英四朗、罷り越しまして候 (4)
門を潜り、宗右衛門の道場前庭に足を踏み入れると、紅卯はその光景に咄嗟、感嘆の声を出しそうになった。
高木の類は一本も見当たらないが、種々の低木、草花が所狭しと植え込まれ、それも決して雑然とではなく、整然と庭を飾っている。
宗右衛門が言っていたように、まだ春まで間もあるというのもあり、もっぱらつぼみをつけた姿ばかりだが、所々に早咲きしているものもあって、これはこれでまた風情であった。
「はあ……いや、これはなかなかだ。ここに来る手前で眺めていた土手の鬱蒼とした樹々の有り様も、低い川と高い樹木の対比で面白くも美しい景観だったが、これだけ徹底して低木のみを庭全体に配するとは……」
言いながら、紅卯は道場などに目もくれず、庭を眺め歩く。
本格的な手入れには程遠いが、それなりに手を掛けてあるのが良く分かる。その証拠に、植込みには雑草がほとんど生えていない。
ツヅミグサ(タンポポ)がたまに抜き忘れたかの如く生えているものの、これは意図して残しているようにも思えた。
「うん、期待をしていなかった分、思っていたより壮観だね。ヒラドツツジにサクラソウ、シドミにレンギョウ、ジンチョウゲ……ふむ、手入れもそこそこに行き届いているし、悪くないな」
「あははっ、そんなに褒められましてもぉ、何か嬉しかったり恥ずかしかったりぃ、変な感じぃがするですよお」
遅れて、紅卯のところまで来た宗右衛門が邪気の無い笑顔で喜びを口にしたが、紅卯に蹴られた右すねの痛みはまだ引かないらしく、しきりに身を屈め、袴の上から足をさすっている。
これへ、(私は庭を褒めたのであって、あんたを褒めたんじゃないよ)などと、胸の内で思ったりしているのだから、この紅卯という医者の人間性はやはりどこかしらが捻じ曲がっているようだ。
とはいえ、腐っても大身旗本が嫡男の足を蹴り飛ばすなど、相手が如何に本身を所持していないと分かっていても、普通は出来るものではない。
特に相手が片手で軽く自分を担ぎ歩けるほどの力丈夫だと知っていればなおさらに。
単なる怖いもの知らずなのか、それとも度胸が据わっているのか、または自分の命に頓着が薄いのか。
ともかく、紅卯が嬉しがる宗右衛門をまったく無視し、庭の観賞を続けていたことは確かである。
何といっても紅卯も、宗右衛門とは毛色こそ違うが、自分の興味を惹く事物に遭遇すると他のことが目に入らなくなるという共通した性質ゆえに。
「お、レンギョウとジンチョウゲか……薬に使えるな。少し摘んでいきたいが……」
「駄目ですよお。私が頑張って育てたお花なんですから、切ったり摘んだりとかするなんてぇ、可哀そうだし困るんのですぅ」
「別に根っこからすべて抜こうというんじゃない。レンギョウは実だけでいい。あ、でもジンチョウゲは花が必要だから、少し待って咲いた頃にでも花だけ……」
「だからぁ、駄目なんですよお」
「……ケチくさいやつだな……」
自分のしたことは棚に上げ、紅卯は軽く悪態をつく。
と、そんな他愛も無い会話をふたりがしていたその時、
「花さん、花畑さんよお」
不意にどこかから男の声が聞こえてきた。
咄嗟、紅卯は何かと思い、声のしたほうへ体ごと視線を向けたが、
「あー、与吉さぁん。こんちわぁです」
知らぬ間、先に声の方向を見るどころか、その場所まで移動していた宗右衛門を見、紅卯は時間を錯覚したような妙な気分になったものの、すぐまともに動き始めた頭を使い、何が起きているのかを確かめる。
見ると、どうやら見知らぬ男が道場の板塀に空いた大きな隙間から顔を覗かせ、声を掛けてきているようであった。
男は見たところ近所の百姓らしく、歳は四十絡みで小柄な体躯。腕まくりした筒袖の着物に股引姿。まだまだ寒い季節だというのに顔中が汗で光り、首に掛けた手拭いでしきりに拭っている。
それにしても、いくら病で家督を継げなかったといえ、れっきとした大身旗本の嫡男が住む、道場を装った屋敷の板塀がこの有り様とはと、柄にもなく紅卯は宗右衛門を気の毒に感じ、微かではあるが先ほど蹴り上げた足のことを反省した。
「どうしなすったね。今朝は顔を見ねえもんで、どうかしちまったんじゃあと、心配しておりやしたけど……」
「うん。ちょおっと、清兵衛さんが来いって言うんでぇ、向両国ってところに行ってきたんですよお」
「清兵衛さん……ああ、あの堅っ苦しいお侍の爺様かい。そりゃ花さんも気の毒したねえ。あんな小うるせぇ爺様が何かと訪ねてくるんじゃ、気も休まらねえでしょう。しかも向両国ってえと……もしかして茶屋に女か陰間でも買いに行くのへ付き合わされたんでねえんですか?」
「あははっ、私ゃ、どおっちにも興味が無いんですからぁ、呼ばれてぇも行ったりやしないんのですってばあ」
「なあんて言って花さん、そんじゃあ、そこの別嬪さんはどちらさんなんです?」
言って与吉はにんまりと笑い、細めた目で紅卯のほうを見る。
無論、冗談にせよ誤解にせよ、この与吉の言動態度に紅卯が大いに気を害したのは言うまでも無い。
重ねて、これに対して宗右衛門が肯定も否定をもせずに、ただ黙って笑っていただけだったのも紅卯の機嫌をより損ねる原因となった。
そんなこんなで、ふたりはしばらくの間、紅卯を蚊帳の外に置き、どうでもいい話に興じていたのだが、
「あ、そうそう。いけねえなぁ、忘れるとこだったよ。ちょうど今さっきのことだけんど、ちょいっと用事で土手まで足ぃ運んだら、いつもの糖粽売がおったんでさ、花さんにと思って買うておいたよ。そら、ふたっつあるから仲良うふたりで食うたらええさね」
そう言うと、与吉は帯に掛けておいた粽をふたつ、板塀の隙間から差し出す。
「あー、ありがとお。ちょっと待ってえてねぇ。今ぁ、お金を……」
「いいよお花さん、御足なんて、そんな水臭いこと言わなくたってさあ」
「え……でもぉ、それだと与吉さんが損をしちゃう……」
「こんなもんの値なんかぁ、たかが知れてんだから気にゃあしなさんな。それによ、苦しいのはお互い様だでよぉ。知ってんだよ花さん、その『やっとう』が、ほんとは竹光だってなぁ。みんな気ぃ遣って言わねえけんど、ちゃんと分かってんだあよぉ。みんな、花さんも大変だろって……だから、気にしねえで食いなよぉ」
言いながら笑い、与吉は細い藁縄で縛ったふたつの粽を宗右衛門に押し付けるように手渡した。
そうして、
「んじゃあ花さん、また顔出すから、しっかり食って元気だしなよぉ」
言いたいとここ、やりたいことを終え、与吉はそそくさと去ってゆく。
残されたのは、糖粽をふたつ持たされた宗右衛門と、蚊帳の外で勝手な話をさんざん聞かされた紅卯。
特に、紅卯は急のことによく意味が分からず、しばらく無言で考え込んでいた。
ところで、
折良く紅卯が立ち尽くしてくれている間を利用し、宗右衛門と与吉の会話について、老婆心ながら少々の解説をしておこう。
与吉が向両国について話した時、茶屋の話をいたしましたが、これは当時の向両国に多く存在した色茶屋を指しての話。
色茶屋とは、性的な接客を売り物にしていた店。
また、その会話の中に出てきた陰間とは、いわゆる男娼を言い、こちらは同じ色茶屋でも陰間茶屋と呼ばれていたそうな。
江戸時代は現在と比べ、衆道……男色のことであるが、それに対して寛容だったなどという程度ではなく、むしろ盛んであった。
事実、色茶屋や遊郭などで遊ぶより、陰間を買うほうが数割も高かったのである。
疑わしく、もしくは気色悪く感ずる方には余談ついでの余談をば。
陰間茶屋には当時、まだ駆け出しで稼ぎの少ない歌舞伎役者(無論、女形の美童や美男子)が普通に働いていたとも伝えられている。
今の感覚で言うなら、売出し中の若いアイドルと一夜を共にできるのと価値観は同じなわけで、それは値も張って当然だし、客が絶えなかったのもうなずけるのではと、尋ねる次第(ちなみに陰間茶屋の客層は、男女比がほぼ半々であったとか)。
また、余談仕舞いに。
糖粽というのは粽餅に水飴を塗り、茅で包んだもので、古くは鎌倉時代から存在する、当時は一般的な菓子のこと。
さて、話は戻りて。
「せんせえ、糖粽ぃをば、貰いましたよお」
考えを巡らせているところへ、宗右衛門が変わらず呑気な調子で話し掛けてきた。
右手に持った茅の包みをぶらぶらと、ゆっくりした足取りで歩き、近づきながら。
「……嬉しそうで何よりだな」
「はぁい、私ゃ、糖粽は大好物ですものでえ」
答えつつ、嬉しそうにまた包みを揺らす宗右衛門の屈託無い笑顔を見ながら、紅卯は自分で考えるのにもいい加減で疲れてきたため、率直に質問をする。
「時に、宗右衛門さんよ」
「はいぃ?」
「さっきの……与吉とかいう人と話しているのを聞いていて、ひとつ疑問に思ったんだが、何故あの人はあんたのことを『花さん』と呼ぶんだ?」
「あー、それはですねえ……」
そこまで言い、何故か宗右衛門は口を止めた。
代わりに、
すっと空いた左手で庭全体をぐるりと指差して見せ、最後にその指を自分に対し向けながら一言、
「だぁからです」
言ったもので、紅卯は発作的に(どんな謎掛けだ!!)と、軽い眩暈を覚えながら叫びそうになったが、ここは間一髪、宗右衛門の正解発表が早かったため、紅卯は精神の安定を得、宗右衛門は二度目の足蹴りを回避するに至る。
聞けばひどく単純な話だった。
「このお庭、私がたぁくさんお花を植えたもんで、あったかくなると、そりゃあもういろぉんなお花が一度に咲いてぇ、すごいことになるんですけどぉ、それを見に来たご近所の人たちが、『まさに花畑だね』ってぇ、言ったんです」
「あ……そうか、それで『花畑』だから『花さん』……」
考えてみると、近所の住人がそうした呼称を付ける気持ちも分かる。
何と言っても先だって目にした看板。何を置いてもあれが元凶。
単に(字が読める)か(読めない)かという次元のものではなく、(文字だと認識をし、理解するまで正気を保てる)能力を必要とする呪物の一種だ。
しかも冷静に考慮すれば、宗右衛門は本名を名乗れない立場にある。
そこを思うと、もしかすればこうした別称がつけられたことはむしろ良かったのではないか。
清兵衛の望む通り、主家に迷惑が掛からず、宗右衛門も実は大身旗本の嫡男だなどと知られず、静かに生活を営める。
今日、始めて自分のところを訪ねてきただけでも何度か尻尾を出してしまっている点から、あまり清兵衛が巧みな計略を巡らせて実行したとは考え難いが、まあ誰の発案か、もしくは偶然にこうした流れに至ったのかはこの際どうでもいいかもしれない。
大切なのは宗右衛門の治療に適した環境が現時点で整っている事実だけで満足すべきなのだろうと、紅卯は妙に納得していた。
「ご近所の人とかはぁ、ここのことを『花畑道場』って呼んでますぅ。そんで、私のことも『花畑』ってぇ……だぁから、私の名前をみいんな『花畑』だと思っているんですよお。困りますねぇ」
「……あながち、間違っているとも言い切れんがな……」
「そうでしょうかあ?」
「そうさ。少なくとも私は、よくも的確な名を付けたものだと感心すらするね」
紅卯は、(まあ花畑には違いないが、あんたの場合は庭がでなく、あんた自身の頭の中がと付け沿えるけどな)と、腹の中で罵り、声は出さずに心中でせせら笑う。
思い返せば、人攫い紛いで無理やりこんなところまで連れてこられたのだから、この程度の意趣返しは許されるだろう。
第一、当人には何も言っていないのだから。
誰も傷つけずに恨みを晴らす。何とも理想的じゃないかと、紅卯は自画自賛しながら軽く自分の頬を撫でた。
自制はしているつもりだが、気の緩みで顔に考えが出ないとも限らないと思っての、陰湿な用心深さである。
が、そうした必要以上の警戒をする紅卯の心情など知らず宗右衛門は、
「あ、そいえば!」
ふと、何か思い出したように大きな声を上げたところで、
「せんせえ、摘んでも良いもの、ありました!」
付け足し言うや、宗右衛門は武家屋敷などのものに比べれば小さいが、隠宅としては逆に無駄にすら感じるほど広い道場の庭の一角を指差した。
主に低木や丈の高い草花が多いせいで目につかなかったが、よく見ると確かに、その一画だけ他と比べて土が多く露出している。
ということは、その一画で育てているのは収穫を目的に植えているものだということだろう。
「ほんとは見るためのお花しか植えないどこおと思ったですが、どうせ色々と育てるなら、使ったり食べたりできるもんも生やしたほうがいいかもとぉ、思って植えたんが、あそこいら辺にゃあ、伸びてぇおりますよお」
半分、聞き飽きた感のある妙な節回しの宗右衛門の言葉はひとまず聞き流して、紅卯は示された一角に早足で近づいてみた。
すると、
言われた通り。いや、どこまでを言われた通りと解釈するかによるのだが、
なるほど、その一画だけは明らかに所々が摘み取られた痕跡がある。
それもそのはず……かは、これも確認しないと分からないものの、植えられた植物の種類がまさしく他とは異なった。
観賞用ではなく、実用。
つまり食用や染色、薬の原料となる種類のものばかりなのである。
当然、紅卯がこんなおあつらえ向きの話を見逃すはずは無く、早速に物色を始めた。
「そういうことか。厳密に観賞用と区別しているわけではないが、特に繁殖力の強い種類で、それも観賞以外の用途があるものに限って植え付けているわけだな……」
「そおです。放っておいても、どんどん増えるから摘んじゃっても減らないですし、食べたり吞んだり塗ったり張ったり漬けたり、便利なんだけを植えてあるですよお」
「お、七草も揃ってるじゃないか。セリにナズナ、ゴギョウにハコベラ、ホトケノザと……あとはスズナとスズシロ、それに米さえあれば七草粥がすぐに炊けるな」
「そいえば、もう時分時でしょうかぁ。お腹だあって空きますねえ」
「……や、何も私は腹が減ったから七草粥の話をしたのではなく、単に材料が揃っているなという意味で言ったまでで、別に腹が減っているとかそういうことでは……」
「ちなみに七草粥で良かったならぁ、台所の鍔釜ん中にぃ今日の朝ぁ、たあっぷりと私が焚いときましたぁけれども、せんせえは食べるのです?」
突然、変な誘いを掛けられて正直、紅卯は少しく狼狽した。さりながら、
この誘いを断れるほどの余裕があるかとなると、日々の生活にも困っている立場上、食事の誘いは抗し難い。
しかも宗右衛門の言った通り、まさに今は時分時。
腹が減るのが自然な時間。すなわち自然、
「……食べる……」
こういう答えとなるのが、自然。
「んではぁ、与吉さんから貰った糖粽は粥を食べってから、いただきましょうねえ」
そう言って、無邪気に笑う宗右衛門の背中を紅卯はうらめしそうに睨む。
結局、紅卯は苦い粥を苦々しい顔をし、たらふく啜り込むことになった。