英四朗、罷り越しまして候 (3)
向両国から大川を川沿いに少しばかり上ってゆくと、隅田堤という場所がある。
名の通り、元々は川の氾濫を抑えるため造られたものだが、それ以上に風光明媚な花の名所としてよく知られており、千住大橋の手前まで伸びる長い堤は、一段高い位置から川を眺めることのできる公道でもあった。
ちなみに、竹町の渡しを過ぎて隅田堤まで至ると、川の呼び名が大川から隅田川へと変わる。
隅田堤に入ると上流に向かって、ずらりと植樹された桜、桃、柳が並び、この頃にはもう花見の名所として大いに賑わっていた。
春にもなると桜見物の客で辺りはごった返し、現在でも満開の桜を肴に酒宴を楽しむ人出は大変なものである。
そんな土地の、わずかに端へ逸れた場所に大場道場はあった。
近くには門前で桜餅を売っている長命寺がある。
ところで、
出掛けには道行く人に(人攫い)かと間違われそうな恰好だったが、件の竹町の渡し付近まで来たところで紅卯が正気を取り戻し……というより、
「さっさと降ろせ、この馬鹿たれっっ!!」
朦朧と不確かだった意識から、ふと気が付くや宗右衛門に担ぎ上げられ、左手に川を望んでいるのへ慌てふためき、手足をばたつかせて抵抗したのを宗右衛門がようやく地に降ろしたというのが正解だろうか。
ともかく、そこからは自分の足で紅卯は歩き始めた。隅田堤に向かって。
実際は一度、向両国まで戻ろうともしたのだが、いかんせん帰るには中途半端な距離まで来ていることを思い、ほぼ諦めの境地といった心情で宗右衛門の道場に向かうのを決め、気の進まないせいで重くなりそうな足を無理に前進させる。
そうこうして歩くこと四半刻。
土手を下り、川からしばし遠ざかると、開けた土地が広がっていた。
近くの俗称、向島の辺りは、なかなかに繁華していると聞いているものの、少し離れただけでも土地の印象はがらりと変わる。
小さな店や民家、武家屋敷が点在しているのみで、あとは樹と草ばかり。
(これは、退屈するのにはもってこいの土地だな……)などと、腹の中で軽い悪態をついたりし、気を紛らわせていると、
「あ、せんせえ、あっそこです!」
やたら嬉しそうに、宗右衛門は大声を張り上げた。
見ると、道の先にある平屋を指差している。
小振りな家屋が多い中、そこは造りこそ粗末な感はあったが、敷地だけならその辺りの武家屋敷と大差が無い。
「あそこが私んの道場なんですよお。こっからだと見えなぁいですけいども、中にはお花をたっくさん生えてる綺麗なお庭があってぇ、とっても良いんですぅ」
「花……ねえ……」
「咲いてるのはぁ少ないかったりしますが、つぼみも可愛くって綺麗なんですねぇ」
「いや……まだ見ていないものに同意を求められても困るぞ……」
ひとりで上機嫌になっている宗右衛門に比べ、紅卯はことさら冷めた調子だったが、かといってこの馬鹿でかい子供のような男を落ち着かせるには、その道場とかに行くほかないのは確かのようだと観念し、早足で先を急ぐ宗右衛門の背中を見据えつつ、紅卯もそこそこ足を速めて道場らしき建物へと向かった。
ところで、
またしても余談だがこの時代、向島という地名はひどくややこしい。
江戸の中で最も有名なのは無論、本所七不思議などでも有名な本所に隣接する向島であるが、この時期、江戸にはこの他にあとふたつも同じ向島の名を持つ土地がある。
佃煮の発祥地として有名な佃島も、実はこの頃は向島と呼ばれていた(ただし正確には両者を区別するため、佃島のほうは鉄砲州にほど近いことから、鉄砲州向島と呼んで区別していたが)。
これは江戸や江戸時代に限ったことではなく、現在も全国に同じか、または似通った地名が多い事実から見て、それだけ人間の考えることなどというのは、違う人物でもそう大差が無いという証左かもしれない。
さて、閑話休題。
近づいてみて始めて気が付いたが、道場の敷地内には一本、梅の樹が生えている。
位置的にも紅卯宅の庭先に生えているのとよく似ていた。
紅卯宅の場合は玄関先、宗右衛門の道場の場合は門前という違いこそあったが。
不思議な一致もあるものだと、妙な関心を抱いた紅卯は、門前に根を張り、まだ花も葉も無い梅の樹へと近づいてゆく。
が、そこでふと違和感。
梅の樹に向けていた視線の端へ妙な影が映る。
気になり、少し目を横へと滑らせたところ見えたのは、今度は門。
宗右衛門が主という名目になっている道場の門。
しかし、紅卯の視線を誘ったのは正確に言うと、
開け放しになっている門扉の右隅、門柱に掲げられた縦長の看板。
前知識の通りなら、ここには『居合抜刀術真元流大場道場』と書かれているのが自然である。というより、そうでないとおかしい。
紅卯の場合、「医者は名を売って食うわけじゃない」といった考えから、医者であることすら看板には書いていないが、剣術道場は事情が違う。
まるで逆。名を売って食うのが剣の道。
どんなに腕が立つとしても、名を知られていなければ腕の売りようも無い。
例え、この道場が建前だけの似非道場だとしても、不審の念を持たれないよう回避に努めていることを英四朗から聞いているからこそ余計に、
その看板はあまりにも……あまりにもだった。
当たり前だが、看板に書かれた字は読めなくては意味を成さない。
だからこそ紅卯は自身の看板はすべてひらがなで書き記したのである。出来るだけ、多くの人が読めるようにと。
それに対し、この道場の看板はそれ以前の問題が山積していた。
まずは表記が漢字であること。ただ、この点に関しては譲歩も出来る。
見栄、はったりも剣術道場となれば必要な部分もあろう。
だがそれすら、次の問題点に比べれば極めて些細なことだ。
端的に言おう。この道場の看板、
読めないのである。
悪筆。単純に表現するならこの一言に尽きる。
だがこの看板の文字……いや、もはや文字と呼んでいいのかすらも怪しいその図形、もしくは紋様の如きものは、そんな生易しい表現で済ませることのできる範疇を完璧に超えていた。
見ているだけで、不安になる。理由は分からないが、何か得体の知れないものを見てしまったという、名状するのが極めて難解な何かがその看板からは滲み出ていた。
(もしかして、何らかの呪詛の類なのではないか……?)
究極的には紅卯の思考がそこまで飛んでしまうほど、この看板の持つある種の破壊力は尋常のものではなかったのである。
現実に、この看板を見てからの紅卯は原因不明の悪寒と頭重、大量の冷や汗といった症状を呈していた。
と、そんな紅卯を見ていた宗右衛門は、
「……せんせえ、大丈夫ぅです……?」
心配そうに声を掛けたものだが、相変わらずの独特な口調が災いし、今ひとつ気遣いが響いてこない。
さりながら、何かに憑りつかれたかの如く看板を凝視したまま硬直していた紅卯に、気を張るきっかけを与えることができたため、ようやく紅卯はひと息ついて看板から目を離し、また油断して視界に入ることがないよう、慎重に体を門の内側へと寄せ、憂慮と厭わしさの綯い交ぜになった重苦しい表情を宗右衛門に向けて語り始める。
「何とか……大丈夫だ。にしても、えらく危うい看板だな……相当に気をつけて目にせんと、読むより前に気がおかしくなるぞ……まあ、それ以前にこれを読める人間がいるかどうかが疑問だが……」
「そぉんなに、ひどい?」
「少なくとも看板としては相応しくないだろうな……読めないうえに、見た者の気を惑わす看板なんぞ掲げていたのでは、まずもってここが剣術道場と気付いてもらえんのに加え、妙な噂のひとつも流されかねんぞ……それこそ、下手をすると誰かを調伏でもしてるのだとか思われたとしても、私は一向、不思議に思わんね……」
言いながら、額から頬にかけて流れる冷や汗を、紅卯は手の甲で拭う。
冷や汗特有の、水のようにさらりとした感触のせいで不快感をなお感じずに済んだのが、せめてもの慰めと思えた。
しかし、
「それにしてもあの看板、どういった曰く因縁の品なんだ?」
呼吸も整って少しく落ち着いたところで、紅卯は看板のことを宗右衛門に尋ねたが、何故だか宗右衛門はうつむいて悲しそうな顔をするばかり。
「ん……どうした? あんたにも言いにくいくらいの代物なのか?」
「……ううん。別にそんなこととかぁ、ないんのだけれどもお……」
いやに言葉を濁すので、紅卯も何やら心配になってきた。
(まさか、宗右衛門さんもこれの呪詛にかかったんでは……?)と。
そう考えると筋が通る部分もある。
何よりも宗右衛門のこの病。これがまず看板のせいならば、ここで暮らしている以上は一度だけ見ただけの自分より、こうして重い症状が出て当然だろう。
ただし、疑問もひとつ。
もし宗右衛門の病の原因がこの看板なら、病の養生のために建てたという話の順序が完全にあべこべとなる。
筋道を立てるには良いかと思ったが、やはりそう簡単ではなさそうだ。
などという調子で、紅卯が通りそうで通らない理屈の筋に頭を悩ませていると、今の今まで珍しく黙りこくっていた宗右衛門が、
「……私ぃ……」
やおら声を発したので、
「うん? なんだい、気兼ねなんぞせず話してごらんな。何が手掛かりになるか分からない。ともかく言うだけ言ってみるといい」
「……」
自分でも意外なほど優しく聞いてみたものだが、再び宗右衛門の口が止まった。
さりとて、この場は宗右衛門から話を聞くより他に手掛かりを掴む術も無い。
ここは根競べと、紅卯はじっと宗右衛門が再度、話を始めるまでと覚悟を決めて眼前の宗右衛門を見据え、静かにその時を待った。
すると、
根気よく待ち続けた甲斐あってか、ようやっと宗右衛門はささやき声で、
「……私……のに……」
「……?」
「……私、一生懸命にぃ……書いたのに……」
「……」
かろうじて聞き取った途端、
道場の門を一陣の風が吹き抜ける。
露の間、時間経過がゆっくりとなったような錯覚がふたりを包み、
刹那、
無言の紅卯は、そっと宗右衛門との距離を詰めると、
全身全霊の力を込めた蹴りを宗右衛門の右すねに叩き込んだ。
一転、静寂に支配されていた道場の門前には、右足を押さえて転げまわる宗右衛門の苦鳴と、紅卯の舌打つ音が辺りに木霊した。