めたらもしかしたら今度は自分に振り向いてくれるかもって思っちゃうでしょ。そんなチャンスさ……あれほど一緒にいたいってそれとなく言ってきたのに、結局これっぽっちも理解してくれなかった、けど好きで好きでしょうがなくて……諦めきれないくらい大切な相手だったら……ここで言うしか……ないじゃん……!」
次第に勢いを失い声を嗄らせそれでも勢い任せに捲し立てようとする夏菜の目からは、一筋の雫がこぼれ落ちていた。
「夏菜……」
「取り乱しちゃってごめん……でも、素質があるとかっていう話は本当。最初は純粋に部活に入って欲しかった。でもクラスで色々話してるうちにそんなのどうでもよくなっちゃって、ただアンタと一緒に……ずっと一緒にいたいなって、思うようになって。三年になっても、その気持ちは変わらなかったよ」
「……そう、だったんだ」
「けど、アンタが怜子を気にしてるってのも何となく察してたし、実際それなら両想いだなって分かってたから、何か言いにくかったんだけどさ。後手に回っちゃったけど、今なら言えるよ。私はアンタのことが好き」
その時思った。コイツは強い。自分の気持ちを信じて、それでも待つことのできる心の強さがあると思った。この三年間を思い出す。振り返ってみれば彼女が俺に対してしてきた言動一つ一つが意味のあることだったんだ。
そうだ、だから今度こそ。
俺は迷っちゃいけない。