第四章 『努力の結晶』④
窓の外から蝉の鳴き声が聞こえてくる室内で、ゆっくりとテンコが口を開いた。
「正直に申し上げれば、三月三十一日のあの日、木村さんが崖から飛び降りたことは、私はもちろん、神様にさえ想定外の出来事でした。木村さんは気が弱く、自殺なんて大それたことができるわけがない。そう高を括っていたのです。そして、貴方が飛び降りることを諦めたところで、私が現れる予定でした」
「どちらにしても、僕はテンコちゃんに会えていたんだね。それで?」
「私は木村さんに、これからもがんばって生きて行くように、とだけを伝え、その場を去ることになっていました」
「何だよ、それ。随分とあっさりした別れじゃないか。冷たいなぁ」
「仕方ありませんよ。私には、優太君の体に入ってくれる人を捜すという大事な役割があったんですから」
「そうか。こうして僕が優太君の代わりをしているのは、死んだからこそ、だもんな。それで、テンコちゃんが去ったあと、僕はどうするの?」
「木村さんが自殺してしまったことからも分かるとおり、人間の行動というものは、神様にも正確な予想ができません。そのため、絶対ではないのですが……」
「それで構わないよ。教えて」
「はい、承知しました。自殺できなかった木村さんは、恐らく、その後、街に戻り、一本の電話をかけることになります」
「電話? 僕の家の電話はずっと前からとまっていたし、携帯電話もなければお金もなかった。それなのに、どうやって電話をかけたの?」
問いとともに、木村が自分でも思案を始める。
そんな彼に、テンコはすぐに答えた。
「お金なら持っていたではありませんか。ジャケットの内ポケットに」
「ジャケット? ……あ、思い出した! 最後の百円玉だ!」
木村は大きく手を打った。
「そう、その百円玉です。それを使って貴方は、遠方にいる叔父さんに電話をかけます。お願いだから助けてください、と」
「そうか、叔父さんに……」
木村は、両親の葬儀を代行で仕切ってくれた叔父の顔を思い浮かべた。
「叔父さんは、その日のうちに貴方のところにきてくださいます。そして、十七年という長きに亘り、何の行動もなさなかった貴方を叱りつけます。まぁ、私としては、貴方のような方は一度ぼこぼこに殴られたほうがご自身のためにもなったと思うのですが、叔父さんは優しい方ですので、実際はそこまでには至らなかったでしょう」
「……」
返す言葉なく、木村は顔を伏せた。
「それから、貴方は、叔父さんが紹介してくださる工場で働くことになります。小さな工場で、お給料もそう多くはないのですが、根がまじめな貴方はそこで一生懸命に働きます。ところが、それから約一年後の三月三十一日。交通事故に遭い、この世を去るのです」
「それが、僕の、本当の一年」
「はい。しかしながら、先ほども言いましたが、未来は変化するものです」
「だけど、それでも大方は合っているんだろう?」
「まぁ、そうですね」
「だったら、もうひとつだけ聞きたいんだけど、僕がその本当の一年を生きていたとして、僕に、世界で一番好き、と言ってくれる誰かは、現れただろうか?」
「さぁ、それはどうでしょう。木村さんは、びっくりするほどもてませんでしたからね」
そう言ってテンコが笑う。
しかし、いつになく真剣な表情でこちらを見ている彼に気づくと、彼女は言葉を変えた。
「あの、正直に申し上げれば、それは私にも分かりません。愛ほど不確かなものは、この世に存在しませんから」
「ということは、可能性は、ゼロではなかった」
「もちろんです。誰であっても、生きている限り、人は人から愛される可能性を持っています」
「……生きている限り、か」
そっとつぶやき、木村は小さくため息をついた。
「どうしたんですか? そういえば、木村さん、確か、自殺する直前にもそんなことをおっしゃっていましたよね。『次に人として生まれてくる時には、どうか、世界で一番好きと言ってくれる誰かが、僕の前にも現れますように……』でしたっけ」
「え? まさか、聞いていたの?」
驚くと同時に、木村がその顔を赤くする。
「聞いていましたとも。あの時、私は、木村さんのすぐ後ろにいたのですから」
「そうか。飛び降りる僕の体から霊体を引き出すことができたんだから、当然だよね」
「はい。ですが、自殺の際に恨み辛みを述べる方はたくさんいますが、あのようなことを口にされた人は初めてです。何か、大きな理由があったのではないですか?」
そうテンコがたずねる。
すると、
「いや、大したことじゃないんだけど……」
そう前置きしながらも、彼は口を開いた。
「僕の両親って、僕が二十六歳の時に二人とも事故で他界したんだけど、すごく仲がよかったんだ。親父はお袋のことを世界一好きで、お袋も親父のことを世界一好き。だから、二人にとっての僕は、いつも二番目だった。もちろん、僕にも、世界で一番好き、と言ってくれる誰かがいたなら、そんなこと考えなかったかも知れない。でも、僕はもてなかったからね。それが何となく心に引っかかっていてさ。つい、言葉に出ちゃったってわけ」
「なるほど、そうだったんですか。それにしても、木村さんって、子供みたいですね」
テンコが笑う。
「そうだね。僕は、子供だ」
彼女に合わせるように、木村もそっと小さな笑みを浮かべて見せた。
一見、笑い合っているように見える木村とテンコ。
しかし、テンコは気づいていなかった。今、木村が話したそのことが、本当は、彼が自殺する上での最終的な引き金となっていたことを。
人は誰しも、形にできない愛情というものを支えとして生きている。
だが、この世に生を受けた全ての人間が、誰かから、世界で一番好き、と言われるかというと、決してそうではない。死を迎えるその時まで、誰の一番にもなれなかった者が少なからず存在する。
ならば、せめて親だけは、胸に抱いた我が子に、世界で一番好き、と伝えてあげねばならないのではないか。そうでなければ、生まれた子があまりにも不憫ではないか。
木村が考えたのは、まさにその一点に尽きたのである。
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