Chapter 2
その後の半年は、至って平凡なものだった。
文化祭などの年中行事を除けば怜子と関わることはほとんどなかったし、諦めの悪かった夏菜からも特に何を言われることもなかった。
結果的には何か新しいことをしたわけでもない、交友の輪を広げたということもない。本当にこれで良かったのか、と自問することはあれど、中学よりラクで楽しい毎日を送れることもないだろうと考えるにつけ、学生生活を充実させる、なんてのはどうでもいいことだとさえ思えてしまうのだった。
高校に通い始めて二度目の春を迎えた。
学年も一つ上がり、クラス替えもあった。夏菜とは同じクラスだったが、怜子は違った。三人とも希望進路が大体似通っている、とは夏菜から聞いていたのでもしかしたら今年もクラスが被るのかも、と思ったがそれは現実にはならなかった。元々期待していたわけでもなかった。
だがクラス割りの貼り紙を眺めて今度こそ怜子と会って話すことはないだろうと知ったとき、心なしか胸の奥底がそわそわした。
どうしてかは自分でも分からない。俺はあいつのことをどう思っていたのだろうか。単純に知り合いとして? もっと深く友人として? それとも、異性として……? 考えれば考えるほどにますます分からなくなる。今まで恋愛なんてしたことがなかったし、しようとも思わなかった。「できなかった」といえば全てを否定することになるが、そもそも日常的に話せる女友達なんかいやしなかった。
だから、怜子と夏菜は自分にとってどんな存在なのだろうか、それを考える必要があった。しかし何度も言うが、いくら考えたところで出せる結論はAオアB。知人か、異性か。そこにしか辿り着かない。
二択-フィフティ・フィフティ-を確信に絞り込む大きなきっかけとなったのが、俺の十七回目の誕生日だった。
俺の自宅から高校までは相当な距離があり、日中でも一時間に一本しかないような電車を二度も乗り継いで行かなければならなかったから、ギリギリ間に合う電車は始業の一時間前、一本逃すと三十分遅刻という極端な毎日を過ごしていた。
まぁそんな危機感があるから電車通学勢は大体寝坊なんかしないわけだが、この致し方ない事情で朝のHR前、俺は結構な時間を持て余すこととなっている。
誕生日の朝のことだ。
「あ、ねぇねぇ」
自分の席に荷物を置き、廊下を歩いていた俺に背後から聞き覚えのない声がかかった。
あん、と振り返ると、やはりあまり見覚えのない顔の女子が突っ立っていた。
「お前は、確か」
まぁ見覚えがない、というのは気のせいで、実は同じクラスで出席番号も近かったので席もそう離れているわけでもないのだが。
伊藤という奴だった。
華奢で小柄な体型に端正な顔立ち、だが自らスタイルのポイントをしっかり弁えているようでその容姿にピッタリとはまるベージュの上着とロングスカートを身に纏っている。
記憶の上では確か吹奏楽部。何を吹いてるかまでは知らないが、肩まで伸ばしたストレートヘアが際立つそいつは、言ってみれば絵に書いたような美少女だった。
そんな奴が俺に何の用? ふと考えようとしたが、答えはすぐに分かった。
「君、今日誕生日なんでしょ? おめでとう」
昼休みに友人から祝いの菓子の一つでもくるかとちょっとした期待は持っていたが、まさか第一安打がこんなところで飛んでくるとはね。いやしかし、
「それはどうもありがとう。けど、何で知ってるの、俺の誕生日」
当然の疑問を俺は投げかける。これが夏菜や怜子というのならまだ話は分かる。だが、今まで、恐らく一度も喋ったことのない相手だぞ。入学したときからこの学校は何かおかしいとは思っていたが、ここの生徒は一人一本ずつくらいネジが吹っ飛んでいるんじゃなかろうか。
というか、ソースだソース、情報源を寄越せ、と更に問い質そうとも思ったが、それもまた杞憂に終わった。
「怜子が言ってたから」
「……そういうことか」
まぁ、分かってみればあっけないものである。
伊藤と怜子は友達だったんだ。一年で別クラスだったから、恐らくは同じ中学の出身なんだろう。怜子も実家は割と遠いが、それでも乗り継ぎしなくていい分、俺よりはマシ、くらいの距離だった。それならある程度親しい仲が二、三人この高校に揃っていたとしても何らおかしい話ではない。
けど、仲間内で俺のことを話題に出していたってのは少し意外だった。というかどういう脈絡で話題に挙がったんだ? 挙がるとしたら昨日、「そういえばチサと同じクラスのあの人、明日誕生日なんだよねー」とかそんな感じか? どう考えても不自然だろそれ。
そもそも怜子はなぜ俺のことなんか口に出すんだろう。確かに誕生日は知っていておかしくはない。だがそれも携帯のアドレス交換をしたときの副産物でしかないのであって、俺が自分から誕生日を口にしたこともなければ、まして祝えなどと無粋なことを言った覚えもない。だからあいつにとって俺の誕生日なんてのは「知りえないことはない」というレベルの情報だったはずだ。
それが、何で。
もしや……と考えを巡らせれば巡らせるほど見当違いな空想ばかりが頭に浮かんでしまう。そんなことあるわけない。こういう場合、希望的観測をした方が泣きを見るんだ。俺は自分にそう言い聞かせた。
******
クラスが変わればつるむ連中も変わる。一年で親しかった友人は一人を除いて全員志望が異なっていたからまたみんな揃って……なんてのは最初から期待していなかったが、しかしその一人と同じクラスになれたのだからそれは僥倖というべきかもしれない。
GWが明ける頃になると別のクラスから少しずつ遊びに来る人も増え、知り合いの知り合いは……という、芋づる方式ではないが、最終的に六人くらいが集まり、昼休みになってはトランプをしたり他愛のない話をしたりして楽しんでいた。
その中に一人、不思議な男がいた。織屋という名前だった。同じクラスで、割と早い段階からつるむようになってはいたが、時おり何か探しものをするように周囲をキョロキョロと見回したり、言葉と行動が一致していなかったりと妙な側面が目立っていた。
手持ち無沙汰な時間があれば常に携帯かゲーム機を弄っていたし、頻繁にメールをしている様子だったから「誰に打ってんだ」と訊けばリカだのエミだの似ているようなそうでもないような女の名前が日替わりに次から次へと出てくる、そんな奴だった。不思議というか、これだけ聞けば単なる不審者である。
「よう、大富豪やろうぜ、大富豪」
そんなわけで、休み時間に遊びの話を振ってくるのも大体そいつだった。
「どうした不審者」
「は?」
「いや、つい心の言葉が。気にするな」
「ってことは内心そう思ってるってことだよなぁ!」
「どーどー。で、大富豪やるんだろ。いいぜ、お前大貧民スタートな」
「宥めた意味」
大富豪。
「じゃあ、ダイヤの3スタートで」
地方によっては富豪、貧民と別の階級で呼称することもあるが、まぁそれに準ずるトランプゲーム。最終的に仲間内では三年間やり続けた唯一の暇潰しだった。
「俺だわー」
「キョウちゃんか、どぞ」
大富豪となると必ず話題に挙がるのがローカルルール。クーデターだの砂嵐だの女三人寄れば姦しいだのさっぱり聞いたこともない役が突然飛び交うのが地域混合の欠点である。入学当初は俺達もそうだった。
「ダイヤ3・4・5・6・7・8・9・10・Jで革命で」
「あ?」
だから元々いた面子である程度のルールを制定していた。7渡し、8切り、10捨て、イレバ、スペ3返し、革命、革命返し、階段、2枚縛り、半シバ・鬼シバなし……等々。
「7渡しでこれ、10捨てでこれ、8切ってスペ9でアガリで」
「ワンキルかよ、おい」
階段の成立条件、革命の選択権など挙げだしたらそれこそキリがないのだが、そこで俺は一つルールの小さな穴を見つけていた。
「アガったから、スペ9、革命状態のまま、峯岸の番だぞ」
「おっそうだな。じゃあとりあえずこれ8切りで革命返すわ」
その穴は、ゲーム終盤で意味を成す。
「黒のJを2枚で、イレバ」
「黒5を2枚、縛り」
大富豪の性質と6人という人数上、ゲーム終盤においては平場が維持されている、もしくは革命があっても返されている場合が多い(理論的に調べたわけじゃないが)。そうでなくとも大体の人は3が一番弱く2が一番強いということを前提にして手札を切っていくだろう。つまり、最初に低目を出すのが順当な勝ち筋となる。しかしながら、9~Q、この辺の数字は軒並み終盤までダブつきやすい。
そして、このルールの穴、イレバ時の最強カードが反則アガリの対象外であるという性質を使うとどうなるか。
少なからず終盤でJが一枚は出てくることを想定し、3ないし4を残しておく。
「黒3を2枚でアガリ」
これが可能になるわけだ。
もちろん今回のようにダブル縛りという状況でなお出せるというのは幸運な例だが、ジョーカーが二枚切られている終盤で8が手札にない、となった場合、非常に受動的にはなるが、Jを確定で切れるというのはなかなかにうまい戦略なんじゃないかと思う。
理想は初手で同一スートの3とJが揃っている形だ。これなら好きなタイミングで「なんちゃって8切り」ができるうえ、手札が2枚も捌けるのである意味8より効率がいい。
まぁ、これも内輪で手慣れてくると完全に読まれるわけだが。
そんなこんなを三年間も繰り返していた俺もなかなか阿呆らしいと思う。他人のことを言えた義理じゃないよな。
同じ日。予鈴が鳴り昼休みも終わろうかという頃、トランプを片付けていたときのことだった。
いつも夏至の日の太陽みたいな輝きを振りまいているような夏菜が珍しく物憂げな表情をして俺の席にやってきた。
「ごめん、ちょっと気分が悪いから保健室で休んでる。先生来たら、言っといて」
「おう」
季節の変わり目で上下する温度差に体調でも崩したのだろうか。二年連続皆勤賞、くらいのノリで威勢の良いあいつが、稀有なこともあるもんだ、そう思った。
俺に言伝を残すとそのまま教室を出て行ったようで、振り返って彼女の机を見ればそこには前の授業の教科書と筆記用具が置きっぱなしになっていた。
「それでは授業を始めます」
予鈴が鳴ってクラスがバタバタと騒がしくしているなかでいつの間にか教卓前の席に座り虎視眈々とその時を窺い、本鈴と同時にタイムイズオーバーと言わんばかりに掛け声をかける、次の担当は現文の北岸だった。
別に嫌味な教師、というわけではない。齢四十前後で物腰の落ち着いた淑女、というイメージの割には随分と若作りな声で授業も分かりやすいと評判。その手の者に言わせれば近年稀にみるほどステレオタイプなアニメ声だという。
実はこの教師、俺の親戚だったりする。そこまで近しいわけではないので今年赴任してくるまで俺自身は会ったことも話したこともなかったが、祖父母に及ぶよしみで先方にはとっくに身バレしていたらしい。
北岸は黒くエンボス加工されている割に薄っぺらい出席簿を開き、空いている座席と照らし合わせる。
「あら? 小林さんは今日は欠席? ……でも二限まではいたようだけど……」
出席簿と手元をぼんやりと眺めていた俺だったが、伝言を預かっていたのを思い出し、
「体調が悪いって言って、保健室で休んでます」
「あらそう。じゃあ欠席付けとくわね」
それでは今日は先週の続き、教科書46ページから――と何事もなく本題が開始される。
温室育ちで頭だけはキレるワガママな少年が自分よりできる女子が転校してきたことで周りからの評価を落とし、その子のランドセルにウサギを放り込む暴挙に出るなどと一読トンチキな話にも思えるが、やがて彼女に恋慕の情を抱くようになるも進学先を違え予備校で運命的な再開を果たすが冷遇、告白にも至れず仕舞いという、よく読んでみるとこれがなかなか面白い青春ラブストーリーだったりするのである。
教師の説明も右から左で面白い物語はないかとパラパラと教科書を眺めていたとき、俺はふと何かの異変に気付いた。
妙な視線を感じる。授業中だからやにわに振り向いて確かめることもままならないが、何だ、これは。誰かに見られている。ような気がするというレベルではなく、霊能力者でも何でもなくともこれは人間の眼差しからくるものだと分かるほどに強い視線を後背に感じた。何だなんだ。ちと怖いぞ。
結局その正体が気になって九十分、授業の内容はちっとも聞いていなかった。
「何でお前があんなこと知ってんだよ」
あまりにも虫の居所が悪く手洗いに出ようとした俺を、授業が終わってすぐに視線を発した主が呼び止めた。
織屋だった。
「あんなこと、って、何の話だよ」
「すっとぼけるな」
すっとぼけてるのはお前の方だ。織屋の目つきはまさに俺があの視線から想像していた通りのそれだった。
「夏菜がいない理由、何でお前が知ってんだってこったよ。何でお前が言うんだよそれを」
申し訳ないが全く意味が分からない。日本語の理解が、ではなく、質問の意図が、だ。
「別に、何だっていいだろ」
なぜ言ったか、と訊かれたらそりゃ本人にそう言われたからだ、という至極単純な回答しかできないわけだが、どうしてか俺は今のこいつに素直にそう言うのがとても嫌だった。
「体調不良だろうが何だろうが、お前が黙ってりゃ他の女子が言ってただろうよ、何でお前がそれをわざわざ言うんだよ。関係ねぇお前が」
何なんだよその言い方は……!
「お前はそもそも部外者だろうが。意味分からんことで突っかかってきて勝手にキレられても困るんだよ」
何かが気に食わず、俺は思わず声を荒げ、あまつさえ織屋の胸倉を掴み殴りそうな衝動にも駆られた。お前はどうしてこんな下らないことでそこまでムキになってんだ。
すんでのところで詰問を振り払うと、俺は教室を後にした。
そうだ、織屋。こいつは進級してから知り合った奴。この数ヵ月だけを切り取ってみれば、これと言って関わりもなく話すこともなかった俺と夏菜は確かに赤の他人。それなのにいきなり欠席の言伝を頼むなんてのは変な話かもしれない。
だが、それはあくまで赤の他人だった場合のことだ。夏菜とは一年でもクラスメイト。挙げ句夏場まではある程度一緒に仕事をすることもあった。ギターを教わったのだってそれこそ夏菜からだ。
織屋にとっては突然の事実だったかもしれない。だがそれは春先に再振り分けをして一堂に会したここの大多数の奴等だって同じことなんじゃないのか。別に俺という人間にどんな繋がりがあったかなんて知ったことではないだろうが、あそこで俺がああ口にした以上、夏菜とは少なからず知り合い程度の繋がりはあったものだと察するはずだ。
だがそれが何だ? 夏菜はお前に関係ない? 他人の過去も碌に知らない人間がよくそんな事をほざくものだ。
どうしてそんなことを思ったのかは自分でも分からない。分からないが、俺は織屋のその態度が、どうにも気に入らなかった。
まるで、「あの女には手を出すな」と暗に嚇しているような。まるで、夏菜が誰か別の奴に取られてしまうような。
おい待てよ。ついこないだまで怜子のことが気になってたんじゃなかったのかよ。その気持ちは一体どうした。それとこれとはまた別の感情なのか。だとしたら今のこれはどう言い表したらいいんだ。
分からない。自分の気持ちが理解できない。自分の感情がコントロールできない。俺はそんな戸惑いを帯びながら残りの授業二コマもまともに気が入らず、家に帰っても、春先の涼しさがちょうど過ぎ去ったばかりでほどほどに湿度の高い暗がりの自室で毛布にくる包まり、ひたすら眠気が来るのを一人待つばかりだった。
******
高校生になったら恋愛をしなくてはいけない、なんて法律は存在しない。だが、残念ながら不文律はある。少なからず私はそう思っている。
運動部に入ってはスポーツに汗を流し勉強も頑張って彼氏を作って……。それが、典型的な青春スタイルとして跋扈しているというのは、もう事実として肯定せざるを得ない。できなければできないなりにそういう友達を作って、休み時間のごとに誰が誰と付き合ってどうなったとか、そんな痴話にもならないような噂話に花を咲かせなければいけない。
そんな状況は私には単なる苦痛でしかなかった。進学するまで知ることができなかった。誰も教えてくれなかった。けど、高等学校という場所は、そんな鳥滸言を話す友達の一人、二人すら満足に作れない私のような人間がいていい所ではなかった。
古典文学が好きで、歴史が好きで。自分の趣味ばかりに没頭し過ぎてきた私には、昨日見たテレビ番組の話なんてできるはずもなかった。そしてそれができないと友達もできない、なんてことも知り得なかった。気付いたときには何もかもが手遅れだった。
そんな私に、彼はきっかけをくれた。きっかけ、というとやや他者依存的かもしれない。実際それを行動に移したのは他でもない私自身だけど、彼と同じクラスだった、彼の席に近かった、そしてそのタイミングで百人一首というまさに私のホームグラウンドで、少しでも彼と関わる機会が得られた。ここまではどう考えても自力なんかじゃない。神かそれに準ずる存在による示し、みたいなものだと思ったし、そこで彼に話し掛けることが天命なんじゃないかとさえ思った。
もちろん最初からピンポイントで彼に好意を抱いていたわけじゃない。語弊がある言い方かもしれないが、多分、きっかけなら誰でもよかったんだと思う。でも結果として彼に話し掛けてよかった。その後も授業に関わることで何かと接してくれたし、それを見たクラスの女の子も何人か、「友達」らしい振る舞いをしてくれるようになった。
それほど親しい交友関係は築けなかった。進級してクラスが分かれればそれまで、所詮はその程度のものだった。けど、苦手は苦手なりに私自身も人と接することができるようになっていた。
世間の話題にはまだまだ疎いけど、学校生活にまつわるちょっとしたお喋りにさりげなく入れている私は、周りから見たらきっと地味子から大人しい子、くらいの認識には変わりつつあるのだと感じる。
「――で、今年もインハイには出るの、怜子」
しかしながら、旧友離れできない性格は子供の頃から相変わらずなもので、今もこうして昼休みにお弁当、となると学童保育からの昔馴染みである秋咲に付き合ってもらっている。
「そうだね。去年は地区予選で中央に負けちゃったから、今年はせめて予選突破くらいはしたいなって」
私達が集まる場所はいつも決まって教室棟端の談話室。廊下の音が筒抜けでちょっと落ち着かないけど、自販機も近いし、何より大抵他に誰もいないのでゆったりとくつろげるのが二人のお気に入りだった。
「予選突破、なんて小さいこと言ってないで、素直に今年こそ優勝したいです、って言っちゃえばいいのに」
「口にするのは簡単だけど、インターミドルとは規模が違うんだよ。何十人規模の部活だってあるらしいし」
そう。去年のグループワークでは少し熱くなってしまったが、あれでも実は予選敗退の傷心の後だった。地区だろう少なかろうといって甘くみていたわけではもちろんない。けど、そこまで遠くない高校に通っている人だったら半年に一度開催されている社会人大会で見かけてもおかしくはないはず。まさかあんなダークホースがいたなんて、というのはあの時純粋に思ったことだった。
「それより、秋咲の方はどうなの、吹部」
「どう、って言われても、こっちは部員五十人いるし、最後の秋コンまで三年生がご丁寧にみっちりご指導ご鞭撻下さるから、忙しいやらストレス溜まるやらで、やってらんないわよ」
本当にやりたくない、みたいな吐き捨てるような感じではなかったからそれが本意なのだとは流石に思わなかったが、それでも秋咲は何だか疲れたような表情を浮かべていた。
ひょっとすると今の彼女にこの話題は酷だったのかもしれない。そう思った私はつい柄にもない言葉が口をついて出てしまった。
「そういえば、秋咲って彼氏とかいないの? 可愛いし八方美人だから、モテそうなものだけど」
「えっ? い……いきなり何を言い出すのかと思えば怜子から色恋話? どうしたのよいきなり――」
すると意外にも秋咲は表情を一変させた。いや、元々それが目的だったんだけど、あまりにも急変し過ぎて言い出しっぺの私もちょっとびっくりした。
「それとも、気になってる人……とか」
「それは……いないわ、今のところ。高校生だからって、あまりそういうこと、したいとも思わないし」
一瞬何かの躊躇いがあったようだったが、それも気のせいかと思うほど束の間だった。単純に私からそんな世俗的な話題が出てきたことに驚いたのだろう。
「それじゃあ、また」
時間をかけて二段いっぱいの弁当を食べ終わり、そろそろ予鈴も鳴ろうかという頃合いを見て、秋咲と私は談話室を後にした。帰路もほとんど一緒だから本当ならば放課後に待ち合せたいところだけど、片やお遊び程度の同好会、片や「ダメ金」が赦されない県内屈指のマンモス部である。活動の密度も違えば時間も違う。いつものことなので致し方のないことなのは自分でも分かっている。
この時秋咲と交わした会話、彼女の表情、そして一瞬の躊躇いの意味を、友達として私はもっとよく考えるべきだった。
******
中間管理職的学年も半分を過ぎた、くらいの、肌寒い季節に話を進めよう。
夏菜とも彼ともクラスを分かれてからしばらく、新しい面々ともそれなりによくやっていけるようにはなっていた。一年の時みたく仲良く話せる男友達なんていなかったけど、不満足ではなかったし、元々そういうのを求めているわけでもなかったから、女子数人で当り障りのない小噺でもできればそれで十分、充実していると思えていた。
その日はクラスで三回目の席替えがあった。期末が終わるごとのLHRでくじ引きというスタイルが恒例だったが、私は話しづらい人が隣になったらどうしようと毎回気が気じゃなかった。幸いこれまで比較的大人しめの同性と隣合っていたからよかったけど、とにかくそんなごく個人的な理由から私はあまり席替えというイベントが好きになれなかった。
「それじゃあ窓際から順に送ってくぞー」
担任の椎谷がそう言うと私の二つ前の席に小さな紙切れが四十枚ほど入ったお菓子の缶が手渡される。引いた人は黒板に書かれた座席表に自分の名前を入れていく。
間もなく私にくじが回ってきた。適当にかき回して一つつまみ上げる。可愛らしい字で書かれていた数字は14。座席表と照らし合わせると、そこは真ん中の列、前から二列目の左側の席だった。最近眼鏡の度が合わなくなりつつある私としてはなかなかの好ポジションを獲得したといえる。
最後の廊下側最後尾が引いてから座席移動。それまで結構な時間があるので読書でもして待つことにした。どうしようアタシ前だー寝れないーとかざわつく人も周囲にはいるが、私にその火種は飛んでこなかった。
「よーしみんな書いたなー。じゃあ各自身の回り品を持って移動しよう。隣が授業中だから、くれぐれもうるさくするなよー」
椎谷の随分間延びした声が掛かった。これだけぷっくら太っているくせに体育教官だというからお笑いだ。四月にはそんなちょっと失礼な偏見をかけていたこともあったが、第一回目の体育でカモシカのような俊敏な動きを見せたことでその幻想は見事に吹き飛んだ。
移動のついでに今度の近くには誰がいるんだろうと座席表に目を移す。私の隣には渡邊龍真と書かれていた。りょうま? りゅうま? 超次元テニスでもするのかな? そんなことは何でもいいけど、男子が隣か、やっていけるかな、そんな不安を抱えながら私は新しい席に向かった。
できれば取り越し苦労であって欲しかったけど、隣に座っていたのは茶髪のボサボサで古臭い学ランを着崩し耳たぶにはピアスの痕跡があるという、見た感じどう転んでも私には話せそうにない容姿をしていた。
「君が隣? 名前は?」
一見不愛想そうにも見えたのだが、それは誤りだったようで渡邊は私が席に座るなりやおら話し掛けてきた。
「那須原怜子」
「なすばら? この辺じゃ珍しい苗字だね」
「田下から来てるから……確かに学年では一人かも」
「そりゃ毎日遠くから大変だね。俺はそこに書いてある通り、渡邊龍真っての」
「……りょうま」
「そうだけど、何か?」
「テニス部?」
「えっ、いや、部活はサッカー部だけど……」
思うだけに留めておくはずだった言葉が不意に口をついて出てしまった。いけない。その名前を聞くとどうしてもいつも読んでる漫画のことが頭に浮かんでしまう。
「何でもないの! 気にしないで」
「おぉそうか……ところで、那須原は部活とか入ってんの?」
気を遣ってくれているのだろうか。多分心にもないことなのは見当が付くけれど。
「部じゃないけど、百人一首同好会に」
「へぇ、そんなのがこの学校にあったんだ?」
一年前にどこかで誰かから聞いたようなセリフだな……というか、文化系のしかも同好会なんて、やっぱり知名度低いんだろうな。
そんな私の胸中を察したか、
「あぁごめんごめん、けなすつもりはなかったんだ。知らなかったんだって、本当に」
「別に責めてるわけじゃないけど」
そう言うと渡邊は嘆息する。
「まぁいいや。そんなこんなで、俺勉強とかさっぱりできないし、色々聞くかもしれないけど、よろしく頼むわ」
LHRの終わりを告げるチャイムが鳴ると、それだけを残して彼は教室を後にした。
あれ、いま私男子と普通に話してた? あんなにチャラくていかにも私とは馬の合わなそうな相手なのに……どうしてだろう……。
それからひと月ほど経ち、内陸部ではちらほら雪も降り始めようかという季節になったある日の放課後、渡邊からこう切り出された。
「なぁお前、彼氏とかいんの?」
「か……れし……?」
「ああ。教室で見てる感じ、そこまで仲良い男とかはいないみたいだけど」
「別にいないけどさ……何でそんなこと聞くの?」
こんなのと付き合う物好きなんていやしない。そもそもこんなことを聞いてきたのでさえ渡邊が初めてだったのだから。
「いや実はさ、俺のダチで、っつか部活の奴でお前のことがちょっと気になってるってのがいてさ。紹介してくれってんだよ」
「気になって……私が? 人違いじゃないの?」
「なに馬鹿なこと言ってんだよ」
そりゃ言うよ。サッカー部で絡みがあった人なんて一人もいないし、誰かが気にしている、そんな視線を感じたこともまずない。
「嘘。絶対人違いか、そうでなければ気のせい」
「気になってるっちゅうに気のせいとは新しい返しだな。いいからとにかく一度会ってくれんか? 嫌なら嫌でそれでいいし、俺からもそう言っておく。挨拶だけやて」
何だか胡散臭い関西弁が混じっているのが少し怪しいところだけど……特段イヤ、というわけでもなかったし、まず件の彼が誰なのかすら分からなかったから、会ってみるしかないと思った。
「……挨拶だけなら」
「ありがとな! じゃあ来週の月曜放課後、使わしてもらうわ。空けといてな」
何となく、なあなあのまま、約束を取り付けてしまった。放課後の予定なんて部活行く、くらいしかないし、数分で終わるだろうから、部員には休むとか、別に何も言わなくても大丈夫だよね。
「やあ、初めまして。俺は6組の深澤」
「……2組の那須原です」
約束の放課後。予め渡邊に仕向けられた場所で待ち合わせていたのは、やはり見知らぬ男子だった。
「龍真から話は聞いてるよね。サッカー部でキャプテンやってんだ」
「キャプテン? 二年で部長なんだ。凄いね」
正直、初対面で何を話したらいいのかさっぱり分からないので、適当に相槌を打つくらいしか私にはできない。
「まぁ正確には部長ではないんだけどさ。三年で部長はいるんだけど、夏の大会が終わると二年の先発から一人、キャプテン――いわゆるチームリーダーが選ばれるんだ」
トップが二人いるのか……面倒だな。まるでドイツの――
「ドイツの大統領と首相、みたいな関係だね」
口に出したわけでもないのに、考えを遮られてしまった。読心術でも心得ているのだろうか。
「勉強もできるんだね、深澤くん」
「そんなでもないよ。理系に明堂ってのがいるでしょ、今にも死にそうな肌色した。実力テストで毎回そいつに負けててね、悔しい思いをしているよ」
明堂? 聞いたことないけど、頭良いのかな。というか、それ大丈夫なの。クラスにはそんな名前の人いないはずだけど、実はもう死んでて見る人ぞ見える地縛霊とかじゃないよね?
「うわ、それ、ちょっと怖いね」
「え? 何が?」
「あぁいや、何でもないの」
「そ、そう。とりあえずこうして挨拶もできたことだしさ、俺たまにそっちのクラスにも顔出してるから、その時はよろしくね」
ついでだからメアドも交換しようよ、なんて言われたりして、適当に駄弁っているうちに十余分が過ぎてしまった。そろそろ部室に行かなきゃだし、それを言ったら深澤くんも部活があるだろう、ってことで、どちらから別れを切り出すということでもなく、その日はその程度で話を終えた。
後にクラスメイトから聞いた話になる。
4組の明堂梨穂子。どうやら学年首席らしい。
******
最初に会った時の予告通り、それから深澤は時たま私のクラスに顔を出すようになっていた。これ見よがしに話し掛けてきたわけではないが、機会が合えば互いの日常生活のことを話したり、私が彼から勉強を教えてもらうこともあった。その逆もないわけではなかったが、文系とはいえ学年次席、理系科目だって教える必要のないほど出来がよかった。
元々同じ部活で比較的仲が良いという渡邊がいたし、ちょくちょく出入りはしていたらしいのだが、無論私はそんなこと知る由もなかった。
年が明けても深澤との関係は続いていた。出逢ったきっかけが渡邊だったから彼とももちろん親しかったが、それでも次の席替えで離れてからは滅多に話すこともなくなった。だから、私にとって深澤という人間は特別な存在だった。
しばらくして彼とは学校以外でも会って話すようになっていた。休日になると図書館で勉強しては互いに分からないところを教え合い、テラスのある喫茶店でお昼を食べ、夕方まで本屋や百貨店を巡ったりする。そんなありふれた日常は私達のかけがえのない日々だった。
二度目の春休みを迎えると、勉強会は深澤の家で行われるようになった。長期休暇中は図書館に限らずどこも混雑して落ち着いていられないということがまず第一にあった。それから彼の家が学校とさほど遠くなかったこと、それなら私が行っても通学するのと労苦が大差ないことも私がそうする理由として大きかったし、何よりそれほどまでに二人の仲が親しいものになっていた、というのも否定できないだろう。
もちろん、高校のサッカー部でしかもキャプテンを張っているので年末はそちらも忙しかった。もっと言えば一月の初旬までは眼前に大きな目標があるわけだから、そんな時くらい部活に集中しても……と思ったけど、それでも週に一回は私と会って話す機会を設けてくれた。私はそんな彼と接して、嬉しかったと同時に、何だかいたたまれない感情に包まれることもしばしばだった。
深澤と親しくなるにつれて、次第に一年前の自分を忘れるようになっていった。一年のとき、何を思って誰と話し、どう感じたのか。そんなのは時間と共に移ろいゆくものだった。
だがこのときはまだ、「忘れつつある」ということにさえ無自覚だった。
でも、この関係がいつまでも続くのなら、私はそれでも構わないと思った。それまで感じたことのない、心の奥底から温かな手で包まれるような、そんな気持ちに籠絡され切っていたのかもしれない。