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弱くてニューゲーム  作者: 直井 倖之進
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第四章 『努力の結晶』②

「ところで、今、木村さんがトレーニングしているのは上半身ばかりですよね。本来、陸上の選手はもっと足を鍛えるものではないのですか? 例えば、走りこみみたいに。私、木村さんが走っているところって、お使いの時のランニングぐらいしか見たことがありませんよ」

 そんなことを聞いてくるテンコに、さらりと木村は答えた。

「あぁ、それは(わな)だね」

「罠?」

「うん。陸上の選手は下半身が重要。だから、とにかく走りこまないといけない。その考え方は、中学の陸上部あたりが(おちい)りやすい罠なんだ」

「どういう意味ですか?」

「テンコちゃんは、五十メートル走の時のこと、覚えているかい?」

「もちろんです! あれを忘れるわけがないじゃないですか! ああ、思い出しただけで腹が立ってきました」

 テンコが、ぷんすかし始める。

 だが、それを気にすることなく木村は冷静にたずねた。

「あの時、僕は二本目の五十メートルを走っていて転んだんだけど、それは何故だか分かるかい?」

「何故、って、足がもつれたからでしょう? 長い入院で足が弱っていて、ついていかなかったから」

「そう思うよね。でも、本当は逆なんだ。足は十分に動いていた。むしろ、ついてこなかったのは上半身のほうさ。スプリンターというのは、前傾姿勢で走り出し、上体を起こした時にトップスピードになるんだけど、その際に使うのは腹筋なんだ。腹筋がなければ、当然、上体は起き上がらず、フォームは前傾のまま。だけど、それでも足だけはがんばって体を前に押し出そうとする。だから……」

「前のめりに転ぶ」

 テンコが出した結論に、木村は、

「そういうこと」

 と首を縦にふり、続けた。

「もともと、人間の体は、腕よりも足のほうが強いんだ。その差は、普通の人でも三倍から五倍。キックボクシングの選手だと、十倍以上にもなる。それは、まるでF1のマシンのようなものだ。そんなマシン、乗用車しか動かしたことのない人に(あつか)えるわけがないんだよ。となれば、ドライバーは運転の技術を高めるしかない。その技術に当たる部分が上半身、腹筋というわけさ」

「へぇ、意外と考えて行動されていたんですね。私、また木村さんのこと、少しだけ見直しました」

「いつも、少しだけなんだね。まぁ、いいや。それで、地道な努力を重ねてできたのが、この体なんだよ」

 そう告げると木村は、テンコの前で着ていたシャツをおもむろに()いだ。

「きゃ! 何するんですか!」

 テンコが悲鳴を上げる。

 だが、その言葉に反して、彼女の両眼は木村の、いや、優太の(はだか)の上半身をしっかりと捉えていた。

 その証拠に、

「おぉ、すごい。お腹、割れてます」

 との感想をつぶやく。

「うん、がんばったんだよ。優太君の体って、()(ぼう)がつきにくいけど筋肉もつきにくい典型的な細身だったから苦労したけど、ここまでしっかりと鍛えてあげればもう大丈夫だ。今だと、五十メートルならば、二本と言わず、四、五本連続で走ったとしても、もう転ぶことはないだろうね」

「確かに、こうして見ると(ずい)(ぶん)と男の子らしくなりましたね」

 ここぞとばかりに、テンコが優太の体をまじまじと見つめる。

「……あの、そんなにじろじろ見ないでよ。僕の体じゃないけど、今は僕だから、何となく僕が恥ずかしい」

 木村は、テンコに背を向けた。

 しかし、それをテンコは許さない。

「まぁまぁ、よいではないですか」

 そんな悪代官みたいな台詞とともに、すかさず彼の前に回りこんだ。実に素早い。

 そのスピードに()(ぎも)を抜かれながら木村は言った。

「そんなに必死にならなくてもいいだろ。だいたい、僕が()()に入っている時は、いつも必ず覗いているんだから」

「ちょ、ちょっと、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。あれは覗いているんじゃなくて、神様からいつも一緒にいるよう命令されているためそうしているだけで、別に他意は……」

 慌ててテンコがつくろい始める。

 「これは面白くなった」と木村の目に光が宿った。

「ふーん。まぁ、別にどっちでもいいけどね。ただ、僕が聞きたいのは、“毎日優太君の裸を見ているのに、腹筋の変化に気づかなかったのはどうしてか?”ということ。……ねぇ、どうして?」

 木村がテンコの顔を覗きこむ。

「そ、それは……」

 口ごもり、テンコは木村に背を向けた。

 当然、今度は木村が素早く彼女の前へと回りこむ。

「ねぇ、どうして?」

 さっきの仕返しである。

 こうなってしまっては、もはや逃げようはない。

 諦め、テンコは小声で答えた。

「それは、その……、私の体にはない珍しいモノがついていれば、そこに目がいくのは当然というか、そこ以外にはまったく興味がなかったというか……」

「エッチ!」

 怒った声でひと言そう告げると、木村は、体を反転させ、脱いでいたシャツを身に着けた。

 そんな彼を前に、顔をうつむけてテンコは言う。

「あの、すみませんでした。謝りますので、できればこのことは優太君には内緒で……」

 にやり。彼女の背中越しに、木村は密かにほくそ笑んだ。

「うーん、どうしようかなぁ」

 悩むふりをして見せる。

「お願いします!」

 祈るように手を組み、テンコは彼を見上げた。

 ゆっくりと、優太の姿をした木村がふり返る。その顔には、慈悲を与える仏のような微笑みが浮かんでいた。

「木村さん、……ひょっとして、私に意地悪して遊んでいませんか?」

「ばれた?」

 こらえ切れず、木村は声を上げて笑いだした。

「もう! 子供みたいな真似をしないでください!」

 テンコが頬を(ふく)らませる。

「ごめん、ごめん」

 そう言いながらも、木村はなおも笑い続けた。

 ご訪問いただき、ありがとうございました。

 次回更新は、5月8日(火)を予定しています。

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