第二幕
「はーい、お待ちどうさまー」
ドスン、と給仕の娘は両手で持っていた酒樽をテーブルへと置くと愛想笑いを崩す事こそ無かったが他のテーブルの客たちの対応に追われているのだろう、忙し気にアルミシアたちのテーブルから離れていった。
王都から遠く離れた田舎の領地とは云え、やはり人間が集い暮らす街というモノは人の営みに合せ混み合う場所や刻限と云うモノがあるようで……日暮れも近いこの時刻、小さな街『ロンブル』の安宿の一つ『豊穣の稲穂』亭のさして広くもない店内は泊まり客や外食に訪れた客たちで賑わいを見せていた。
「半月近くも領内を彷徨った挙句、ただ働きってのは……そりゃねえよ大将……」
店内の喧騒に掻き消える程小さく、情けな気な男の声が右隣の席から漏れ聞こえてくるがアルミシアは敢えて聞こえなかった風を装い、無視してる訳ではないぞ、とばかりに自然に……いやかなり意識的に身を乗り出してテーブルに置かれている酒樽から自分の杯へと酒を注ぐ。
「ヴォルフ……団長の決定に逆らうの……良くない……」
今度は左隣からぶっきら棒な男の声がヴォルフを諫める。
何処か舌足らずな、言葉数が足りぬ男の言葉は教養の無さを抱かせるモノではあったが、アルミシアはそれが大きな誤解である事を知っている。
左隣で酒を酌み交わす男……屈強な大男の名はグレゴリオ。
アルミシアが平均的な女性の身長と比べてもやや小柄である事を加味してもゆうにその倍以上はあろうかと云う巨体を筋肉の鎧で覆われたグレゴリオの体躯は浅黒い肌の色と相まって威圧感を放ち、その頑強さゆえに相対的に知恵が回らぬ印象を与えがちだがそれは大きな間違いである。
アルミシアを始め大陸に住む大半の者たちが話す共用語とは別にそれぞれの地方には特殊言語というモノが存在し南方出身のグレゴリオはそれが母国語であった……云わば今のグレゴリオはそれをアルミシアたちに合わせて共用語へと訳して発音しているに過ぎない。
語釈の少なさや発音に違和感が生じるのはそのせいであり、寧ろ二言語を習得しているグレゴリオの教養の高さはそれだけでも推して知るべきであろう。
どちらかと言えば、とアルミシアはちらりと横目でヴォルフを見る。
アルミシアの右隣で自棄酒を呷る男の名はヴォルフ・ルービング。
此方はグレゴリオとは対照的にすらりとした長身の優男であり、一見して見れば荒事を家業とする傭兵と云うよりは黙っていればどこぞの貴族の子弟と云われても信じてしまうだろう優男である。
切れ者然としたヴォルフではあったが寡黙なグレゴリオと比べ見て、アルミシアがもし何方が頭のネジが飛んでいるか、と問われれば答えは考えるまでもない。
「ただ働きじゃないさ、彼女たちには金を貸してやっただけで、倍にして返すって約束になってるだろ」
「期限も定めてない……契約書すら交わしてない口約束に意味なんてないでしょうに」
グレゴリオに話を戻された為にしかたなく答えたアルミシアにヴォルフは呆れた口調で反論するが、アルミシアの人となりを知るだけにヴォルフの方にも本気で責めている、という雰囲気は見られない。
「団長がああしなければ……女たち……きっと死んでた」
グレゴリオの言葉にヴォルフは反論する事なく黙って酒を呷る。
大陸全土を統治していた帝国の支配が終焉を迎えてから四年……長らく続いた大戦の戦禍ゆえに現在では解放された諸国間での争いは皆無と言って良い程になりを潜めている……しかしその反面、大陸全土に散らばった帝国の残兵たちは盗賊化、野盗化し街道に出没し略奪の限りを尽くすそれらの被害は現在の大陸に深刻な情勢不安を齎していた。
小さな村々が盗賊に襲われ、金品を奪われた挙句、女たちは犯されて売り飛ばされる……そんな事例は今や珍しい話では無くなっている。
アルミシアが見ただけでも彼女たちの中には激しい暴行の末に片目の視力や聴力を失っていた者たちがいた……盗賊たちに奴隷が如く嬲られ続け犯され続け……その末に売春宿に売られた彼女たちがそれでも自由を得る為に身体を売り続けて来られたのは……絶望の底で死を選ばなかったのは、ただただ復讐を果さんが為……その日を夢見て、その日の為だけに泥水を啜ろうと生き抜いて来たのだ。
ならばそれを成してしまったら……。
「仇なんて討ったって死んだ人間は帰っちゃこないし、憎しみが晴れるなんて事もないだろうに」
「ヴォルフ……それは違う、理不尽に奪われたのなら奪い返せばいい、全てを同じ様に奪ってやればいい……何事も等価交換ってやつさ、少なくとも彼女たちにはその対価を求める資格があった」
死んだ人間は生き返りはしない、憎しみも悲しみも怒りも絶望も癒えることの無い傷となって彼女たちが生涯背負う重荷となる……だからこそ、なればこそ、復讐を果すという通過儀礼は必要であった。
それだけが……ただそれだけが、彼女たちが自分と云う存在を許せる……認める事が出来る確かな証であったのだから。
報酬として受け取った金の全てをアルミシアは彼女たちに渡していた……それは只の金ではない、彼女たち自身が身を削り血を流して得たモノだ……だからこそその金で彼女たちが未来に生きるのか……それとも過去と共に消えるのか……その答えは彼女たちにしか分からない。
結局のところ最後に選択するのは彼女たち自身なのだから。
だがアルミシアはそれで良いと思っている……あの時自分が手を差し伸べていれば……などと思う事自体が傲慢で不遜というモノだろう……人の無力さは嫌という程味わってきたし経験としてアルミシアは知っている。
「辛気臭い話は……まあ置いといて」
と、妙な場の空気を読んだのだろうか、ヴォルフが大げさな仕草で周囲を見渡す。
賑わう店内……しかし明らかに客層は偏りを見せている……端的に言えば明らかにがらが悪い。
この四年で変わったのは何も盗賊たちの問題だけではないのだ……大戦で衰退した諸国の政策はより内向きとなり、国としての統制が弱まった各国内では僅かな利権を求めて領主たちが小競り合いを繰り返している……こんな地方の街がこれだけの賑わいを見せるのも一重にそうした世情ゆえ……。
盗賊による治安の悪化……領主たちによる相次ぐ小規模な戦闘。
一山幾らで雇える傭兵たちの需要は爆発的に高まり、時代は大きく変わろうとしていた……傭兵たちが己が力を世に示し覇を競う動乱の時代へと……。
「なあ……昔の方が良かったと……」
最後まで綴られぬ言葉……誰に問うでもなく消えゆく言葉。
アルミシアの表情は寂しげで……何処か懐かしむ様な風情はとても十五、六の少女とは思えぬ老成したモノで――――。
「生き残ってる俺たちがたった四年で答えなんて出しちまったら、死んでいった連中に申し訳が立たないじゃないですか」
茶化す事もなく真っ直ぐに自分を見つめるヴォルフの眼差しにアルミシアはふっ、と口元を緩ませる。
これは終わってしまった物語……夢の残り香。
――――それでも……。
「止めだ止め――――酒が不味くなる、明日から仕切り直すぞ、この街でたっぷり稼がせて貰おうか」
「俺……一杯頑張る……一杯殺す……」
言葉足らずな上に巨体を誇るグレゴリオでは文字通り洒落にならない物騒な合いの手に周囲の男たちはぎょっとした様に振り返っている。
周りの反応が可笑しかったのか、或いは窘めようとしたのか、グレゴリオの背をばしっ、と叩き笑う少女の表情は屈託なくだがそれは歳相応のモノであった。