第三章 『見えた課題』④
「じゃあ、行ってきます」
持田先生にそう伝えると、ついてこようとする若菜を手で制し、木村は、ひとりでグラウンドを離れた。
「木村さん、本当に大丈夫なんですか?」
若菜や持田先生から十分距離を取ったのを見計らい、そう優太が話しかけてくる。
「うん、平気だよ。それより、優太君の体、傷つけてしまってごめんね」
木村が頭を下げると、優太は大きく首をふった。
「いいえ、いいんですよ。木村さんが転んだから、派手な記録が出ずにすんだんです。むしろ、転んでくださったことに感謝です」
「酷いな、それは……」
笑顔の優太につられ、思わず木村も笑ってしまった。
そんな中、ひとり怒っているのはテンコだ。
「二人とも何を笑っているんですか! 確かに、売られたケンカは買えとは言いましたけど、負けてしまっては意味がないんですよ! 走っている雅志君を蹴っ飛ばしてでも勝たないと」
と、天使のくせに悪魔みたいなことを言っている。
「そんなことしたら、失格になってしまうじゃないか」
「そうですよ。レースで失格というより、それは、人間として失格です」
すっかり頭に血を上らせているテンコを木村と優太は冷静に諭した。
「分かってますよ、そんなこと。でも、悔しいじゃないですか。転びさえしなければ、木村さんが勝っていたのに……」
テンコは、深くため息をついた。
すると、実にあっさりと木村は言った。
「いや、転んでいなくても、僕が負けていたと思うよ」
「どういう意味ですか?」
あまりにあっけらかんとした敗北宣言に、テンコが戸惑う。
「どういう意味、って、そのままの意味だよ。さっき、杏子ちゃんの声を聞いただろう? 雅志君の記録、七秒八九だったって」
「もちろん聞きましたよ。でも、木村さんはもっと……」
テンコの言葉の途中で、木村は首をふった。
「いや、十歳で五十メートルを七秒台で走るなんて、僕にはできなかったよ。たとえ、生きていた時でもね」
「え? それじゃあ、雅志君の記録は……」
「うん。圧倒的、だね」
「そんなに?」
「あぁ。三十三年前の僕が競争したとしても、雅志君には勝てなかった。ならば、今の僕ならなおさらさ。完敗だよ」
「降参だ」とでも言うように、木村が両手を上げる。
「へぇ、そうなんですか。……ま、まぁ、雅志君がすごいのは認めましょう。ですが、木村さん、そんなに悔しそうには見えませんよ。彼に勝つ方法、何か分かっているんじゃないですか?」
核心に迫る質問をテンコがする。
だが、これにも木村は、あっさりと首をふった。
「いや、彼には勝てないよ。僕に与えられた期間は一年だけ。それも、あと十一か月ぐらいしか残されていないんだ。その中で、雅志君に勝つのは百パーセント不可能だね」
「では、どうしてそんなに気楽に構えているんですか?」
「別に気楽にしているつもりはないよ。ただ、はっきりと言えるのは、今回の仕事で僕が雅志君に勝つ必要はないってこと。僕が勝たなければならないのは、僕自身さ」
「木村さん、自身?」
「そう。今、優太君のこの体は僕が動かしているんだけど、当然のことながら僕のものじゃない。だから、僕の思いと体の動きが一致しないんだ。ならば、どうするか」
「どうするのですか?」
「鍛えるんだよ。僕の思ったとおりに体が動いてくれるようになるまで、徹底的にね。そして、僕の思いに体が対応してくれるようになったその時、優太君の体は、心臓発作なんて起きないほど強くなっていると思う。きっと神様は、僕がこの考えに至ることを見越して、今回の仕事を僕に与えたんだろうね」
「やっぱり、神様ってすごい方だったんですね。それで、鍛えるとおっしゃいましたが、具体的にはどうするのですか?」
「今日の五十メートル走で課題は見つかったよ。でも、その克服には時間が必要になる。当面は、地道な努力を続けていくことになるだろうね」
「そうですか。とはいえ、何をするのかについては教えてくれないんですね。まぁ、いいでしょう。このお話、木村さんしか頼れる人がいないのは事実ですし」
そう言うテンコの隣で、優太も、
「僕も、木村さんにお任せします」
と答えた。
「ありがとう。……あ、でも、僕が死んだ日にテンコちゃんに言った、僕にとって十歳は強くてニューゲームをするようなものだ、って、あの話。あれは、取り消しておくよ」
「おやおや、いきなりの気弱発言ですか?」
テンコががっかりした顔になる。
「いや、違うよ。僕、気づいたんだ。優太君の体で小学五年生をやり直すのは、強くてニューゲームなんかじゃない。『弱くてニューゲーム』なんだ、って」
「え、それって、普通にゲームを始めるのと同じじゃないですか」
もっともな返しをテンコがする。
だが、木村はそれを否定した。
「それがそうでもないんだよ。例えるならば、買ったばかりのゲームを初めてプレーするのと、三十三年前に一度クリアしたレトロゲームをもう一度最初からやり直す違い。これは、どちらも『弱くてニューゲーム』になるんだけど、その二つの決定的な違いは……」
「プレーヤーの経験、ですね」
横から優太が口を挟む。
それに大きくうなずき、木村は告げた。
「そのとおり。確かに、レベルは“1”に逆戻りしちゃうけど、一度クリアしているって現実だけは変わらないんだ。“レベル1”なら“レベル1”なりの戦い方を僕は知っている。つまり、人生において最も大切なのは、経験なんだよ。そもそも……」
「あらあら、たかがゲームのことで人生まで説き始めちゃいましたよ、この人」
熱く語っている木村を前に、呆れた様子でテンコが優太に耳打ちする。
「えぇ。ですが、初めて出会った時より今の木村さんのほうが、何だか自信に充ち溢れているような、頼りになりそうな、そんな気がします」
能弁に話し続ける木村を見つめたまま、優太はそっとそう答えた。
この日を境に、木村は、自らが発見した課題に取り組み始めた。
努力というものは、一朝一夕に結果が出るものではない。続けなければ意味がない。
学問と同じく、体力作りにも、王道などないのである。
地道な訓練をひたすら繰り返す毎日。
瞬く間に三か月あまりの時が流れ、季節は、春から夏へと移り変わった。
ご訪問いただき、ありがとうございました。
今話で第三章終了です。
次回更新は、5月2日(水)を予定しています。
それでは皆さん、楽しいGWをおすごしください。




