第三章 『見えた課題』②
「それでは、始めましょうか。出席番号一番、相葉雅志君」
持田先生の呼びかけに、ひとりの少年がすっと立ち上がった。
そのとたん、子供たちから大きなざわめきが起こる。
「何だ? 何があった?」わけの分からぬ木村が、きょろきょろと周囲を見回していると、それに気づいた優太が彼に教えてくれた。
「雅志君は学年で一番の俊足なんです。それで……」
「なるほど」返事の代わりに、木村は小さくうなずいた。
つまり、初っ端から注目の走りが見られる。それで騒がしくなったというわけだ。
ならば、先ずは“最近の子供”とやらのお手並み拝見といこうではないか。
いつになく真剣な眼差しで、木村は雅志を見つめた。
雅志がスタートラインに立つと、先ほどのざわめきは声援へと変わった。
「雅志君、がんばってー」
「相葉ちゃーん!」
女の子からの応援がやけに目立つ。
一部の例外はあるものの、往往にして、スポーツマンはもてるものなのである。
「……いいなぁ」
若いころはスポーツマンだったにもかかわらず、一部の例外でもあったためもてなかった木村は、うらやましそうにつぶやいた。
大きな旗を持った持田先生が、スタート地点で雅志に聞く。
「準備はいい?」
「いつでもいいよ」
さすがは学年一の俊足。余裕だ。
持田先生は告げた。
「位置について、……用意、……ドン!」
旗が上がると同時に、雅志は疾風が如く駆け出した。
前半二十メートルほどでトップスピード。そのまま一気にゴールラインまでを走り抜ける。
結果は……、
「相葉雅志君、八秒二三です!」
五十メートル先から、若菜の声が届いた。
「す、すげー!」
観客として見ていた子供たちから、大きな称賛と拍手が巻き起こる。
「そんなに、すごい記録なんですか?」
騒ぎに乗じてテンコが問うと、木村はうなずいた。
「うん。四月の今の時期だと、その辺の中学一年生相手だったら勝っちゃうくらいの記録だね」
「え? じゃあ、小学五年生にしてすでに中学生レベルってことですか? すごい! でも、木村さんは、そんなに驚いていないようですね」
「まぁ、ね。確かに、十歳のタイムとしては悪くないけど、圧倒的かと言われるとそこまでじゃないんだ。何とかなるんじゃないかな」
そう小さく笑って見せる。
そんな彼の笑みに、嫌な予感を覚えて優太が言った。
「木村さん。まさか、雅志君に勝とうと思っているんじゃないですよね? やめてくださいよ」
しかし、木村からの返事はなかった。じっとスタートラインを見つめる彼の表情は、今、陸上を楽しんでいたあのころに、完全に戻っていた。
雅志のあとは、八秒台後半から九秒台前半の平均的な記録がしばらく続いた。
十五分後。
「深石優太君」
待ちかねていたその名が呼ばれると、
「はい」
木村は、元気に立ち上がった。
「おい、優太。お前、走って大丈夫なのか?」
彼が入院していたことを知る同級生が、心配そうに声をかけてくる。
「ありがとう。平気だよ」
にこりと笑ってそう返すと、木村はスタートラインへと向かった。
ライン上で一度深く呼吸をする木村。
すると、今度は持田先生が声をかけてきた。
「優太君。退院したばかりなんだから、無理はしないでね」
「はい、大丈夫です」
そう答えながら木村は、優太を気遣ってくれる人たちがいることに心から感謝した。
おもむろに、五十メートル先のゴールを見つめる。
そこでは若菜が、こちらに向かって大きく手をふっていた。
そうなのだ。忘れてはいけない。彼女もまた、優太のことを想ってくれている人のひとりなのである。
「優太君は、本当に幸せ者だな」胸の内にて密かにそうつぶやくと、ここで木村は、ゆっくりと首を回し、ぶらぶらと手足をふった。それから、軽く二度ジャンプをする。優太になっても変わらない彼の緊張を解す儀式だ。
「準備はいい?」
そう持田先生が問う。
「はい」
「……位置について」
木村は、ライン上に真っ直ぐに立った。
「……用意」
ここで利き足である右足を下げると同時に、逆足に全体重を移す。その際、利き足はいつでも地面から離せるよう意識しておくのがポイントだ。そして、その状態でしっかりと静止する。
「ドン!」
持田先生の持つ旗が上がると同時に、木村は逆足を支えにしてそのまま前方へと体を倒した。
必然的に、転ぶのを避けようと利き足が前に出る。続けて、その足を軸として今度は逆足を前に。
八百メートル走やマラソンといった中・長距離でのスタンディングスタートとは異なるが、これが、短距離走“かけっこ”における、理想的なスタートの方法なのである。
木村は、低い姿勢から風を切るように飛び出した。
そこから、徐々に上体を起こしてトップスピードへと移行。本来、五十メートル程度ならば小学生であっても無呼吸が基本なのだが、それでは優太の体が保つまいと、彼は意識的に呼吸をした。
そして、最後に大きく胸を反らして、ゴール!
息を整える間もなく、木村は若菜にたずねた。
「タイムは?」
「は、はい」
若菜がストップウォッチを確認する。
ところが、
「え? ……嘘」
表示されたデジタル数字に目を落としたとたん、彼女の動きが止まった。
「おーい! 如月! 優太の記録は?」
遠くスタート地点のほうから、雅志が催促してくる。彼も、今の走りは普通ではないと気づいたのである。
耳に入ったその大声に、はっとした様子で若菜は告げた。
「深石優太君の記録、八秒〇七です!」
「は、八秒……〇七」
彼女の宣言を聞いた子供たちから発せられる、潮騒のようなちいさなつぶやき。
しかし、すぐにそれは、
「八秒〇七!」
と、大波が押し寄せるようにグラウンド中に響き渡った。
その声は、先ほど雅志の記録が伝えられた時に起きた称賛とは異なり、ただただ驚きから出た言葉という様子。去年までは平均的なタイムの優太だったのだから、それは当然と言えば当然であった。
あまりの大記録に誰もが、
「八秒〇七」
との数字しか口に出せなくなる。
だが、そんな中で当の優太である木村だけは、
「まぁ、こんなものかな」
とさらりとつぶやき、元いた場所へと歩き出した。
「すごいじゃないですか! 木村さん、恰好よかったですよ!」
テンコが興奮覚めやらぬといった感で声をかけてくる。
その横では優太が、
「責任取って下さいよ」
と、恨めしそうな目を向けている。
「ごめん。昔を思い出して、ついむきになっちゃって……」
木村は、申し訳なさそうにその身を縮めた。
「まぁまぁ、いいじゃないですか。木村さんが出してくださった結果は、“コーチが直接教え子を動かす”という今回の作戦が正しかった何よりの証拠になるのですから」
がんばった木村をテンコがフォローする。
これには優太も、
「そうですね。仕方ありません」
としぶしぶ納得した。
その後も五十メートル走は出席番号順に続いたのだが、結局、木村の記録を上回る者は最後まで現れなかった。
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次回更新は、4月26日(木)を予定しています。




