第三章 『見えた課題』③
「皆さん、今日はよくがんばりました。それでは、五十メートル走の結果発表です。男子は、圧倒的な速さだった二人、深石優太君と相葉雅志君。女子は、接戦だったけど、如月若菜ちゃんと最上杏子ちゃん。以上が、五年二組の男女で一位、二位ということになりました。今、名前が出た四人は、ずっと先の話ですけど、秋の運動会で紅白リレーの選手をやってもらうことになりますので、よろしくお願いします。これで体育の授業を終わります」
集合した子供たちを前に、そう持田先生が告げる。
そこに、
「ちょっと待った!」
と、雅志が大きな声を上げた。
「どうしたの? 雅志君」
「いや、今日走ったのって、皆、ひとりずつだっただろう? でも、本当は、競争したほうが記録は出ると思うんだよ」
「確かにそうね。それで?」
「だから、最後に走らせてもらえないかな。俺と優太で。事実上の決勝戦ってことでさ」
そう言うと雅志は、木村へとその挑戦的な視線を向けた。
「おお! いいぞ!」
「面白そうじゃないか!」
すぐさま、子供たちから対決をあおる声が飛んでくる。
「皆さん、静かにしましょうね。お口にチャック」
唇にファスナーをつけるような仕種でそれを抑えると、持田先生はたずねた。
「そういうわけで、雅志君からのお誘いだけど、優太君はどうする?」
「い、いや、それは、あの……」
困り顔になった木村がその視線を宙に浮かせる。
すると、彼の頭上で、
「お願いですから、これ以上目立たないでください」
そんな祈るような優太の声と、
「男なら売られたケンカは借金してでも買うものです。やってやりましょう!」
との好戦的なテンコの声が同時に響いてきた。
やがて、意を決した様子で木村は答えた。
「分かりました。僕、走ります」
こうして、二人の対決は実現することになった。
今も頭を抱えている優太と、先制攻撃とばかりに雅志にグーパンチしようとしている危険な天使はその場に残し、木村がスタートラインへと向かう。
スターターは、先ほどと変わらず持田先生。記録係は、俊足の女子二人、若菜と杏子が任された。
同じスタートライン上に並ぶ雅志を、そっと横目で木村が見る。
高校を中退して以来諦めていた、いや、忘れてさえいた“誰かと力を競い合う”ということ。“全力で何かにぶつかる”ということ。
もちろん、ここは小学校のグラウンドで、今はただの体育の時間だ。陸上競技場でもなければ、県大会決勝の舞台でもない。
だが、それでも木村は構わなかった。“生きている喜び”というものを、彼は、すでに死を迎えた今になって、久方ぶりに全身で感じていたのである。
「ん? 何だか、楽しそうだな」
木村の視線に気づき、雅志がそう聞いてくる。
「うん、とっても楽しいよ。誰かと一緒に走れる。それだけでわくわくするんだ。雅志君、こんな場を作ってくれた君に感謝している」
「そうか、それはよかった。でも、感謝されたからって、負けてやるつもりはないからな」
雅志は余裕の笑みを浮かべた。
「それはこっちの台詞だよ。君に感謝はしているけど、勝負とは別の話だ」
いつもの儀式をしながら、木村も笑って見せた。
「それでは、雅志君、優太君。準備はいい?」
持田先生が二人に問う。
「はい」
と木村が答え、雅志もうなずいた。
「位置について、……用意、……ドン!」
持田先生の旗が上がる。二人は同時に飛び出した。
「優太、がんばれ!」
「相葉ちゃーん!」
本日一番の声援が、グラウンドに響き渡る。
序盤で抜け出したのは、木村だった。低い姿勢からスタートし、ぐんぐんと加速していく。
とはいえ、当然雅志も負けてはいない。先ほどよりも短い距離で、その身をトップスピードに乗せた。
両者の差は、僅か三十センチメートル。
ここで木村は、迫りくる雅志を引き離そうと、前傾になっている上体を起こし始めた。
上体の安定は、走りの安定。これは、スプリンターの基本だ。そして、その時こそ彼がトップスピードへと移る瞬間なのである。
ところが……、
「え?」
思わず木村は、違和感を口に出した。
上体が起き上がってこないのである。
それは、例えるなら我武者羅に働く下半身を、「何をそんなに張りきってるんだ?」と冷めた目で上半身が見ている状態。ひとつの体であるにもかかわらず、まったく協調性なく、上下がばらばらになってしまっているのである。
そのような中で、なおも走り続けようとするとどうなるか?
それは言わずとも知れたこと。ゴールまでまだ二十メートルを残す付近で木村は、背中を押されたドミノよろしく前のめりに倒れた。
「ゆ、優太君!」
血相を変え、ゴール地点から若菜が駆け寄ってくる。
「怪我してるよ!」
膝から流れている血を目に留め、彼女は激しくうろたえた。
「平気だよ」
若菜を心配させまいと、慌てて木村は立ち上がった。
「でも、退院したばかりなのに……」
「大丈夫だって」
木村がすりむいた足をふって見せる。
そこに持田先生がやってきた。
「優太君、大丈夫だった……って、あ! 怪我してるじゃない」
若菜と同じく、彼女も心配そうな顔をする。
「平気です」
木村は、怪我した足を再度ふって見せた。
「そう、よかった。だけど、念のために保健室で診てもらったほうがいいわね。あ、膝についた土は、きちんと洗い流してから」
「はい、そうします」
返事をする彼の耳に、遠くから杏子の声が聞こえてきた。
「相葉雅志君の記録、……七秒八九です」
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次回更新は、昭和の日。4月29日(日)を予定しています。




