英四朗、罷り越しまして候 (2)
「どうも話されていないことが多いようですので、改めまして自己紹介から……私は大場先生に師事して只今は真元流大場道場に身を寄せおります、色宮英四朗と申します。以後、昵懇に願わしゅう……」
そんな二度目の挨拶を、英四朗は上がり込んだ紅卯宅にて勧められた座布団を一旦、辞してから板間へ直に座り、首を垂れてすらりと述べた。
どうも今日は平伏されるのも食傷気味になってきた紅卯は、わざと何の返事もせずに英四朗を見ている。
この侍、清兵衛とは違って過剰な礼節で相手を息苦しくさせる手合いではないだろうと見抜いたうえでの、言わば為人の確認であった。
事実、紅卯の目利きは当たっていたようで、さほどの間を空けずに英四朗は自ら顔を上げ、あてがわれた座布団へ座り直す。
これを見て、(どうやら話しやすそうな相手ではある)と感じた紅卯は、特に面倒な前置きは省き、お互いに知らぬところを補填するよう話を進めた。
「ところで真元流……聞いたこともない流派だけど、一体それは何の流派で何の道場なんだい?」
「剣術の流派です。正確には居合抜刀術真元流。ただ聞いたことが無いのは当然だと思いますよ。何せ、先生が立ち上げた流派ですからまだ出来て数年とは経っていないはずですので……」
聞きようによっては無礼にも聞こえる紅卯の質問にも、英四朗は穏やかな態度と口調を崩さない。
そのためというのでもないだろうが、紅卯は元から遠慮の無い話し方なのを、さらに遠慮無しで、英四朗に問いを続ける。
「剣術ねえ……とすると、その道場とやらも剣術の?」
「もちろん。というより当然でしょう。何でわざわざ剣術の流派を立ち上げたというのに、剣術以外の道場を開くんですか」
「英四朗さんとか言ったか……あんたが先生と呼んでるお人のことを考えると、その当たり前が一番、当たり前じゃなく思えるものでね。何せ、先ほど漏らしていた話の中で英四朗さんは宗右衛門さんを道場主だと言っていたが、そこからしてもう私には信用が出来ない。まさか担いでやしないかい?」
「本当のことですよ。担ぐだなんてとんでもない。第一、私が先生を担いで何の得があるというんです?」
「理屈から言うなら確かにそうだろうね。だが、だとしても私は引っ掛かるんだよ。あえて言わせてもらうが普通、道場主が竹光しか持っていない剣術道場なんて想像がつかないぞ。それとも宗右衛門さんは道場にさえ戻れば本身を持っているのかい?」
「……」
英四朗は、しばし沈黙。
つまりはその道場とやらに戻っても宗右衛門は真剣を所持していないということ。
でなければ、こんな反応はするはずもない。
そう考えるとなおさら紅卯はこの事情の意味不明さに、悩ましさから顔をしかめる。
それでも、少しして再び口を開いた英四朗に、紅卯は多少の疑問を残しつつも、ほぼ納得のいく回答を得ることが出来た。
「……先生が仰ったことの意味はよく分かります。言われてみればそう……剣術道場の道場主が真剣を持っていないなんて、とても道理の通った話ではありませんから。疑問に感じられるのは当然のことでしょうね……」
「だろう?」
紅卯が添えつけるように一言、英四朗へ言葉を返す。
と、これをきっかけにか、英四朗は少々、考える素振りをするや、急に詳細な説明を始めた。
「ひとつ、確認だけさせてください。先生は自分でこちらへいらしたのか。それとも誰かに連れてこられたのか。そこさえ分かれば、少しくは先生の疑問を解消できると思いますが……」
「宗右衛門さんは今朝、奥田清兵衛とかいう人に連れられてここに来た。こんなものでいいかな?」
「充分です」
「では、拝聴するとしようかね」
「あ、でもその前にちょっと……」
「……うん?」
「どうも……さっきから気掛かりだったんですが、大場先生も先生、鈴置先生もこれまた先生。話をしてゆくのに、何だかこれだとややこしくて……」
「ん……呼び方が被っているわけか……しかしその程度のこと、さほどに悩むほどの問題とも……」
変に下らないことで思い悩む英四朗に、紅卯は小首を傾げてそう言ったのだが、当の英四朗は聞く耳も持たずに露の間、考え込んでいきなり、
「そうか、簡単なことでした。こういう手があります」
「……?」
「今後は大場先生は『先生』、鈴置先生は『女先生』と呼ぶことにいたしましょう。単純ですし実に分かりやすい。うん、そうしましょう」
「……」
こう平然として答えたものである。
これにはさしもの紅卯も、それが多少なりとも考えた末での結論なのかと、発作的に英四朗を怒鳴り付けたい衝動に駆られたが、何とか気を落ち着け、いつも通り舌打ちひとつで収めた。
ただし、くすぶった感情が残ったのは致し方無い。
大体、宗右衛門を(先生)までは分かるが、紅卯を(女先生)というのはどこまでも理解に苦しむ。
まずほとんど略せてもいない。一文字削る程度なら、(紅卯先生)と呼んでも同じであるし、そのほうがよほどに分かりやすい。
しかし、ここはともかく話を聞くのが先決と、紅卯は堪えて英四朗の説明を聞くのに集中した。
「実を言いますと、道場というのは表向きの顔でして、本当のところは先生のために用意された隠宅のようなものなんです。道場の名目なら、それなりの広さがあっても御上から細かく詰問される心配もありませんし、先生が養生するには何かと便利ではないかと、そういう理由で建てられた……と言えば、ご理解いただけますか?」
「ほお……なるほど。さすが私の前に何人もの医者へ見せただけあって、それなりに配慮の仕方が分かっているみたいだね」
何も気鬱の病に限ったことではないが、大抵の病に対する治療の第一は、まずもって環境の変化、改善が肝要である。
これは病を得る原因が何であるかを特定するより、ともかく緊急避難としてすべての環境を変えるのが少なくとも病状の悪化を防ぐと考えられるからに他ならない。
紅卯より以前に宗右衛門を診た医者たちは根本治療の方途こそ思いつかなかったようだが、取り得る対策の中で最も大味ではあるものの、安全性と確実性が高いこの手段だけは進言したようだ。
「そんなわけで看板は剣術道場ですが、流派は先生のご提案です。実際にある流派を名乗っては、間違って『一手のご指南を』なんてことにもなりかねませんが、勝手に作った流派なら『他流試合は禁じられておりますゆえ』とか、いくらでも言い逃れが出来ますし。それに家督を継がれなかったとはいえ大身旗本の嫡男たる人ですから、建前だけでも剛健な風を装う必要があったわけです」
「……納得だな。それにしても剣術道場を装うとは考えたものだ。嫡子といえども、宗右衛門さんは家督を継いでいないから隠居の扱いも出来ない。隠宅としては住いを建てられないから……ということか」
「ということです」
「ふむ……」
妙に納得すると同時、紅卯は何か苛つくものを自分の中に感じていた。
武家の生まれの面倒臭さ。
浪人や貧乏御家人、仕官はしていても禄高が低く、生活苦の士分。
こうした人々も大変だが、下手に身分が高くても、結局意味が違うだけで大変なのは同じこと。
(心を安んじて、いざ療養をしようというのに、そこへ至ってまでなおも神経を使わなければならんとは……それでは気を病んで当然か……)
ついそんなことを思い、知らず知らずで舌打ちを漏らしていたが、英四朗は特にそういった行為へ頓着しない性格らしく無表情を通し、紅卯は無意識のため気が付かず。
無神経がふたり揃うと、揉め事が無くてよい。
「ですが、建前といっても変に疑われては痛くも無い腹を探られ、その過程で本当に痛いところが見つかってしまう危険もあります。なので、先生には形だけでも道場主らしく道場にいてもらわないと困る……そうしたわけで今日は先生をお迎えに参上をしたと、そういった流れです。不意の来客には私が応じていますが、とはいえそう長く道場を空けられると困るんですよ。要らざる不審は避けるが吉ですから」
「もっともな話だね。いちいち、もっともだ。それだけに……」
「……だけに?」
「やはり面倒臭いな。武士なんてものは、ほんとに……」
「……ですね」
英四朗は後ろに(でも仕方がないですよ)とでも続くように答えた。
理解も納得もしているが、かといって望んでやっているわけでもない。そんな、口にできない思いを匂わせて。
「さ、女先生の言う通り、面倒臭いことです。ですからこそ余計、さっさと済ませてしまいましょう。ほら、先生」
視線を移し、まだ飽きずに将棋盤と駒へ執着している宗右衛門へ英四朗は切り出す。
理屈をどうこう考えていても、ともかく目の前にすべきことがある事実が変わるわけでなし。ならば早くに終わらせて楽になったほうが良い。そういうことであろう。
とはいえ、宗右衛門は未練がましく、
「……帰んないとお、駄目ぇ?」
「駄目です」
言ったのを即座に否定し、英四朗は続けて諌める。
「それにこちらへずっと入り浸っていても困るでしょう。先生の家はここじゃないんですから。ともかく日のあるうちにご近所さんたちへ顔を見せてきてください。それさえ済ませてくれれば、別にまたこちらに戻っても構いません。問題は先生が道場にいないことで変に勘ぐられることなんですから。それ以上うるさく言いませんよ」
なだめすかすように言い、英四朗は宗右衛門の出方を待った。
宗右衛門はなお、ごねそうな気配を見せたが、口で英四朗に勝てないと分かっているらしく、ただ黙って体を揺すっている。
が、しばらくするや急に、
「分かった。帰る」
今までとは打って変わって、はっきりとした口調でそう断言すると、すぐにその場で立ち上がった。
ところが、
立って、ぐるりと身を捻り、紅卯と英四朗が座る辺りに視線を向けるとさらに一言、
「せんせえが一緒に来てくれるんなら、帰ってみる」
「……は?」
こんなことを付け加えてきたので、思わず紅卯は小さく吃驚の声を漏らしたか、
「では、そのようにしてください。どうぞ」
何故か当事者の紅卯を差し置き、英四朗が返答する。
当然、これに紅卯はすぐさま口を開いて、
「ま……待て、待て待て、何が……何が何だ?」
「問題ありません。さ、どうぞ」
「そうじゃなく、何であんたが問題無いと決めつけているんだよっ!」
「心配いりませんから、お早くどうぞ」
「だから、どうぞじゃないだろうがっ!!」
あまりにも勝手に話を収めようとする英四朗へ、紅卯も相当憤激したのか、最後には細い喉から、信じられないほどの大喝を発していた。
にもかかわらず、
宗右衛門は立ったまま、きょとんとした顔で紅卯を見ている。
英四朗は座ったまま、とぼけた素振りで紅卯から目を逸らす。
ここで分かることはふたつ。
ひとつ。宗右衛門は何故、紅卯と一緒に道場へ行きたいのかは謎だが、とにかくその意志を持っていること。
ひとつ。英四朗は何より優先して面倒事を片付けようと、紅卯の意思など関係無しで宗右衛門の思う通りにさせようとしていること。
この際、どちらがではなく、どちらも紅卯にとって敵対勢力なのが大問題だった。
宗右衛門は人の話を理解しない。
英四朗は人の話を聞く気が無い。
揃って理屈が通じないのである。
だからといって、紅卯も黙って勝手な話を進行させる気は無かった。
そのため、諦め半分の気持ちで精いっぱいに自分の立場というものを語り始める。
もちろん、語り掛ける相手である宗右衛門、英四朗、双方共に聞く耳を持っていないだろうという絶望感はあったが。
「あのな……私は何も遊んでいるわけじゃないんだ。こう見えてもやることは山ほどあるんだよ。第一、医者の私が家を空けたら、誰か訪ねてきた時どうするんだ?」
「大丈夫ですよ。留守番は私がしています。おふたりでゆっくりと、道場と道場周りの見物でもしてきてください」
「……いや……だから、あんたが留守番してどうなるんだ……私は医者で……」
「もし病人が来たなら、他の医者を紹介しておきます。ですので、ご心配無く」
「……だ、違うんだ……そうではなく、私が言いたいのはそういうことでなく……」
それを最後、紅卯の口が止まる。そこへ完全に取り付く島も無い英四朗に心が折れたところを見計らったかのように、近づいていた宗右衛門は紅卯の左脇へするりと右腕を差し込むと、ひょいと担ぐように立たせ、ほぼ宙に浮かせた状態で玄関へ向かう。
「じゃ、色宮さぁんは、お留守番を頑張ってねえ」
「はい、いってらっしゃいまし」
そうふたりは言葉を交わすと、宗右衛門は糸の切れた人形のような紅卯を背負って、すたすたと外へ出ていった。片方の、空いた左手に紅卯の草履を持って。