宮に初めて参りたる
夫が家に就かなくなって数年経った頃、私の元へ中宮様の仕官の話が舞い込んだ。
中宮様は文学に秀でていらっしゃる。私の父の名声を便りに声をかけてくださったのだろう。
父は和歌の名手である清原元輔。歌集の編纂に携わるなど、父の名は都にも知れ渡っていた。
父の名を借りての話であったが、父の死後は夫も寄り付かなくなってしまったし、めっきり侘しくなった家と宮中での華やかな生活を秤にかけると、その天秤は女房の仕官へ傾いた。
宮では父の姓にあやかって清少納言と呼ばれている。
齢も30を前にしているが、中宮様のお側できらびやかな宮中生活。
この機を頼りに私の人生はこれから華やいでいく。
ーーはずだった。
* * *
「あれ? 少納言はどこに行ったの?」
おどけた声で女房が声をあげる。
他の女房も知ったようなそぶりでこちらにチラチラと目を配らせながら笑っている。
私は几帳の隙間から覗くのをやめ、へたりこんでしまった。
中宮様に出仕して数日。宮の世界は分からないことだらけで気後れをしてしまった。
中宮様に仕えている女房達は皆若くて気品に溢れている。
憧れに任せて女房の世界に飛び込んだけど、年増の身だしなみも冴えない私が入るところではなかったと物怖じして、今日も几帳の裏に隠れて涙を耐えている。
昼はとてもじゃないが顔も出せず、夜な夜な出仕しては几帳の隙間から部屋を覗いている。
燈台の灯りしかない薄暗がりの部屋だけど、洗練された女房達や細部にまで趣向を凝らした調度品の数々がまるで絵画の世界を覗いてるような不思議な気持ちにさせている。
自分が場違いな所にいるようで気恥ずかしい。
女房の仕事に馴染めず、他の女房達の嘲笑が胸に刺さる。
「清少納言、こっちに来て」
うずくまって自分の決断を後悔していたとき、中宮様の私を呼ぶ声が聞こえた。
いつのまにか夜もふけて女房達は局に戻ったらしい。
人の気配の無いのを頼りに几帳を開くとそこには誰もおらず、中宮様のいらっしゃる御簾の中だけうっすらと明るくなってるのが見える。
「こっちに来てったら」
再度呼ぶ声に導かれて私はどうしたものか思案したが、決心をして几帳をくぐり中宮様の前に座った。
中宮様は手元にあった絵を取り出しては
「この絵はね、祖父が紀伊に行った時に描かせた絵でね、で、こっちはーー」
私のこれまでの態度には一切言及せず、あれこれと絵の話をしてくださった。
燈台の灯りが近くにあるせいで自分の顔もはっきりと見られるだろう。
恥ずかしくて顔を伏せていたい。
それにしても絵を持ってきて解説をする中宮様の、袖から見え隠れする手が美しい。
柔らかそうな、白いなかに薄紅をさしたような手に気が行ってしまい、絵にも中宮様の声にも集中できなかった。
どれだけやりとりをしたのだろう。と言っても中宮様が一方的に話を投げ掛けてくださるだけだったのだけど、いつの間にかほのかに部屋が明るくなってるのに気付く。
いつの間にか夜が明けたみたいだ。
早く局に戻りたい! 中宮様は今もあれこれと話をふっていたのだけれど
「ふふ。葛城の神も今日くらいは残っててもいいでしょ」
とおっしゃってきた。
葛城の神は自分の容姿を恥じて夜しか働かなかった神。今の私をかけているのだろう。
中宮様の明るく透き通った声を聞くと自分の声はカラスのようでなにも発することができない。
単にかかる艶やかな髪。薄紅梅のさしたような手。琴を弾くような綺麗な声。
幼い頃より憧れていた宮中での生活。でもいざその場にいると自分の醜さに押し潰されてしまう。
「少納言……」
うつぶせに顔を隠してる私に中宮様の声が近づいて来る。
自分は隙間からでも顔を見られないようさらに顔を隠した。
燈台の灯りで髪の毛の一筋一筋がはっきりと見られてるだろう。それすらも恥ずかしい……
「宮様、外は白んで来てますよ。格子を開けましょう」
夜が明けて女房達も戻ってきてしまった。中宮様のおっしゃる通り、私は葛城の神。格子を開けて明るいなかに晒されると恥ずかしさで悶えてしまう……
「まだ開けちゃダメよ!」
中宮様がお引き留めなさる。
「中宮様?」
「あぁ、少納言が一緒に」
「なるほど」
女房達の声が聞こえる。笑い合い、足音が遠ざかる。
「かしこまりました。よろしければお声をお掛けください」
話し声が去っていく。
「わかりました、清少納言。今日は明け方まで相手をしてくれてありがとう。もう下がってよいですよ。また夜になったらいらっしゃい」
中宮様の心づかいも知らず、私はコクコクと頷き局に戻った。
私が戻ったのを確認すると女房たちがあわただしく入って行き、格子を開ける音がする。
外は雪が降っていた。