プロローグ
プロローグ
時は、春の盛り。三月末日。木村拓未は、自殺の直前である。
進学や進級を控えた少年少女は春休み。街中へと目をやれば、表通りは私服の若者で溢れている。そんな彼らに触発されてか、照りくる日差しは麗らかで暖かく、吹き抜ける風も爽やかで心地よい。
だが、そのような日和なのに、木村拓未は、自殺の直前なのである。
現在、木村は、街からずっと離れた切り立った崖の上にいる。サスペンスドラマのクライマックスに登場するような、柵はおろかロープさえ張られていない安全対策ゼロの崖の上である。
崖から遠く先を眺めれば、一面に広がるのは穏やかな海。水平線の手前には一隻の貨物船が、何処とも分からぬ異国を目指して航行している。
一方、近く眼下に視線を移すと、そこには、先の鋭く尖ったいくつもの岩が、寄せては返す波に合わせて、現れては消えを繰り返していた。
崖から岩までの距離は、少なく見積もっても三十メートル。一般的なビルでは九階以上に相当する高さだ。何も考えず、ただ身を投じさえすれば、沖の貨物船が向かう異国よりも遥か遠くにある場所へと旅立つことができるだろう。
木村は、おもむろに崖の先端に立った。もはやジャケットではなく、ぼろ布と表現したほうが適切であろう上着が、風に煽られる。この世に生を受けて以来、ずっと海のあるこの土地に住み、大好きだったはずの磯の香なのに、今日はやけに生臭く感じた。
見下ろす崖下の岩々が、「おいで、おいで」と彼に手招きをしている。
わざわざ呼ばれずとも、木村の心はすでに決まっていた。
この場所で、人生の幕を下ろすのだ。
木村は、静かに両眼を閉じた。
「次に人として生まれてくる時には、どうか、世界で一番好きと言ってくれる誰かが、僕の前にも現れますように……」
存在さえ確認したことのない神に向かってそう祈る。
そして、その言葉を最後に、彼は自らの体を崖の先へと投げ出した。
……ところが、
「あ! ちょっと待ってください!」
大いに慌てた少女の声が後方から聞こえ、同時に、木村の体がぐいっとそちらに引かれた。
「う、うわっ!」
子供だとは思えぬ怪力で、抗う術なく引き倒される。
ドスン、と、尻もちをつく木村。その直前、彼は、崖の向こう側へと消えて行く“自分の姿”をはっきりと見た。
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次回更新は、3月24日(土)を予定しています。