第五章 『過去との決別』②
深石家二階、優太の部屋。
あれからずっと黙っている木村に代わり、テンコが優太に事情を説明した。
「なるほど。“クラウチングスタートをすると下痢になる病”、ですか」
納得した様子で優太がうなずく。木村によるそのネーミングは相変わらず間抜けだが、口にする彼の声は、それを微塵も感じさせない緊張で溢れていた。
ゆえに、
「はい。ですから、木村さんが四百メートルリレーの第一走者になることはできません。ここは若菜ちゃんにお願いして、代わってもらうしかないと思います」
テンコもそう真面目に答える。
「それで、木村さんのご意見は?」
優太がそちらに目を向けると、彼はうつむいて口を開いた。
「僕もそのほうがいいと思う。やっぱり、第一走者は若菜ちゃんに……」
「本当に、そう思っているんですか?」
「え?」
とがめるような声に反応し、木村が視線を上げる。そこには、眉を吊り上げた優太の顔があった。
怒った顔をそのままに、優太は続けた。
「木村さん。雅志君との再戦を約束した時の貴方の顔、とても嬉しそうでしたよ。本当は、走りたいんじゃないですか?」
「そ、それは、そうだけど」
「だったら走ればいいじゃないですか。神様は、過去にとらわれず、などとおっしゃっていましたが、過去にとらわれるからこそ、人間なんです。たとえ、生きていたころに後悔があったとしても、まだ木村さんには、その雪辱を果たすチャンスがあります。今を逃したら、それこそ死んでも死にきれませんよ」
「でも、もし、運動会の場で僕が“アレ”を漏らしたら、それは、優太君が漏らしたということになるんだよ」
「そんなものは小さな話です。木村さん、僕が貴方に預けたもの、いったい何でしたか?」
「優太君の、命」
「そうです。僕は、もうすでに貴方に命を預けているんです。なのに、たかだか“アレ”の一つや二つ、漏らしたからといって、それがいったい何だというんですか? 僕に気を遣って木村さんが雅志君との再戦を諦めるのだったら、僕にとってはそのほうがつらいです」
「優太君」
「やってやりましょうよ、木村さん。悔しかった過去、悲しかった過去との決別です」
「過去との、決別」
「そうです。そのために、僕の体、思う存分使ってください」
「だけど、それでも駄目だった時は……」
「その時は、その時ですよ。万が一、木村さんが“アレ”を漏らしたら、その恥は、僕が代わりに背負って生きていきます。僕は、木村さんほど気弱ではありませんから」
優太はにこりと笑って見せた。
「ありがとう。優太君」
「いいえ、お礼なんていりません。それより、絶対に負けないでください」
「うん、がんばるよ。僕、雅志君に勝って」
「違いますよ。雅志君に勝つ必要がないことは、木村さんが教えてくださったじゃないですか。そうではなく、木村さんが本当に勝たないといけない相手は」
「……僕自身」
「そのとおりです。かつて“スター選手”と呼ばれた木村さんの走り、僕とテンコさんに、いや、陸上競技場にきた人たち全員に見せつけてやってください」
「分かった。約束する」
真っ直ぐに優太を見つめ、木村は、強くきっぱりとうなずいた。
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