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花畑宗右衛門 乱刃録  作者: 花街ナズナ
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英四朗、罷り越しまして候 (1)

清兵衛が紅卯宅を出て半刻ほどが経過した。

彼らの来訪が朝四つ半頃であったので、今は午の刻。昼九つ半も近い。

そんな現在、紅卯は清兵衛が置いていった袱紗の中身を見据え、頭を抱えている。

宅から辞する際、「当座の薬料にござりますれば、どうぞお納めを……」と、鶯色の袱紗包みを残していったのだが、しばらくしてふと中身を確認した時の衝撃はもはや思い出したくも無い。

「大身の旗本だとは分かっていたが、まさか手付だけで『切り餅』ひとつ置いていくとは思いもしなかった……くそっ!」

言いつつ、紅卯は腹立ち紛れに何度も舌を打った。

さて、

ここで言う(切り餅)というのは、当時の俗称で二十五両の包み金を意味している。

そこから派生し、単に二十五両のことも(切り餅)と呼んだが、どちらにせよ一般の庶民には遠く縁の無い世界の話であるのは確かだろう。

「しかし、何にしてもこんな大金どうしたものやら……医者町(薬研堀の別称。現在の東日本橋内に立地していた)の薬問屋へ溜まった付け払いを返しきっても、軽く二十両は余るぞ……」

持ち慣れない大金というのは下手に持つと落ち着かないもので、そこは紅卯も御多分に漏れずであった。

家のどこかに隠すとしても、そんな場所は特に無いし、かといって常に懐に仕舞っておくのも落ち着かない。

大体、高くて効果の強い原料よりも安くて効果の弱い原料を上手く調合して最適な薬を如何に作れるかが医者の本分だと考えている紅卯にとって、二十五両などという金は無用の長物とすら感じる。

と言って、ろくに患者から代金を取らない紅卯は、時にどうしても必要な薬の原料が買えない有り様になることもしばしばであり、そこを思うと緊急の際に使う虎の子という形で貰っておくにはやぶさかでないのも確かだった。

実際、江戸では「一分金を持たざるは人にあらず」とまで言われるほど、金を持っているか、いないかが直接その人間の価値を示す残酷な面があるのは確かである。

まあ、そういった感覚は言葉に出さぬだけで、今も昔もそう大して変わりはしないのだが。

などと、大金の魔性に少しく心を乱されている紅卯を気にも留めず、当の患者である宗右衛門は飽きもせずに将棋盤と駒に向かっている。

ただし、まともに将棋を指したりなどはしていない。

駒を一定の間隔で立ててゆき、最後に端の駒を弾いてすべての駒を倒す……いわゆる(将棋倒し)で遊んでいるのである。

静かにしていたと思うと、しばらくして、からからと駒の倒れる音と共に嬉しそうな声を上げて宗右衛門は体を揺すっていた。

それを見ながら、

「……まったく、当の宗右衛門さんは気楽でうらやましいな……先刻、あんたのために私と清兵衛さん、合わせてふたりが命を懸けたというのに、呑気なものだ……」

小声で言うと、これも小さい舌打ちをひとつ。

何とも、傍から見ていたなら人としてどうだろうかという態度を通している。

さりながら、紅卯の医者の部分はすでに治療に関する具体的な考えを始めていた。

(見たところ、痩せてはいるが肌艶は良い……声も力があるから、虚証よりやや実証寄りと考えるべきだろう。それと、確か宗右衛門さんの親父さんは中気を病んでいるとか聞いたな……だとすると、宗右衛門さんもそちらの気質が伝わっている可能性が高い。まずは柴胡加竜骨牡蛎湯を少量から始めて様子を見るべきか……)

当人を直接診断していないため確定診断ではないが、見聞きをした事柄からだけでもここまでは治療の方向性をまとめている。

そこには古方派の漢方医、鈴置紅卯がいるのみであり、職業的な集中力でもって思考を巡らすその姿には人間としての性質に関わりなく、医師としての職務を全うせんとする純粋な意志だけが存在していた。

野生と理性。絶対的な対極。

その有り得ないはずの二面性が共存するのが、人間という生き物のある種、本質なのかもしれない。

「ほらぁ、せんせえ、またうまぁく倒れましたよお」

「……それは良かったね……」

はしゃいで駒の倒れた盤を指差し笑う宗右衛門に、紅卯は怒りを通り越した呆れ声で応じる。

と、まるで大人と子供の他愛無いやり取りのような会話をしていた時だった。

「御免下さいませ」

若い男の声が玄関先に響く。

紅卯は(何だか今日も忙しそうだ……)と思いつつ、清兵衛の時に同じように、

「戸は開いてるから勝手に入ってくれ。遠慮はいらん」

そう言うと、わずかに間を置いて同じ男の声で、

「それでは、お言葉に甘えまして遠慮無く……」

返答しながら板戸を開けて玄関へと入ってきたのは、

総髪の、涼やかな顔立ちをした若い侍であった。

宗右衛門より身の丈はやや低いが、これは長身の宗右衛門を基準にするのが悪い。

軽く六尺を超える宗右衛門が異常なのだ。

それでも総髪の若侍はおよそ五尺半以上ある。

肉置き(ししおき)は全体にたくましく、といって太すぎるというのでもない。

骨に心ばかりの肉付けをしたような宗右衛門を枝に喩えれば、この侍は幹といった風だろうか。

表情は乏しいが、眉も耳も、目も鼻も口も、すべてに均整がとれていて、うりざね顔のその容貌は、どこか中性的な印象を受けた。

歳は二十歳前後。少なくとも一見してはそう見える。

薄紺の着流しに二本差し。そして身分は当人の口から語られた。

「お初に御目にかかります。私は名を色宮英四朗しきみや えいしろうという、見ての通りのしがない浪人者です。卒爾ながら、もしや貴女が医師の鈴置紅卯先生でしょうか?」

堅苦しさの代わりにえらく丁寧で当たりの優しい話し方をする。

相も変わらず表情はほとんど見て取れないが、それを差し引いても第一印象は決して悪くない。

形は違えど、宗右衛門と共通している部分。

侍の侍然とした特有の威圧感、優越感といった下らない見栄が、この英四朗と名乗る若侍からも感じ取れなかったのが紅卯にとって何よりだった。

が、話を進めてゆくにつれ、実はこの英四朗なる侍もまた、宗右衛門に負けず劣らず厄介な人物だと、紅卯はすぐに知ることとなる。

「ああ、確かに鈴置紅卯は私だよ。けど、見ての通りの割には二本差しか。今日日、れっきとした御家人でも銭が無くてピイピイ言ってるってのに、浪人身分でまだ脇差も売っちゃいないのは珍しい。今後は自分の姿がどう人には映るのかを考えてからものを言うようにしたほうがいいな」

変わらず、崩した返事を紅卯は発した。と、それに合わせて英四朗は軽く会釈をし、

「これは御忠告をどうも。急にお邪魔してすみません。いえ、看板らしい看板も見当たらないもので、家を間違えたりしたらどうしようかと心配でしたが、ちゃんと辿り着くことが出来て安心しました」

と、紅卯の明らかに無礼な言にも不愉快な顔すら見せず、言葉通り安堵した口調で言うや、小さく溜め息を吐く。

しかし、声には感情を含んだ抑揚があるのにも関わらず、英四朗の表情はやはり能面の如く変わらない。

この違和感を、紅卯は以後しばらく感じ続けることになるが、大雑把な彼女の性格である。さほど時を待たず、何とも感じなくなったことは説明も不要だろう。

「で、英四朗さんとやら言ったか。今日はどういった用件だね。見たところ特に具合が悪いようにも思えんが」

「はい、おかげさまで至って健康です。されば用向きというのは病のことではなく、人を探しておりまして」

「人探し……?」

はてと思い、紅卯が疑問の声を漏らすや、英四朗は懐から手紙というにはあまりにも簡素な、しかもぞんざいに折り畳まれた紙を取り出すと、やおら広げて見せる。

四つ折りにされていたので分からなかったが、広げられるとかなり大判な鼠色の宿紙で、そこには(あいきちょうのこううせんせいのとこにいってきます)と、恐ろしいまでの悪筆……というより、むしろ字なのかどうかすら危うい筆致のものが、乱雑に書かれていた。

これがどれほどの悪筆であったかというと、

差し出された紅卯がこれを読み解くのへ、悠々と煙草を一服する程度の時間を要したと申し上げれば多少、お察しいただけましょうか。

「今朝、目を覚ましますとそのような置手紙があり、内容を頼ってこちらへ辿り着いたという次第なんですが、どうでしょう……それ、お読みになれますか?」

「……まあ、どうにか読めはするが……これは事情を知らん人間が見たとしたなら、たとえ読めたとしても何が何やら意味が分からんぞ……」

「ですよね……実際、私も何が何やらと頭を抱えまして、手紙を見つけてから意味へ気付くのに、今朝は辰の刻に起きてからこの時刻まで掛かってしまいました……」

「それは……どうも、朝からご苦労さんだったね……」

「恐れ入ります」

といった具合で、これもこれで奇妙なやり取りをしていたが、やにわに、

「……では探し人も見つかりましたし、すみませんがちょっと上がらせていただいてよろしいですか?」

「……は?」

「いえ、もう探し人は見つかったので、連れて帰るのにちょっと上がらせていただけないかと……」

「……ああ、やっぱり探し人っていうのは、あの人のことかい……」

言って紅卯が足を崩し、あぐらをかいて将棋盤に向かっている宗右衛門を指差すと、

「まさしく、です」

手短な返事をする英四朗に軽くうなずいて、

「おい、宗右衛門さん、あんたの知り合いらしき人が迎えに来てるけど、英四朗さんという人、知っているかい?」

聞いてみると宗右衛門は、

「うん、知ってますよお。だってぇ、私んとこで師範をばしてくれてますからあ」

目も向けずにそう答え、なお将棋盤に駒を立ててゆく作業に没頭し続けている。

この応対には一瞬、紅卯も舌打ちをしそうになったがそれよりも、

「……師範?」

混ざっていたこの言葉に、反応が優先された。

すると溜め息の音がひとつ、耳に入ってくる。

無論、英四朗のものであった。そして続けざまに、

「呆れましたね……仮にも道場主たるお人がこんなところで怠けているとは。いくら私以外にまともな門人もいないからとはいえ、看板を掲げている以上はそれなりにしてくれないと困りますよ先生」

言ったところで、またもや深呼吸でもするように溜め息を漏らした。


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