第十幕
後年アルヴィンは記す――――その日こそが運命を別つ分岐路であったのだ、と。
大方の予想に違わず、一定の成果と戦果を挙げた討伐軍の帰還に湧くロンブルの街の一角で、今や宿屋の主人から上客の一人として認知されていたアルミシアが泊まる『豊穣の稲穂』亭の二階の一室にアルヴィンの姿があった。
貴族がお忍びでも憚られる場末の安宿に、まして領主の嫡子が訪れるなど異例中の異例である事は言うまでも無い……それを踏まえた上で敢えて補足するならば、この事実が公にでもなればちょっとした騒ぎに発展するだろう事も、その事が決して利に成らぬ事を承知でこの場に赴いたアルヴィンの決意の程だけは察する事が出来ようか。
とは言え、自身の私室の物置よりも狭い室内に五名の男女が集まる事で生じる閉塞感と圧迫感にアルヴィンがやや表情を引き攣らせていた事は致し方が無い事ではあったのだろう。
防音、などと云う気の利いた設備などがあろう筈の無い薄汚れた木の壁は、会話の内容を遮る事も無く隣室へと届け……しかし現在二階に部屋を取っている連中は漏れなく下の酒場で馬鹿騒ぎに興じていた為にこの密談を耳にしている者は幸いにして他には居ない。
己の今後を左右する重要な話し合いの場がこの様な薄汚れた宿屋の一室である事や、他に漏れれば大事となる密談の内容に対して配慮や頓着を見せないアルミシアたちの不用心さに、内心で抱く焦りや苛立ちをアルヴィンは押し隠していた。
それでも狭い室内の片隅で旅支度を整えられていた荷物の存在が、もし先延ばしにしていれば彼らが早々と街を離れていたであろう、と云う事実こそが、貴族同士の駆け引きとはまるで異なる傭兵相手の交渉に際して、直接赴いた事への後悔だけは抱かずに済んだ大きな要因となっている。
「ふーん」
と、アリバールの心を動かした演説めいた熱の籠った説得にも、アルミシアは然したる感銘を受けた様子も見せずただ一言そう呟いた。
「旦那……大将と知り合った事で多少なりと傭兵ってモンを理解したつもりになってる様ですけどね、まだまだ本質的な部分を分かってないんですよ」
寝台に腰を下ろし、細い素足をぱたぱたと振っている……退屈な子供が見せる仕草そのままのアルミシアに代わり窓際の壁に背を預け話を聞いていたヴォルフが代弁するかの様に口を開き……しかし浮かべている表情はお世辞にも好意的とは言い難い。
「成程、要は傭兵を組織化して力を持たせ、自分は背後から後援者として利潤だけを掠め取りながら、いざとなれば責任を幾らでも免れる事すら出来る都合の良い駒が欲しい、と……でもね旦那、その手の考え方を持つ連中がこれまで居なかったと思わない方が寧ろ不自然じゃないですか?」
斬新な発想でも……まして革新的な思考でもない、と暗に言葉尻に匂わせるヴォルフの言葉には世間知らずな貴族の坊やを茶化す様子が見られ、主を見下すかの如き振る舞いを前にアリバールは鼻白むが……目配せを送るアルヴィンに制され自重する。
此処で感情的に行動しては全てはご破算……話し合いは決裂する。
交渉に際して人を食った様な態度を崩さない傭兵たちに対して同じ土俵に乗る事自体が負けなのだ、とアルミシアを通してアルヴィンは学んでいる……失態を犯す事は愚かな事ではあるが、それを正さず、学ばず、繰り返す事の方が遥かに無様で愚かな事なのだ。
ふーん、とアルミシアの呟きが耳元に届くが、それが如何なる感情からのモノなのか……までは流石にアルヴィンにも分からない。
「商人たちが東西に分かれたとは言っても組織化に成功した大きな理由には、一重に利益を追求するっていう商人たちの性質が、金って云う目に見える確かなモノがあってこそでしょ……それを傭兵に置き換えるっていうのなら、まあ、力って事になるんでしょうけど……」
明確に数字化出来る金とは違い、力の在り様などそれこそ多種多様、何を持って力とするかなど個々人に寄って感じ方も抱き方すら異なるモノ、とヴォルフは語る。
「大陸の中央辺りに行けば盗賊連中だけじゃない、傭兵の中にも『ネームド』なんて奴らは巨万と居ましてね……そんな連中の中には地方貴族なんてもんじゃない、国の重鎮なんかとも宜しくやってる奴らも少なくないんですよ、理解してます?」
傭兵が組織として一つに纏まらないのは受け入れる器の問題なのではないのだ、と。
単に必要性が無い、力を誇示する多くの者たちにとっては寧ろ鳥籠の如く煩わしいモノでしかないのだ、と。
アルヴィンに対してヴォルフは突き付ける。
「まあ……溢れ者を集めてお山の大将ごっこでもやりたいのなら良いんじゃないかな」
この手にとまれ、とばかりに腕を上げて指を指すアルミシアの姿に、交渉の決裂を見たアリバールは唇を噛み締めアルヴィンは――――嗤う。
「どうやら勉強不足であった事は認めよう……お山の大将か……しかしならば……尚の事、お前たちは俺に協力すべきではないのか、口ではどう言おうが所詮貴様たちこそが中央では生き残れぬ、『ネームド』にすら成れぬ負け犬の溢れ者ではないか、そんなお前たちを俺は飼ってやろうと言っているのだぞ」
瞬間、アリバールの背筋に冷たい汗が流れる。
安い挑発……しかしそれがこの鬼の子を前にして如何なる意味を持つのかをアリバールは理解していた……払わされるであろう対価を……。
アリバールは主だけでも逃がそうと、咄嗟に前にでる――――が、何も起こらない。
ぷっ、と噴き出す様に漏れる少女の吐息……そして――――。
「あはははははははっ……くくっ……あははははははっ」
くの字に身を屈め、苦し気に目に涙を溜めたアルミシアの笑い声だけが、刹那静まった空気に浸透する様に響き渡り……そんなアルミシアの姿を前にヴォルフはまた始まった、とばかりに溜息を付き、グレゴリオは無言のまま頷いている。
それが果たしてどの様な心境の変化ゆえなのか、アルヴィンには分からない……しかし確実に場の空気が、流れが変わった事だけは誰の目にも見て取れ……。
危うい賭けの、勝負の先……。
「そうだね……少し愉快だよ……丁度良い暇潰しには……くくっ……良いかもね」
暫しの間、波が過ぎ去るのを待っていたアルミシアは……やがて笑いを噛み殺し呟く。
ただし条件がある、と付け加え。
「――――今なんと?」
「だから私が飽きるまで、とこの条件が飲めるなら協力しても良い」
アリバールが信じられぬとばかりに聞き返し、アルミシアは平然とそう答えて見せる。
飽きるまでなどと……そんな出鱈目な条件などあって堪るか、とアリバールは怒気を隠す素振りすら見せずアルミシアを睨む。
一方的な主観のみで契約を、約束を反故に出来るそんな条件など不平等などと呼べるモノですらない。
「いいだろう……要は俺がお前を飽きさせねば良いだけ……そう云う事であろう?」
「理解が早い男は好きだよ」
理解が及ばない……一皮剥けた……いや、誤った方向にアルヴィンは舵を切ったのではないのか、とアリバールにはそう思えてならない。
一抹の不安どころではない……何故ならその元凶が、要因が、先程までの無邪気さとはまるで異なる嫌な笑みを湛えた少女の存在が、否応なくアリバールの不安を搔き立てるのだ。
鬼の子は嗤う。
なら派手に往こう、と。
最短で往こう、と。
古来より悪魔と契約を交わした者の末路は相場が決まっている。
遠くはない何時の日か、主の為にこの鬼の子は討たねばならぬ……そんな日を予見したアリバールの額から冷たい汗が流れて落ちる。
それがどの様な感情から齎されたモノなのか……少なくともこの場でそれを理解出来たのはアリバール本人だけであった事だけは間違いない。