Chapter 1
「やっぱあんたギターの才能あるって」
午後六時。
街中の防災無線からはキレの悪いピアノが懐かしい唱歌を奏でているのが聴こえてくる。
「この程度で才能とか、関係ねぇだろ」
教室の窓から見下ろせる玄関には部活を終え学校を出ようとしている人もちらほら窺えた。
「関係あるわ、大ありよ。こんなに飲み込みが早いの、部活の連中にもいないもの」
弦楽器やらシンセやらの雑音が鳴り響く教室で俺の隣、ごちゃごちゃとがなり立てているのは、同じクラスの夏菜。
黒髪セミロングでやや日焼けした素肌が際立つ彼女は、指定服のない我が校では珍しく夏にはいつも淡い水色掛かったセーラー服を着ていた。
「連中って……」
一年なんだからお前も入部してまだ半年そこそこだろうに。
「私は中学の吹奏楽部で色々弄ってたし、小学校でも金管やってたから当然よ。でも他の5人はみんなシロート。見ての通り、ベースはまだしも、ギターなんか単音がやっとだわ」
確かに弾き様を見ずとも弱冠高校生がバンドをやろうというにはあまりにも拙い音が、先刻から俺の蝸牛をうずまいていた。
「それは、好きこそものの上手なれって奴だ。好きで続けていれば、そのうち手慣れて合奏もできるようになるだろう。継続は力なり、とも言う」
「下手の横好き、とも言うのよ」
聞こえよがしにそう言うので一年共よりやや遠い、窓際の位置で何かの打ち合わせをしていたらしき上級生数人が怪訝そうな顔でこちらを見てきた。
やめろよ、これじゃまるで俺もグルになって一年ディスってるみたいじゃねぇか。
「だからさ、入ってみない?」
「軽音部にか」
「ボーカル、ドラム、シンセは二年の先輩方で出来るからいいし、ベースもまぁ百歩譲って榎本にやらせれば何とかなるから、あんたはこのままギターを続けてくれればいいわ」
「待て待て、俺が入部する前提で勝手に算段を練るな」
というか、三年が引退するとギター弾ける人が一人もいなくなるのか、ここの部は……。
「ねぇお願い! だってあんた帰宅部でしょ? どうせ帰っても何もやることないんでしょ? だったら良いじゃない!」
へりくだっているのか他人の日常を見くびっているのかどっちなんだよ。
「ちょっと考えさせてくれ、俺だって色々忙しいんだ」
「忙しい?」
「あぁいや、別に何でもない」
「ふーん」
バンドでギター、ねぇ。
確かに魅力的な話ではある。才能云々の話はさておいて、俺の高校生活半年間を振り返り、何か高校生っぽいことをしたかと訊かれたらそれは間違いなくノーだ。勉強に本腰を入れたわけでもなく運動部でファイ! オー! ファイ! オー! とか掛け声して走り込んでいたわけでもない。ましてや誰が好きだの誰と誰がくっついただの色恋沙汰があったわけもなかろう。そんな俺にとって「部活に入る」ということ自体が、まさに青春時代を謳歌できる一つのきっかけとなるのではないだろうか。
そう答えたのは単純にはぐらかすための常套句ではない。本当に考える時間が欲しかった。それだけだ。
******
夏菜からギターを習う、少し前の話になる。
皆さんは百人一首をご存知だろうか。
ご存知でないわけがないだろう。無論百首全部を知っているのかと言われればそれとはまた話が別になるが、少なくとも「難しいかるた」くらいの認識はあるだろう。俺は高校に入るまでその認識だった。
百人一首と言えば歌がるたと連想するのが一般的だが、もとを辿ればそうでもない、というのが実情らしい。そもそも百人の歌人の五七五七七を一首ずつ選定して作られた歌集を広く百人一首と呼ぶそうで。
「――えー、中でも藤原定家が小倉山の山荘で選定したとされる『小倉百人一首』これが歌がるたとして普及しました」
と、いうことだそうだ。
どこに百人一首の説明をする高校があるかと思ったが、この学校では一年の古典で習うことになっているらしい。他校の事情は知らないが、更にやっかいなことにはクラスのグループワークとしてこれをやれ、というのだ。教卓の横には既に我座せりとばかりに和紙基調で彩られた紫の箱が六セットほど並べられている。
ほどなくして百人一首の超古典的解説が終わると六人ずつ席をくっつけて班を作る。小中辺りは授業でも集団行動が多かったのでこういう機会もままあったが、高校になると流石に減るな。こうでもしなきゃ話さないような連中だっている。
所々へこみのある手狭なスペースにパラパラと百枚の取り札を適当に散らすと、
「私が読みます。班でいちばん札をたくさん取った人が勝ちですよー」
そこそこ歳の食った女教師が指示する。そりゃそうだろうよ。
「みかの原~わきて流るる~いづみ川~」
…………。
…………は?
まさか、あれか、上の句だけを聞いて対応する下の句を探せと、そう仰るのですか。
無理ゲーだろ、これ……。
「ハイ!」
グループはおろかクラス全体が状況理解に苦しみ静まり返るなか、頓狂な声と共に引き出しが空の木製卓を思い切り叩いたときの鈍い音が挙がった。
しかも俺の班じゃないか。
「いつ見きとてか恋しかるらむ」
「え? ゑ?」
「二十七番、中納言兼輔」
こいつ、まさか全部憶えてやがんのか……。
何というチート行為。まさに強くてニューゲームじゃないか。こんなの、一つも取れるわけがない。
クラスの九割九分がゲームに参加すらできないという歪な状況に流石の教師も見かねたのか、幸い次からは下の句も読んでくれることになった。幸いというか、その時の「え? この程度の歌も知らないの?」みたいな表情がちと気に食わなかったが。
一枚目を見事無表情で勝ち取ったその女は怜子と言った。女子のなかでは背が高く、黒で長めのストレートヘア、ややふっくらしているというかそんな感じで眼鏡をかけていた。
普段、教室ではあまり目立たない、いわゆる図書館系「地味子」みたいな奴という印象だが、まさかこんなところで本性を現してくるとは……女は侮れない。
「逢ふことの~絶えてしなくはなかなかに~」
タァンッ! とその次も小気味よいというか鈍器で人をボコるような音がいの一番に飛んでくる。
「人をも身をも恨みざらまし」
そりゃそうだ。元より下の句を聞かないと分からない歌。上の句で動かれたら勝ちようがない。
その後も、他の班が全員してあくせくしながら盤上を眺めてはお手付き、眺めてはお手付きと平和なゲームを繰り広げている最中、経験者のいる俺の班だけは独壇場、その他諸々絶望に唖然とするばかりだった。
が、俺はというと実はそうでもなく、
「天の原~ふりさけみれば~春日なる~」
「あった!」
「人はいさ~心も知らず~ふるさとは~」
「これだっ!」
「…………」
かじった程度の雑学で時おり手数を増やしていく、くらいの足掻きはできていた。
が、結局全歌暗記などという反則技の前では半端な知識など敵うはずもなく。
「92対8……?」
完敗。何だこれ。
「2005年の日本シリーズより酷いじゃねぇか」
「阪神は今関係ないだろ」
心の声が思わず出てしまったようで隣の斉藤に的確な突っ込みを受けた。というかお前、そのネタ通じるのかよ。
いやしかし酷いのは斉藤を皮切りにする以下四名である。俺と怜子の取り札で足して百。初心者だけで構成される他の班がそれなりにどっこいどっこいの試合を展開していたなかで取り札を一枚も触れなかったというのはちょっと精神的に来るものがあるかもしれない。
「上の句だけで幾つか取ってたけど、お前、百人一首できんのか」
訊ねる斉藤はやはりちょっと不機嫌である。百人一首とてかるたなのだからできる、できないで区別するのは違和感を覚えるが、
「祖父が歌人だったから、知ってる歌があっただけさ」
本当はあまり関係ない。今時分、中学でも有名な短歌の一つや二つ教わると思うのだが、高校に合格した時点で一旦脳内を空っぽにするというのは誰しも共通していることだろうし、そもそも俺だってそんな大口叩けた結果じゃない。
かかる妬みは根から潰しておけ、ってのがここ最近の教訓なんでね、いちいち煩わしい受け答えもするまい。
「ちょっと」
授業後、意外な人から声が掛かった。
「あれ、お前」
怜子だった。俺が話したことがない、という以前にこいつが他の誰かと話しているのを見たことがないレベルだったから少し驚いた。
「同好会、入る気、ない……?」
引っ込み思案という第一印象はどうやら間違ってもいなかったようで、声も細々としている。つい先刻前「ハァイ!」なんてへーベルハウスのアイツもびっくりな大声出していたのと同一人物とはとても思えん。
「同好会? 何の?」
「……百人一首」
「そのための同好会がこの学校にあったなんて、初耳だ」
ということは、こいつやはりその手の人間だったんじゃないか。勝てないわけだ。
「君に向いてると思う」
自分さっきバカ勝ちした癖によくも褒めてくれるじゃないか。
「さっきお前相手に8枚取れたのは運が良かっただけだ。短歌なんて一般教養くらいの知識しか持ち合わせてない」
「それでもだよ……素質ある」
たかだか一回の授業中のお遊びで、何を言ってるんだろうか。
「まぁ、そこまで言われると否定する気にもならないが……」
買い被り過ぎなのは間違いないが、遠慮するのもどうかと思い、一応肯定的な返事をしておく。
「だから、考えておいて」
「……分かったよ」
素質、ねぇ。
******
「忙しいって、何よ」
別にアイツの生活をどうこう言うわけじゃないし無理矢理誘うつもりもない。もしかしたら家庭が複雑だったりして本当に忙しいのかもしれない。それは知らない。
けど何かよく分からないままにはぐらかされた感じだったのが気に食わない。
「言いたいことがあるならはっきり言いなさいよね」
適当に受け流された不満の音がつい零れてしまう。
面白くない。
この苛立ちは一体何なんだろうか。今までに感じたことのない、変な、気持ち。
「これはもしや……恋……っ?」
「なっ、ちょ、茶化さないでよ、イズミ」
「またまたご謙遜を~。どおりでおかしいと思ったのよねぇ、鬼教官のあんたが男連れてくるなんて、それしか考えられないもの」
「だからそんなんじゃないってば。ていうか、誰が鬼よ、誰が」
「ヒィ~ごめんごめん! でぇ、実際どうなのよ、カレとは?」
「カレって……アイツはただのクラスメイトだし……だって本当にあるんだもの、ギターの素質。アイツが入ったら百人力なのに」
そう、私は単純にアイツの素質を買って軽音部に誘っているだけ。他意なんか、ない。
「じゃあとりあえずそういうコトにしておくわね。何かあったら遠慮なく相談なさいよ、あんたそういうの疎そうだし」
「何もないわよ。ていうか余計なお世話なのよ、いちいち」
「ハイハイ。鬼教官もいいけど、そろそろ七時よ、片付けて帰らないと玄関が閉まるわ」
指摘されて正面の時計を見れば、下校時刻まであと十分を回っていた。いけない、今日の施錠当番は私だったっけ。
「失礼します。音楽室の鍵を返しに来ました」
この学校では原則として鍵の持ち帰りはできない。部長であっても顧問であっても、だ。だから下校時刻の午後七時までには必ず教務室のキーロッカーに返却しなければならない。収容所染みた外見のくせ建て替えたばかりなのでその辺のセキュリティには厳しいのだろう。
教務室には残業社畜マンがまだちらほらといたが、誰も返事はしてくれない。いつものことだ。薄暗い部屋で無駄に輝度の高いモニターが煌々と光っている。カタカタと歯切れの悪い打鍵音が聞こえてくる。
これだったら、返したフリしたり、ロッカーから他の鍵持ち出しても誰も気付かないよね……。
一瞬そんなくだらないことを考えたが特に何も思うこともなく、淡々と右手に持っていた細長い鍵をフックに掛ける。
「失礼しましたー」
数日後。
「じゃあ英語の週末課題を集めるんで、後ろから回してください」
昼休みの予鈴が鳴ると同時に宿題集めが始まる。そこそこ勉強のできる私は英Ⅰの教科担任から英語ワークの回収の任を与えられていた。
GWを明けた辺りから宿題の回収率は軒並み低下し、一時は三割を切るまでの悲惨な状況にもなったが、その後クラス担任が関係各所から色々愚痴られたのか提出具合を毎週チェックするようになってから長期休暇明けのこれまではそこそこの回収率を維持していた。
「ちょっと、これ中川のところに持っていくから、手伝ってよ」
ただ、ワークが通年配布のもので一冊で結構な厚みがあるため、回収率が高いとなかなか一人でいっぺんに持っていける重さではなかった。
「まったく、何でいっつも俺なんだよ」
「いいじゃない、暇なんだし。お昼だってどうせ十分で食べ終わるんでしょ」
だから最近はこうしてアイツに回収したワークの半分を持たせている。ブツクサ言うけど、結局最後には何でもやってくれるのがアイツの良い所だと思ってる。
「なぁんてね、ヘヘッ」
「……何か言ったか?」
「別に、何でもない」
特別棟に繋がる渡り廊下を並んで歩いては、独り言つ。
午後の授業を適当にやり過ごしホームルームHRを終え荷物を取りに行ったあと教室に戻る。
今日も足繁く勧誘しようと思い、教室の外からアイツを探そうとしていたときのこと。
「あれ……」
この時間、いつもならちゃっちゃと帰る準備をしているはずだったが、教科書も筆記用具も机に置いたまま誰かと話しているのが見えた。
あれは……怜子……?
無愛想、無表情でクラスでも目立たない方、ありがちなアニメキャラで例えるなら、無口な眼鏡っ子。日がな図書館に入り浸ってそうな……というかまさにそのまんま、みたいな、言っていれば特徴のない、地味な感じのクラスメイト。
「へぇ、そりゃ凄いな。どおりで――」
何て言ってるんだろう。窓際にいて距離があるせいかよく聞こえない。私が近づけばいいんだろうけど、何か、怖い。あの二人に近づいたら、知りたくないことまで耳に入ってきそうで、怖い。
アイツが私以外の女子と話しているのにも驚きを隠せない。けどもっと稀有なのはあの地味子が心なしか微笑んでいるように見えることだ。
どうしてだろう。胸が、疼く。
「何してんだ、お前」
考え事をしていたせいか二人が会話を終え帰り支度を済ませていたのにも気付かなかった。いつの間にかすぐ近くまで迫っていたアイツは目を丸くしながら訊いてきた。
「妹が早退したって言うから、今日は帰るけど」
「あ、あぁそうなんだ。じゃ、じゃあね、また明日」
おう、と一言、アイツは俯いて立ち尽くしている私に背を向け、階段に向かおうとする。
「ちょっと待って!」
「な、何だよ」
色々な頭の混乱を一旦は振り切って、私はそんな男の踵を返させた。
「さっきの、怜子でしょ、さっき話してたの。一体何を話してたのよ」
「まぁ別に、大した話ではねぇよ」
「大した話じゃないなら、教えてくれたっていいじゃない」
我ながらよくこんな言葉が口をついて出るものだと思う。教えてくれたって、だって。まだ付き合ってるわけでもないのにね。
ちょっと、まだって何よ。アイツと私は、そんなんじゃないって……!
自分で自分に突っ込みを入れていると、
「百人一首の話さ」
もっと恋愛チックな話かと思ったら、予想もできない単語が飛んできた。
「百人一首?」
「ああ。全中で準優勝したんだと」
「怜子が?」
すげぇよな、とアイツは呟く。
いやまぁそれは確かに凄い。何でそんなのがウチのクラスに、というか学校にいるんだ、という疑問も拭えないが、さしあたっては、ではなぜコイツとその話題に発展するのか、それが分からなかった。
そういえばこないだの古典、班分けで百人一首をやったんだった。思い返せば確かにコイツと怜子は同じグループだったし、何か一組だけ別次元の闘いを繰り広げていたような気もする。もしかしてそれが発端なのか。
「まぁ、そんなところだ。じゃあな」
アイツが私の視界から見えなくなると、身体中の力が一気に抜けた感じがした。何をそんなに気張っていたんだろうか。自分でもそんなの分からない。けど、
「そんなことだったのか……」
夕日の強く差し込む橙色の教室で、一人へたり込む私がいた。
「なぁ怜子、ここが口語訳できないんだけど、今日当たるところだからさ……」
「これはね、この『まじ』が打消推量だから……」
それからしばらくして。
傍から見れば「そんなこと」で飲み込める些細なきっかけも「きっかけ」としては十分だったらしく、事あるごとにあの二人が話しているのを見かけるようになった。
あの日以来、私はアイツを軽音部に勧誘できていない。何か自分の中でバツの悪いものがあり、言い淀んでいる。この心のモヤモヤは何なんだろう。
私が何か頼みごとをすればいつも大体なあなあでやってくれるアイツが、軽音部に関してはそれとなくはぐらかしてくる、ような気がする。で、百人一首をきっかけに怜子と話すようになっている……。
「もしかして」
「ちょっといいかしら」
その日の昼休み、教室を出ようとした怜子をすんでのところで呼び止めた。
「あなたは……」
「同じクラスの夏菜よ。いくら地味子でも入学して半年なんだからそろそろクラス全員の顔と名前くらい覚えなさいよ」
「ごめんなさい、あたしそういうの苦手で」
気持ちは分からなくもない。が、アイツと仲良くなっておいてそれはちょっと憎たらしい言い方だわ。
「まぁ何でもいいわ。あんたこないだ、アイツに何か言ったでしょ」
言ってアイツの席を視線で示す。
「この間は……あたしが百人一首で全中に」
「その前よ、古典のとき、あったんでしょ」
「……あのときは、彼を百人一首同好会に入らないかって、誘った」
やっぱりか……。
私の勧誘を受けて時間が欲しいと返した。個人的な事情がある可能性も捨て切れないけど、私が誘った以前に似たようなオファーを受けていた。だからどっちを取るか考える時間が欲しかった。これなら筋は通る。
「で、返事は貰ったの?」
「……まだ何も」
私が最後に誘ったのがもう二週間くらい前になるから、怜子の件はそれ以上経っているのだろう。
「私が返事、聞いておくわ」
「あなたに何の関係があるの?」
「あるのよ」
「どうして……?」
確かにそうだ。普通に考えてこれはアイツと怜子の問題。私が首を突っ込むこともない。けど、私だって待たされてるのよ、あんたのせいで。
「それにあたし、入部してもらったらいつか……」
「え?」
小声で何か……怜子、まさか……。
いや、余計な邪推はやめておこう。兎にも角にも今はアイツに言及しなくちゃ。
鉄は熱いうちに、って奴ね。
******
器用であるということと飲み込みが早いということ、そしてその方面に向いているというのは、一見似通っているようでその実まったく異なる。
器用な人ってのは何をやらせても大体うまいことやるし、持続的に成長もしていける。それに対して単に飲み込みが早い人は、ただ物覚えが早い、それだけ。初学者以上の次なるステージに行けるかどうかは別問題になる。そういう人のほとんどは何か強みや特技がある人で、そういう過去の自分の経験を他の物事に当てはめて考えることに長けている。
向き、不向きはそうやって経験したなかで自分がこれから続けていって「経験者と渡り合える」見込みが十分かどうかで判断されるのだと個人的には思っている。
だから一度や二度で要領を修得したからと言って可能性を見出し何でもかんでも手をつけるのは、本当は褒められたことじゃないのだ。
そう考えると器用な人が何事においても得をする世の中なのかもしれない。
閑話休題。
夏菜から軽音部に入らないかと誘われてから部室に顔を出さず、しばらく経ったある日の放課後のことだった。
「アンタ、結局どうすんの、軽音部」
「あぁ、それだけどな――」
「あたしも聞きたい」
そろそろ来るかなと思っていたからある程度覚悟はしていたが、思わぬ方向からもう一人、割って入ってきた。
「……同好会の件」
怜子だった。
正直、二人ほぼ同時の話だったからちょっと考えなきゃいけないかな、と思ったのはあるかもしれない。どちらか一方だったら……どっちつかずのまま勧誘を承諾するか、そうでなければキッパリ断っていただろう、俺の性格柄。
「怜子から話は聞いたわ。どうすんの……いや……どっちにすんの?」
夏菜が捲し立ててくる。こうして比較するとやっぱり怜子は口下手というか何というか、人と話すのが本質的に苦手なんだろうな。こんな奴と比較されるのも可哀想だが。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
「どっち」だって? 勝手に選択肢を絞るな。第三のチョイスだって俺にはまだ残っているはずだ。
「どっちにも入らない。申し訳ないが俺は、軽音にも、百人一首にも、あまり興味がないんだ」
「……そっか」
意外そうな顔をするでもなく、ただただ気の抜けた返事。返したのは夏菜だった。
怜子の反応は……窺い損ねた。目を向けると同時に軽く会釈をして俺の右頬を掠め、俯き加減のまま教室を出て行った。長い黒髪からラベンダーの淡い香りがそっと鼻を打つ。
「でも、私は諦めないからね。唐突にギターが弾きたくなったらいつでも言いなさいよ」
「唐突にギター弾きたくなることなんかないだろうが、まぁ分かったよ」
最後のひと押しだろうが、これで終わりだろうと適当に流す。これでこの二人と関わることもしばらくないんだろうよ。
だってそうだ、夏菜も怜子もあるんだかないんだか分からないような俺の素質を見込んで単にそれぞれの部活、同好会を勧めてきただけだ。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。